白を求める / Want A White

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これは、具体的ではありますが、一つの例えのようなお話です。

白さを目指す気持ち、というものについて考えていました。今まで受け継がれてきたその気持ちは、生活の色んなところにちゃんとあって、しかも僕たちみんなのそれぞれが大切にしている価値観の底にも、きちんと残っています。

なぜ目指すのか、は、また考えるとして、白を求める気持ちというものが芯にあるのに、アレコレしているうちに色んなものがくっついていてきて、いつからか大切にしていた芯を大切にできなくなってしまっているような状況もたくさんあるように思います。こういう状況になってしまっていることに気付くこと、なってしまった後どうすることができるのだろうかと考えること。こういうことはとても大切なんだろうなと思います。

と、このまま面倒な複雑な話にいかずとも、シンプルなことが一つあります。忘れてはいけないことは、例えになってしまいますが、おまんじゅうを白くつくることの難しさと、それをお供えしたいと思う気持ちなのだと思います。それがあれば、これからも変わらず白を求めても、決して悪いことにはならないと思いました。

この白に対して求める気持ちについてアレコレ考えていると、根本は宗教にあるようにも思えたのですが、そうではないのだと思います。倫理というと難しいですが、それに近いようなものじゃないかと思っています。ミラン・クンデラの本に出てくる「神を信心していなくても、ある侮辱的な思考が神に対する冒涜だと思える」ことに似たようなものなんじゃないかと思いました。(この話はそんな気がするという程度で、もうちょっとこのまま考えようと思います)

そして、この気持ちの根本は、命の安定を目指してきたこれまでのこと全部、そういうことと何かしらの相関関係を持っているような気がしています。なぜ目指すのでしょうね。人によって、地方によって、国によって、多少の差はあれど。不思議なことです。

あと、惑わされるのは、今の世界には単に色が白いだけのものが圧倒的に増えたこと。色については技術的にそれが容易になっているんですが、難しいことを乗越えて得る白という感じ必要なんでしょうし、そもそも数値が表す「白」という色だけのことではないように思います。今で言うと、白は何もしていない状態を指すことも多いですが、そういうのも、色んなものがくっついた結果なんですよね。そこに惑わされず、色の問題やシンプルかどうか、ということではなく、白を目指したいなと思いました。

人 紙 森 山

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少し前からFSC(Forest Stewardship Council)森林認証紙を仕事で使おうかなと考えはじめていたところ、タイミング良くFSCフォーラム2010というものがあり、話を聴きに行ってきました。話題としては紙に限らず、建築や家具に使うような木材も多く扱われていて(椎茸の原木なんてのもありました)、色々な業界の、大きなことをやっている方たちのお話で、ためになるお話も多かったように思います。

FSCを簡単に説明すると、どこで育ち伐採された木を材料につくられた物かを明らかにできるような仕組みで、その過程を明確にするため、木の育て方や山の管理の仕方から審査をして、例えばこの山で伐採された木材でつくられたものならFSCマークを付けても良いですよ、ということを認証するような制度です。つまり、FSCマークがついた物は、山をきちんと管理する人が作ったものだから、その人たちが続けてがんばれば、自然はちゃんと維持されるはずである、という感じでしょうかね。

今回のフォーラムを聴かせて頂いて、FSCがリサイクルマークと同じような、とりあえず付けておけば良いという程度のものとして広がると良くないだろうなーと思いました。リサイクルマーク自体を否定するような気持ちは無いのですが、存在が軽くなればなるほど、偽証偽装などの問題が出てくる可能性は高くなるはずです。

現状でどんな実態なのか詳しくはわかっていませんが、FSCというものがあることで、世の中がどう変わるのかをきちんと意識した上で皆が接していけるなら、良い形に向かっていくような気がします。その過程できっと、世間にもちゃんと受け入れられるようになるんじゃないですかね。

ちなみに僕の今のところの捉え方は、FSCが森や山との付き合い方について考え続けるための機関になると良いと思っています。利用者、というか世間が支持することにより生まれるFSCに絡む事業者の売り上げの一部を使い、森や山との付き合い方を考える原動力となったり、実際に動く仕組みになったりするような変化が起こる、そういう機関というか仕組みがFSCだというような捉え方ができると良いということです。

また、現時点でFSCを踏まえた具体的な動きとしては、紙の使い方よりも、紙のつくり方に注目していければ良いのではと思いました。今の紙は最終的な役割を果たすときまでに移動を繰り返していて、もしその移動を最小限に抑えられるような紙のつくり方ができれば、使用しているエネルギーは今よりもかなり減らすことができると思います。

