育児と少子化

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物忘れがひどいと感じている人の大体は、習慣化できない生活や行動をしているせいだ。30歳ぐらいを過ぎると気にしている人がままいるし、僕もよく何かを忘れたり忘れそうになるが、習慣化できていないのだから抜けるのはまあ普通のことである。油断しても差し支えない状況の人も同様。しかし、それでも忘れない人抜けの無い人というのがいる。それはその人が特別ですごいのだ。記憶と行動の組み立て方が違うんだろう。コツがあるような気もする。‬

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‪議員は子を連れて仕事しても良いという意見が多いようである。では、電車の運転手はどうだろう。保母さんはどうだろう。清掃員はどうだろう。パン工場の製造員は、タクシードライバーは。葬儀場職員はどうだろう。銀行の窓口係はどうだろう。警備員はどうだろう。‬

‪色んな例を混ぜてみたが、全部適してると思えない。どうして誰かの作った仕事の枠組みの中で仕事と育児を混ぜようと思うのだろう。答えは簡単なんだ。仕事など辞めれば良い。子が大切であるなら議員などやっている場合では無い。そこで自分の夢がとか、積み上げてきたキャリアがとか、そういうようなことを引き合いに出すのなら、子と過ごす時間で無理に自分の時間を満たす必要はない、やる事があるのだろう。それが自分であると思う人がいるのはとても自然だと思う。ただ、引き合いに出てくるのがもっと裕福な暮らしのためのお金であるなら、その愛とは何かをよく考えると良い。あと、権利を主張したいなら、まずは裁量を持つように頑張ろう。人のお金を権利があると我が物顔で使い切ろうとする人は、分かつことの大切さを思い出して欲しい。自分だけが得ることの愚かさは相当に酷いことだ。もう少し突っ込むと、これは経営側も意識することである。双方が意識してはじめて釣り合いが取れる。僕が見かける範囲でもまあ実感するが、酷い社長が少なくないからこその現状ではあるのだろうが。‬

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育休を使って少子化対策しましょう。育休に理解が無い?育休が取れない会社なんてあるの?少子化に対して意識が甘いし、真剣に取り組んでいない!

って言い分を見かけた。育休の権利を主張し無理に行使している人も少子化を真剣に自分の問題だと捉えているようには見えない。女性に出産育児の負担がかかるのはよくわかるし大変だ。男性が共に行うべきことなのは間違いない。と言っても、女性の負担が無くなるわけがなく、負荷がかかることには覚悟をして、負荷が軽くなることを喜ぶスタンスは必要だろう。負荷がかかるのは夫が悪いなんて考えは、妻の支え方が悪く生活上の無用な負荷があって仕事ができないと主張する男性と同じだ。

少子化と育休の充実に相関関係はあるだろうか。ホームレスの増加と生活保護の充実に関係があると思うか。正確に対比できることではないが、どちらも多くのケースで関係は無いと感じる。育休が無いと子が減るのか、考えればわかるだろう。子を持つことと若い自分の欲求の実現を天秤にかけますか?子の素晴らしさを実感しようとしていないからこんな簡単なこともわからず、結婚出産育児、でそっからは自由、みたいな手順を目安に生きてしまう。

出産育児をすることで生活上大きな制約があるだろう。それを自分の自由の内にあると考えることはできないだろうか。辛いのが嫌、からの自由になりたい気持ち。自由を思いっきり履き違えていたとしたら、果たしてあなたは恥ずかしくないだろうか。ごく真っ当に生きているつもりが、自由を履き違えていただけのことでその全てが単なる子供じみたわがままに成り下がってしまう。

育休の話から離れてきたから話を戻す。育休をたくさんとることの是非。世帯収入が多い人は育休いらないでしょう。残したいほどのキャリアがある人も育休いらないでしょう。本当に必要なのは、働かないでも家計をある程度維持できることでぎりぎり生きていける人たちだ。待機児童問題も同じ。世帯収入が多い人が安く出産育児を行いたい理由は、貯蓄したいから。使い道は家族の安定した暮らし、子により良い学習の機会を与えるため。それを理由に育休の権利を主張するなんて、なんとも浅ましい。誰に回るかわからないけど、うちは多少余裕あるからという声の少なさに驚く。なんなら若いうちから老後のお金にまで意識が向いている。お金のことはとても大事だけど、自分の将来のために自分の努力ではなく他人を押しのけることをやってそのまま数十年も過ごせば。。。大きく歪んだ人物がそこにいそうな気がしないだろうか。それがあなたの欲しかった自由の行き先だろうか。もっと明るく幸せなはずではないだろうか。その明るい将来で我が子と孫と暮らす姿は思い浮かばないだろうか。いや、この話はいいや。