簡単なところでは、使い方によって、つくり方を変えるようなことはできるんじゃないかと思いました。学習用・家庭用の紙に、製品用・広告用の紙のシビアさは必要ないでしょうから。むしろ、手元にあるものは味がある方が良いとも思えます。成長の過程で育まれる、馴染みのある紙に対する思い入れは、人生の色んな転機において、良い気持ちを生むかもしれない。違う土地で暮らすとき、ああ、僕はあの紙が好きなんだなと思うかもしれない。そういうものが、森や山との付き合い方を考える過程で生まれるなら、そんなに素晴らしいことは無いだろうと思います。

そして、こういう捉え方や想像は僕がそう思うというだけで、人によって違って良いのだと思います。違った捉え方でも、きちんと考えて支持をして、それがフィードバックされて、全体がある方向に向かうことが大切なんじゃないかと思いました。

FSCのウェブサイト

ちなみに、MFCというものもありました。魚の形のロゴだったので、Marineなんでしょうね。魚の認証は難しそうだけど・・・。

で、調べたところ、やっぱり魚でした。MFCのウェブサイト。イクラが具合悪そう・・・苦笑

記憶の仕方 / How to Memorize

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2007年5月3日に書いていた記事を公開します。2年半前か。こういう書きかけの記事とか記事にできていないのって、溜まって行く一方で・・・。今までは翻訳する時間が見つけられずにお蔵入りってのがパターンですが、最近は翻訳できない事を開き直りつつあったり。まあ何にしろ時間が経つのは早いものです。光陰矢の如し。

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PCを使う事で人間が失った事

PCを使う時、ほぼ間違いなく文字入力をします。
この文字入力っていう仕組み、慣れすぎるとワープロ病と呼ばれるようなものをもたらすとも言われるんですが、なんかひとごとみたいに感じていました。ワープロ病というよりも、この入力するという行為は、PC相手じゃなければ言葉を発する事とほぼ同じなんだと気がつきました。とすると、IM(インプッドメソッド)と言われる仕組みが、その言葉を発する部分をサポートしている形になります。無意識に、この仕組みを自分の思考に混ぜているんじゃないかと思ったんです。とすると、なんか失ってそうだなぁ・・・と思いました。まあ、実際に言葉を発するときにどういう経緯で言葉が発されているのかを、具体的には知らないので、なんとなくなんですけどね。でも、気がつかないうちに、僕らは機械の体(というか頭)になっているとも言えますね。
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ということです。この話、この当時から改善されていないなぁと思いました。単純に言えば、漢字変換のとき、よく使われる候補が5個ぐらい出てくるじゃないですか。あれって、効率の良い文字の入力と思えば当然あれで良いのですが、僕らが字を書く時に使っている頭の使い方とは全く違うなと思います。(これについてはまた書こうかなと思っていますが、よく言われる「直感的」というのが、それって本当にそうなの?ってことに近い感じのことです。)これは、僕らの記憶の仕方が変わった事に起因しています。

記憶の仕方が変わったことについては、このときに思う事があったのですが、その方法としては、あそこのあれをこう辿ればこの情報にたどり着く、という覚え方になっているのだと思います。それって、ちょっと前の情報の壁のところでも触れていますが、情報を構造化してインデックスとかキーワードで覚えているようなものなんだと思います。構造化して覚えるのが良いこともたくさんあると思うんですが、例えばこの「文字を書く」についてはその方向ってかなり怪しいなと思います。

記憶の仕方って、成り立ちなどを解釈して覚えるというやり方と、反復して覚えるというやり方があると思うんですが(偶発的には他にもあると思いますけど)、反復の場合、覚えられる理由とか効率とか、そういうことに関係なく、因果律に従って反復すると覚えるものだ、というものなんだと思います。逆に言えば、反復しないと覚えられないこともたくさんあります。解釈して覚える手法が効率的で最上だという考え方でいると、反復する事に意味を見出せないがために止めてしまうということもあるというわけです。例えば料理なんかも、ある材料にこの栄養素があるから、科学的にこう混ぜて摂取すれば、ほら健康に良いでしょ、なんて考えて接していると、それはもう大変な事になりますね。僕は学校で学ぶ事の多くについて、それほど肯定的ではないですが、この反復がもたらす記憶というものは、いくつかある学校で学ぶ事ができる大切なことの一つだと思います。

話は続きますが、最近はメールを書くにしても、スタンダードなIM以上の機能が付加され、パターン別のひな形とか、便利な予測変換とか、Googleが発表した多くの人が使う表現を呼び出してくれるような機能とか、そういうものが多くて、ますます反復が非推奨されているように感じます。

メールをもらったとき、ひな形とか予測変換とかって、使ってるのわかるときがありますよね。当然誰も見ていないので、便利なら使ってしまえば良いんですけど。ちなみに僕は使いません。あ、嘘。携帯で予測変換は使ってるかも。笑 全体としては、徐々に相手に対するメッセージの責任というのは薄くなり始めているのかもしれません。自分の都合は大切なのもわかるんですが、もう一歩下がって付き合えないものかなと思います。まあ、楽をしているっていうわけじゃなく、他のこと(レスポンスの早さとか、メールに表現力が無いと思っていることとか)を大切にした方が良いと思いすぎているせいなのかもしれませんが。

あ、記憶の仕方、じゃない話になってますね・・・苦笑

一回性 / The Only Once

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僕らの時間の使い方は、ここ数十年で大きく変わったように思います。

都合の良いタイミングで望むことができること。

これは、従来1アクションでやならければならなかったことを、中断・再開ができるように細かく分け、可能であれば巻き戻すこともできるようなものを目指してきた結果、こういうものを良しとする社会があるのだと感じます。

基本的には悪いことではないのですが、例えば、植物の生長や動物の成長のような速度で行われる行為は、安定しているが不可逆で、一方、人の生活の中ではそういう速度を用いないで、擬似的に可逆な状態を作っている現状があると思いました。

この話、冷静に言ってしまえば、一回性の貴重さを思い、逃したくない、失敗したくない気持ちになってしまったがために、はじめから一回性を失うことに繋がってしまっているように思います。文化だって思想だって常識だって、今でも間違いなく不可逆に動いているのです。

僕が感じるに、ですが、この、欲してきた一回性は珍しさのことで、失ってしまっている一回性とは全くの別物だと思えます。その失ってしまった一回性は、自由とか思いとかなんじゃないかと思いました。可逆を意識するよりも、不可逆を許容する方が自然なことだと思いました。

この話を少し膨らませると、子と一緒にいる親が携帯電話を使って、誰か、もしくは何かと繋がっているとき、どういう気持ちなのだろうということを考えるきっかけになり得ます。色々と大変なこともあるので、その気持ちも何となくは理解できるのですが、こういった少しおかしい風景が、身の回りに多くあるような気がしました。

情報の壁 / Limits of Information

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僕らが生きている世界には、情報の壁というものがあるなぁと、ここ数年感じています。

これは、簡単に言うと、僕が生きている中で知らないことは山のようにあるという、至極当たり前なことです。つまりは、どんな人でも一生触れることができない情報があるということです。

この壁というのは、完全に人間の能力を超えたもので、抗い難いものです。すごく極端な状況を想像すれば、間違いなくそうなんですが、そこまで極端じゃなくても、例えば、僕の中で最大限な、幸せに生きて死ぬための情報の全てに触れることはできるんじゃないかと思えたりもします。

でも、実際は「これを知っていれば」ということがたくさんある状態で、みんな生きています。だから失敗もするし、成功を喜べるという状態もあるんでしょう。全体としては、「知っていれば」を極力無くそうとしていますが、これはなかなかできることではありませんし、失敗と成功という考え方からすれば、無くなると困るものでもあるかもしれません。

で、この話のまま続けると情報の壁と違う話になってしまうので、話を少し現実的なところに移します。僕が感じている壁というのは、何故生じているのかを考えました。

とても身近に、「なんで、僕はこれを知らなかったのか」とか「なんで、あの人はこれを知らないのか」ということってたくさんありますよね。これについて思ったことがあります。

この壁というのは、結論から言うと、個々人の個性や価値観に因っています。これは、ある意思をもって即時にその壁を克服できないことを意味していて、流れていくしかないような流れがあると思えます。

ここまでは、僕がそう感じたというだけなのですが、今の情報という捉え方は非常にもろいものなんじゃないかと思ったことから、この考えははじまりました。

情報についてまず思ったことは、情報には構造があるという点です。それは、ある事柄について、何から発生して何を示しているか、どういう影響があるかなどを、わかるように成立させるための組み立て方です。この情報の構造という考え方が、怪しいんじゃないかと思いました。

勘以外で、なぜそう思うかというと、構造化すると消去法という考え方ができてしまうからです。消去法というのは僕も良く使っているのだと思うのですが、一歩下がって考えると、消去する時の僕は、違うであろうという気持ちでしか消去ができないのです。欲するものを探すにあたって、その欲するものを知らないのに、これは違うという判断はおかしいんじゃないかと思いました。