キャリアを残して、充実したやりがいも手応えも収入も地位もある仕事を出産後も続けたい。それが自分の人生だと思うなら、それはもう少子化に注力はしていない。ついでにやってやろうかぐらいのもんだろう。それを誇らしげに語るのはあまりよろしくないと思うけど、まあ個人の好き好きなので止めはしない。ただ、育休を良しとできない社会を叩けるほどのことはしていないとは自覚してほしい。育休も保育園も生活保護も、もっとまともに機能するようになると良い。余裕のある人は遠慮しなさい。そんなにいらんだろうに。

頼んでくれるんだからやろうかなって思う気持ち。ピース。

デジタルネイティブと反復

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これからはますますデジタルな世の中だから、デジタルネイティブが重要なんて話を未だによく耳にする。リテラシーの育成みたいなことを考えながら苦慮しているけど、人生の一番の基本は倫理だ。道徳が促すような正しさは必須ではないが、僕らが生きていく中では、ある程度時代に沿った形の、でもそういう社会的影響を受けても変わらない根源的な部分ももっている共通観念を必要とする。それが倫理だ。

今ではスマートフォン、タブレットといった電子端末を子に与えている人が多い。無尽蔵にやってくる膨大な情報群、手が出せさえすればそれらを簡単に手にすることができる。そこにも問題は多く含まれているが、今回はもう少し単純なことに目を向ける。

電子データに触れるときの体感について考える。得られる情報は様々ではあるものの、触覚としては均一なものしかくれない。このような手ごたえの無さに加えて、見過ごしたり間違えたとき好きなように戻せることは、便利ではあるが問題も含んでいる。戻れないことが当たり前でなかったり便利であることすら意識できないかもしれない。そしてそれと同様ではないことが辛くなることも問題だ。

少し拗れれば繰り返すことの意味がわからなくもなる。僕らにとって、反復ほど実感をくれるものはそう多くない。学校で教わることは人生にとって無意味だ、というような考えを持っている人もいるが、それは大切なことを見逃している。教わる内容の如何に関わらず、様々なことについて反復して何かできるようになったり、何かについて深く認識することが一番大きな成果で、それができる場所が学校である。そこを見誤ると反復して得られるものに対して意味を求めたりする。

また、反復がくれるものは具体的な知識や答えではなく、世界にはどういうことがあるのかという多くの実例から学ぶ、人生で訪れる出来事たちに応じるための知恵である。そういう知恵はすぐに明快な解決や答えをくれることはないが、生きれば生きるほど溜まっていき、ある地点から現状に応じる以上の能力として予測するという能力をくれるようになる。反復が無いまま知恵が根付くことはないことを思えば、繰り返し同じことをする意味を問う子に対し、叱ってやることの意味は大きいし、堪え性を養う意識はとても大切だろう。

堪え性が無い状態。少し極端に想像してみると良い。毎日の生活から積み重ねられて対処を求めてくるあれこれに応じなければならない現実に対し、面倒だと判断する気持ち。毎朝目覚め、代わり映えのない食事をし、同じ経路で同じ場所へ行き、同じことをして家へ帰り休み眠る。もう少し具体的に例えれば、社会に出て、製造工場での流れ作業、レジ打ち、梱包、草抜き、大工仕事のような細かな工程の膨大な積み重ねを前に途方に暮れ、気が負けてしまうようなこともあるだろう。そんなことに負けてしまう人生は幸せに向かうことがあるのだろうか。その辛い将来はスマートフォンから始まっているのかもしれないと思えば、我が子が望むことであったとしても、それを諌めるのが親の役割である。子の願望がより具体性を帯びるなら、頃合いをみて渡してあげるのが子育てではないだろうか。

iPadを渡しておけばYoutubeをみて静かになると、その有用性を認めているのはわかる。だが、怒鳴って叱りつけるほど静かにしなくてはいけない場所へわざわざ出かける理由とはなんだろうか。離婚の多いこの頃だ、シングルマザーの方かもしれないし、追い詰まった状況もないとは思わない。しかし前にも少し触れたことだが、ベビーカーを押す母親が未だに目につく。歩けるだろう手足を持った子をそこへ押し込めて母親本人はiPhoneで何かをずっと見ている。そういう光景を目にする機会が本当に多い。母親がここまで我が子を見なくなったのは大きな問題だろう。押し込めざるを得ない状況が想像できるのに、なぜ出掛けるのだろうか。1年中出掛けないのは息が詰まるだろう、息抜きは必要だ。どうしても行かなくてはならない用事だってある。だが、そういうのは特殊な状況で、ある程度の我慢が必要な期間などたかだか3〜4年ほどのことである。しかも、親と子にとって最も密接で輝かしい3年間なはずである。社会に対して、子と過ごす時の不便を訴えるということは、その状況を特殊なものではなく難のない日常にしたいと言っているように聞こえる。難のない日常にできれば、望むままの行き先で子は大人しく(もしくは安全に大暴れ)して、親はiPhoneを見るのだろう。それは子のためなんだろうか。親の都合で子をコントロールしたり、子を盾にとって快楽を手軽に得ようとしているだけ、ということである可能性が僕の頭からはなかなか離れない。

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書きたいネタはだいぶ溜まっているのだが、良い感じにまとめるのがなかなか難しい。話題が繋がっていたり、先にこっちをみたいなこともある。順序立てて理路整然と書こうとは全く思っていないから余計に難しい。

まあ何を書くにしても、今後話題にすることは自虐的な内容が多くなる。だけども息子のプロとしては、自分が痛いからと痛い内容を避けることはしたくない。インターネットの世間に流れる言ってはいけないムードを少しでも打破したい気持ちもある。自分に棘がいっぱい刺さっても突き進もうと思う。

少し話は逸れるが、僕よりぐっと若い世代にある強い傾向を感じる。それは対面したときの会話の中で、当たり障りのない言葉があまりに多いと感じること。とても優秀な若者がいわゆる論理的思考というのだろう、軽い言葉を重ねに重ねて正しいようなことを言っている。半分ぐらいはそれが正しいことだと思えないし、そういう正しいことを言い合う会話をしたいとも思わない。思ってること、本当のことを言えば良いのに。僕はそちらに関心がある。

若い人たちは社会を陰鬱なものと思いすぎているのだろうか。リテラシーの育成が悪い作用をしている気もするし、親からの影響も大きいのだろう。防御のための理論武装は自分の意思を損なわせることに繋がる。長く短い人生では理論じゃなく自分の意思で武装した方が面白いし役に立つと思う。

そして、こういう状況を利用しようとでもしているのか、今のインターネットには嘘や悪意が満載だ。Googleが教えてくれることは本当のこと良質なこともとても多いのだが、ある領域では悪意が渦巻いている。人の役に立とうとしているGoogleがそういうことを放置している現状にももちろん問題は大きい。しかしそれ以上に、親になった人たちがそのことに気付いていないか、気付いても言わないか、どちらかはわからないが問題に対策したり解決しようという流れが世間的に出てきていないところに危うさがある。

横山は果たしてインターネットの何を見て悪いと言っているのか。。。と思った方のためにも簡単な例を挙げておく。ウィルスやマルウェアのようなものはみんな危険だと認識しているだろう。それ以外で身近で目に見える良くない例としては、eメールが開発され使われるようになって以来、迷惑メールをどうにかしようとする動きが少なすぎることだ。専門家は注力して取り組んでいるだろうが、その他の一般の人たちの意識はそれほどこちらを向いていない。この問題に真剣に取り組まない判断基準としては、関わらなければリアルに影響はないから、ということだろうか。もしそうであればこの判断基準は実は結構危うい。警戒すべきはウィルスと分かりやすい詐欺、あとはカードの不正利用ぐらいに思っている。でもそのうち深刻な問題になってくると思うが、Googleで検索をして表示される結果上位5-10ページ分ぐらいを占める嘘で固められた情報群を目にする機会も少なくない。(この内容についてはまた別の機会で詳しく書くつもり)またGoogle以前に、ここは本当に日本だろうかと感じるような、情報統制とも言えなくはないようなことを平気でやっているプロバイダさえある。色々なことを体験してみて、こういうことは自分の中だけのことにするときっと実害が増える一方だろうと感じたので、同じように感じている人、危機感を感じてくれる人が周りに増え真剣な取り組みが増えるきっかけになるのなら、僕ぐらいは言いにくいことをはっきり言っちゃう痛い子でいようと思って書いている。