漠然と情報と言っているとわかりにくいかもしれないので、Google検索で考えてみてください。検索する時に、ある言葉で探そうとしますよね。そのときに、たくさん言葉が思い浮かぶと思うんですが、思い浮かんだ言葉の中から、必要ないだろうという言葉を消去していると思います。もちろんこの話は普通のことなんですが、知らないのに知っていることになっているのって不思議ですよね。もちろん、この不思議がいわゆる「勘」というようなものとして、状況を好転する(欲しい情報にたどり着く)こともあると思うのですが、本当に欲しい情報に辿り着いたかどうかは定かではありません。ここに、情報の壁ができる要因があると思ったのです。そして、この気持ちを導いているのはその人の個性なのだと思いました。

まあ壁があると駄目なのかというとそうでもないのですが、あれこれ思ううちに、今の情報という考え方は少し怪しいと思えたのです。そして、情報よりも体験の方がより僕らにとって大切なものであるとも思えました。わからないことなんて、山のようにあるのです。それは情報があるだけではどうしようもないことなんじゃないかと思いました。また一方で、情報がもっと良い形に変化することもできるようにも思いました。

世界の価値 / The Value of The World

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たぶん、お金の話の延長上だと思うのだけど、先々月ぐらいから、ちょっとわからないことがある。僕が大切にしたいこととは違う(これがあっての大切なこととも思うのだが)し、相当に無理矢理な感じで考えているのだけど、僕が生活しているこの世界全ての計測できる価値というものについて、考えていた。発端は、その価値の総計は一定ではなく、膨らむ一方であるはずだと思ったこと。

資源は価値を生むことから、資源自体にも価値がある。資源が変化した後それ自体の価値を減らすこともあるが、違う価値を創出することも、それ自体の価値が転換され増えることもある。ただ形を変えた後の価値の増減は色々なので、仮に、資源の価値と、ある変化があった後の資源の価値とそれが生んだ価値を合わせたものを、同等だとする。

いわゆる資源というと石油とか鉄とかが思い浮かぶが、生命も資源だとする。上述と同様に、生命自体に価値があり、活動により創出される価値もある。

ということは、生命が生まれて死んで生まれるほどに、世界の価値は膨らんでいくと想像ができる。簡単に例えるなら、歴史の教科書に沿って測った価値と、それを半分ちぎって測った価値では前者の方が多いと言える。

では、価値というものが、膨らみ続けるものならば、そこに大切さはあるんだろうかと思った。これは、価値あるはずのものに価値が無いと言いたいわけではなく、価値あるものも大切で、価値が無くても大切で、価値自体に大切さは無いということを思ったのだ。

ここで、はじめの資源についての仮定を変えてみる。「同等だとする。」を同等ではないというか、資源とそれが生み出したものの価値が下がるものと仮定すると、生命の活動による価値の増加を考えると、全体としては、均衡を保つか、減少することになる。

まず、減少するとすると、あったものが無くなることになるわけだけど、そんなことがあり得るのだろうか。僕はやっぱり減ることは無いと思う。そうなると、均衡を保つことになるのだけど、減りも増えもしないものと、生命の活動により増え続けるもので考えると、やはりどんどん増えていくことになる。

ここでさらに、「生命の活動により増え続ける」という仮定を考えてみる。生命の活動により、減るか、減りもしないという変化があるとして、減る場合、活動の価値を上回るマイナスの何かがあることになる。減りもしない場合、活動の価値を帳消しにするマイナスがある。

こうなると、死ぬこととは、生きていた生命の価値がそのままそっくり以上無くなることに繋がりそうだ。普通に考えて、そんな訳は無い。となると、生きながらにして、価値を減少し続けることが思い浮かぶ。

そこから考えると、ある形状になってから時間が経過すると、資源や生命から価値が減るということだろうか?なんか、だんだんと気にするような話題じゃ無い気がしてきた。

そこをもう一歩突っ込んで、生命ではない資源について、資源自体とそれが生み出した価値は、減っているということを認めるとする。それはつまりどういうことか?人間に限らず、生命が資源を使って活動した結果は、価値が減っているということになる。

あとは、生命と生命でない資源のバランスで考えていたが、その両者が均衡がとれるようなものでは無い、つまりどちらかが高価値で、どちらかが低価値なことも想像できる。

ここまでくると、今回は、自分でも本当によくわからないです。でも、気になるのは何でだろうか。うーん・・・意味不明ですよね・・・すいません。

塩尻市考察 / Thinking About Shiojiri City

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今年の前半、長野県の塩尻市について色々調べていました。一旦、内容をまとめようと思い、記事にします。