さて、関係のない前置きが長くなりもはや本題になりそうだったが、ここでようやく本題に入る。いきなりお前が言うなという話題だ。結論を簡単に言うと、子を産むなら20歳そこそこが良いということだ。当たり前といえば当たり前なのだが、それでも世間の波はそっちを推そうとしていない。例えば40歳の僕が子を持つとする、子が30歳のころ僕は70歳だ。青年30歳の心境や状況はというと、30歳を経た皆さまならわかると思うが、既婚未婚や子の有無にかかわらず多くの人は安定しているとは思いがたい。当人のおかれる立場に立つと、運が悪ければ70歳の親の介護など大きな負担を抱えることもあり得ると少なからず考えるだろう。それは必ずしもマイナスではないが、子にとっての、良い人生の一助になるものでもない。

子の夢や願望に対して、叶えてあげたい、なんでもしたい、と口に出す人がいる。そう言うことで子の良い将来がやってくるかといえば、それはそうでもない。親の面倒、親族とのあれこれ、お墓のこと、などなどを考えると、「○○になりたい!」っていう子の浅慮な気持ちに大きな疑問を投げてあげることがないのは問題で、後々おかしなことが起こってくることもある。

なんでも叶えてあげたい気持ちはとても前向きな愛情だ。でも、そっと裏返すと実は問題のタネを植え付けていたり、そもそも子にネガティブなことを言いたくない自分の気持ちの表れでもあるかもしれない。親の尊厳、自分の見栄、何故か不遇な時代と信じ憐れむ気持ち、自分の不幸な体験の逆を与えようとムキになること、こういうことがもし隠れているのであれば、そのオモテ側の愛とは一体何であろうか。これはとても個人的で微妙な話題だ。線引きなどできない、自分で考えるしかないものだ。

ここで、僕の祖母のことを少し書いてみる。彼女は僕のことを盲信的に愛してくれていた。35歳にもなる僕に、ひろちゃんが一番かわいいんじゃ、と言い続けていた。亡くなるまで、例え認知症が進んでも僕にだけはほぼ変わらずに愛情をくれた。そのことは本当に僕の財産であるが、一方で、おばあちゃん、本当に嬉しいのだけどごめんねという気持ちも大きかった。僕が祖母から離れて暮らしはじめ15年、前半は遠くとも頑張りんさいよと応援の声をくれていた。その後も態度が変わるわけではないが、後半には再び一緒に暮らすために岡山へ帰ってくりゃーえーが、と言ってくれていた。しかし、岡山へ帰って僕ができる仕事は限られると思っていた。当時好きだった人もいた。

祖母が亡くなってから時折、彼女の人生や暮らしを静かに思い浮かべている。祖母は割りと若いころに夫を亡くした。それ以来、子を育てるためにも自身で仕事を懸命にがんばっていた。若い頃から花が好きで年をとっても生け花を人生の一部にしていた祖母は、僕によく花のことを教えてくれていた。僕が物心ついた頃から膝が悪く正座ができない、走ることもできず歩くのもとてもゆっくりで、ほとんど常に痛みを感じていたかもしれない。そんな祖母はゆっくり動くことはできるものの、活発に動き回ることがままならないので、生活するための行動以外では1日に数回お花と接する時間があるだけで大体ずっとベッドにいてテレビを観ていた。テレビに映る美しい景色を、きっと実際に見たいなと思っていただろう。美味しそうなもの、バレーボール、旅行、恋愛、家族、感動などなどあらゆる体験や感情に繋がるそれらを、ままならない体で観ていたのだ。その気持ちを厳密に想像することはできない。でも、あらゆることへの願望が形を変えて僕に届いていたと思った。それに早くから気付いていれば何か違っていたかもしれない。僕の踏ん切りがつかぬまま祖母は亡くなってしまった。

これは別に悲しい物語でも、僕の深い後悔の念でも無い。よくある普通のことだろう。普通のことではあるが、自分の人生をできるだけしっかり受け止めることをしない人は多いのだ。夢がある理想がある自由があると掲げたものの眩しさに引き寄せられているだけだ。

しっかり受け止めようとするのであれば、状況を冷静に少し長いスパンで考え、不足しているなら子の大学進学や都会での一人暮らしなんか認めてはいけない。この不足かどうかの判断とは、自分の年収や貯蓄が多い少ない、資産が有る無いに限るようなことではない。例えば僕の場合。これから、仮に僕が二人の子を授かるとする。横山家にいる僕というだけでなく、横山家にいる僕の父の子であり2児の父でもある僕ということから、この二人の子に人生をしっかり進んでもらうため僕にできることを考えて、責任を持って行動、決断することが必要だろう。そう思うと、我が子らにやりたい仕事やチャレンジが強くあるのであればそれを後押しできれば良いが、そういう強い意志がないのなら、進学するならうちから通うようにと子の外側から決定をするだろう。それは僕の意地悪でも利己的な強要でもない、覚悟を持って子らの人生の条件になるということだ。

子に対し、自分がこの子の人生の条件だと自覚している人はどのぐらいいるのだろうか。持ったことのない僕が言っちゃうが、子を持つということの責任とは健康に育てること、しっかり教育すること、立派で自由な人生を歩ませることなんかではない。それは責任でも覚悟でもなく願望だ。この子の人生の条件に自らを据えること、それとその条件を克服し得るだけの心身になるよう支えてあげること、こういうことを成し遂げることが責任を持つということだ。親戚付き合いは面倒極まりなく、お墓など時代遅れだ、と軽く言っている人は、自分がいかに覚悟から遠くにいて、当人たちの性質にもよるが責任を果たせない可能性があるかということをよく考えてみてほしい。

親戚や友人との人間関係、土地に対する愛着や理解、こういう資産は子の人生にとって大きなものになる可能性が高いものだ。でも進路を決めるとき我が子から、東京が良い!東京へ行くんだ!って言われ喧嘩になることも想像できる。家族構成や親族一同の状況次第だが、明確な目的、何とか大学の何とか教授のもとで勉強したいとか弟子入りしたいとか、そういった意思でもない限りは、親子の折り合いが最悪になっても、なんだかんだ言われても絶対に曲げないことも必要と思う。地元にいて大学を経て、本人の気持ちが固まるなら可能な範囲でどこへでも行けば良い。親としては自由にさせたい、都会での経験は重要だと迷うかもしれないが、たかが4年のことだ。意思が明確でない子に対しての、たった4年間の制約から大きく損なわれる人生なんてないのだ。向こう見ずに都会へ出ることのリスクを見据えられるのは間違いなく親だけである。意思を持っていない子の願望を尊重するかどうかはよくよく考えなくてはいけない。

前に書いた「自由について」に通じるが、子を守りたい親の気持ちは目に見えるものだけに留まっていてはいけない。ある自律の後に開けることが本当の自由であると思う。

体の使い方

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20代の中頃には色んなことを考えていたが、その中で大きな関心の一つが自分の体のことだった。これは健康のことではない。身近な友人は僕が健康を害していたことを知っているが、それはある程度のトライ&エラーによって心情的には落ち着いていたし、運良く回復した。自分の体のこととは、自分の体をどう動かせているのか、ということでそこに大きな関心があった。

自分が指を、ここでは小指を動かすことを考えてみる。まず普通にやってみる。ありがたいことに五体満足なので普通に動く。それはそれで良いのだけど、ここで念力で物を動かすみたいな感じで自分の指をじっと見つめ、動けと頭で思ってみる。動かない。この2点の間をずっと探っていた。できるだけ集中するために寝転び目を瞑り、そして動けと頭で思ってみる。やっぱり動かない。で、何の気なしに動かす。ひょいと動く。これは一体。。。と未だによくわからないけど、こういうことをしていて、日常の体の使い方に意識が向くようになった。(状況を冷静な態度で思い出せば、我ながらバカみたいだが)

色々な経緯の後、大きな気づきの一つは歩くことだった。わかりやすい例を出す。これは男性の方ができていない人が多い。靴の事情が大きいのかもしれない。肩で風を切りながらあるくアッチ系の人を思い出してみてほしい。股も開いてドシドシと歩いている。あそこまで意識すればそれはそれで良いのだけど、あの足の動き。つま先が前を向いていない、大げさに言えば横を向ききっている。この想像を頭に残し自分の経験を思い起こすと、20代の前半から後半に差し掛かるに従い、足の動きが緩慢というか意思が弱いというか無いというか、進む意思はあって骨は動かしているけど肉は勝手についてきているような状態の自分を思い出せた。それでこれがどうかと言えばつまりは、自然につま先が横を向き始めていたのである。

これに気付いた時、歩くとき僕は一体何を考えていたのかと思った。何も考えていなく、ただ自然とやっていただけなのだが、そこに大きな問題を感じた。さっきの小指が動く・動かない話と同じように、家を出て駅まで行こう!と自然とやっていただけなのだが、駅まで行くという頭を使った行為であればもっと意思を反映させられるはずだ。意思がなく惰性から行為を行うから、つま先がどんどん自然と前を向かなくなったんだと思った。

そこで、歩き方を自分なりに見直してみた。僕は高校生の頃とても好んで弓道をやっていたので、足腰のバランス感覚がわりときちんと身についている。(鍛え上げて、しっかりしているという意味では無い。自分の形がどうなっているかの体験が積み重なって感覚を維持できている感じ。丹田。)そのおかげもあって、前に向かって歩くとき、つま先を前に向けしっかりと地を蹴り前へ進むことが割とスムーズに行えた。5年ぐらいはかかっただろうか、あまり意識しないでもつま先が前を向き歩くことがごく自然に身についた。この経験から思うのは、地を蹴り前へ進むように歩くととても楽で効果的、それにお腹に軽く力が入っているから全体的な姿勢としても楽ということ。

こういうことにすごいなーと思う一方で自らを省みると、母から「ピシッとしなさい」「シャンシャン歩いて」と言われていたのを思い出した。言われた当時小学生の僕はと言えば、何度も言うから気にされているとはわかるものの、正直何のために言っているのかは分かっていなかった。もう少し言えば、母が言うようにするには力が必要で維持するのが結構辛かったのを覚えている。しかし、ここに届いていない意思の疎通があったわけだ。両者の関係は至って良好(僕はそう思っている)だが、体の動きなんてごく当たり前のことだし言語化してコミュニケーションを取るのが難しいことは、当然ながら深く話題に出ることもなく時間が流れていった。

もし母と僕が、体の動きについて突っ込んだ話が出ていたなら、きっと僕は走るのが一段と早い男の子としてモテモテで今ごろは結婚して大家族だったんじゃないかと思う。謎

戯言はさておき、足の動きと自分の移動については、伝えにくいし聞き取りにくいけど、子と深く話をするべきことの一つだと思う。息子のプロが言うのだから、気楽に試してみてほしい。あとは、同じことを繰り返し言葉にしても子には伝わらないことはよく思い出すと良い。静かにしなさいを伝えたければ、こうこうだから静かにしなさい、なんて言い方をせず、他の道を考えましょう大変だろうけど。理由をつけても言ってること同じで、それは説得でしかないからね。

あと、こういう話は道具を使った行為についてはよく言及されている。鉛筆、箸、鉄棒、自転車、バットやラケット、スポーツ全般、ハサミ、針、包丁、鉈、竹うまなどなど。こっちももちろん大事だけど、これが上手くなるためのことでもあるから足も含め指、手、腕、腰など、出来るなら少しずつ順番にでも色々意識すると良いと思う。特に腰はやはり重要と思う。でも腰が一番難しいかもしれない。とにかく時間をかけて反復する必要がある。

息子のプロ

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早いものでもう40歳になった。不惑という心境に至っているとは思いがたい僕ではあるが、数年ほど時間をかけ、ようやく考えることや考えることをまとめることができる心情に戻ってきた。少しずつになるだろうがふつふつと湧き上がる考えを書いたり、20代のころ考えていたことにツッコミを入れて話を膨らませたりしてみようと思う。(まあ、まだ状況が安定しているわけではないので、かなり不定期になるかもですが、なにとぞ生温かく。。。)

僕は40歳にもなったのに子を持つどころか結婚にもまだ至っていない。結婚したい気持ちは10年以上変わらず持っているが、なかなか難しいものだ。周りの友人たちがどんどんと父や母になっていっているのをみて、焦るような気持ちは出てこないものの、相変わらず僕は外れているなと改めて自分のいる位置を確認しているようなこの頃です。

さて、人が生まれて育ち大きくなって恋をして愛を育み親になる、こういう人生の、人間の成長の流れがある。20代に親になれば、40代にはもう親歴20年、子も20歳という状態である。一方、僕はといえば40歳までずっと息子だ。これはもう息子のプロと言っても差し支えないと自己を正当化したい。自分がある面で結果を残せていないことを擁護したいわけではないのだが、息子のプロでやってきたからこそ、とても冷静に自分を見ていることは想像してもらえるのではないだろうか。そんな息子のプロな僕には子の将来にとって必要じゃ無いかと思うことがいくつかある。真っ当に親になった皆さま、アマチュアな子の皆さまにとって、有意義な内容になっているかどうかはわかりませんが、まあそういう観点もあるかと思って読んでもらえたら幸いです。

※写真はたんぽぽ。最近、妙に写真にはまっている。