塩尻市の人口は7万人ほど。松本市の隣であり、諏訪湖も程近く、ワインの製造が盛んなところです。また、名古屋・新潟・東京の3方向から伸びた鉄道と道路が交わる場所でもあります。(Wikipediaに色々としっかり書いてあります。)


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塩尻駅近辺には、大門商店街という商店街があります。主には、この商店街を中心に、何ができるだろうかを考えていました。

最近はどの地域でも似たような現象が起きていますが、大門商店街も例に漏れず閑散さが目につくような、いわゆるシャッター商店街に近い状態になっています。ただ、朝晩の車通りが比較的多そうなことや、市役所が近いという点においては、本当に寂しくなってしまった場所と比較するとましなのかもしれません。イトーヨーカ堂もあります。(と思ったら、閉店しています。中日新聞:土地建物の購入申し入れ 塩尻店閉店でイトーヨーカ堂:長野(CHUNICHI Web)。その少し前には西友も撤退しています。)

20〜30年ほど前、大門商店街は活気があったそうです。それは、今の商店街の姿とは少し違っていて、区画整理される前のごちゃっとした、賑やかな商店街がそこにありました。塩尻駅の場所も今とは少し違うところにあり、駅の移転から始まり、周辺が整理され今に至っています。

そして来年にはえんぱーくという、図書館機能を備えた市民交流センターが完成します。これを機に、活性化したいとみなさんがんばっています。

色々とやれることというのはあると思うんですが、ここでは僕が感じたこと(具体性はあまり無いです)を書いてみようと思います。

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僕は塩尻のことを調べるにあたって、まず市役所のウェブサイトに載っているような情報を見ました。次に、主に昼の時間を使って、現地を4〜5回歩きまわりました。本当は少し生活してみることができると良かったんですけどね。歩いた後に、今度は歴史のことを少し調べました。その歴史を見ていて、なるほどと思ったことがありました。

江戸時代に整備された中山道という、京都と東京日本橋をつなぐ道が塩尻を通っています(今も道路があります)。この道は、東山道という道が整備されたもののようですが、その往来により、塩尻の周辺は徐々に栄え始めたんじゃないかと思います。中山道に沿って、休みたいという皆の思いが集まって、休憩できるところができ、その場を提供する人が暮らし始め、様々な需要が生まれ栄えて宿場町ができました。

(今も、奈良井宿という場所は観光地的にというか、普通に暮らしている方が結構いるようです。とても良いところでしたよ。鳥居峠も越えましたが、普段、山登りをしないようなコンバースの僕でも、3〜4時間ほどで越えられるので、観光のついでに散策すると良いと思います。ただ熊対策で鈴は付けてました。前に書きましたが、クマではなくカモシカに会いました。僕は会いませんでしたが、やっぱり熊が出没してる(2009.10.17)みたいです。)

現在の塩尻駅は、各宿場町とは少し離れているのですが、3方向からの道がぶつかっている塩尻という場所について思い当たったのは、「この土地は多くの人に歩かれてきた」という実績を持っているんだなということです。そして、今みたいに道路や線路が通る前、そこに住む人たちは、その需要供給の渦がある状況を含めて、多くの人が歩いていくことに慣れていたのだと思います。それが生活の仕方(見知らぬ人と接することとか、自分たちの生活にもたらすものを組み込むこととか)にも影響を与えていたんじゃないかと思いました。

この話、見知らぬ昔の話じゃないと思うんです。今ならまだ、その影響はそこでの生活の中に残っているんじゃないかと思いました。車の社会になったのなんて、ここ数十年の話です。今、僕たちは、車のある社会の前の社会を生きていた、70〜90歳以上(ぐらいじゃないかと)の方々と接することができるわけですから、塩尻の心を感じることができるはずです。

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こういうような話は塩尻に限った話ではないと思います。完全に想像ですが、20〜30年ほど前の活気のあった時代、日本各地でこの「心」は特に感じにくくなってしまったんじゃないかと思いました。その後の今ですから、その古き良き時代を思い出して、それを再現できるようにがんばるのも良いのですが、僕はそれよりも前にあった心から思い出し始める必要があるんじゃないかと感じています。この20〜30年というのは、社会全体が酔っぱらっていたようなもので、完全に良いものだと信じきるには少し無理があるんじゃないでしょうか。これは誰が悪かったとかって他人の話じゃなく、僕らも生きていたこの20〜30年を、個人的なとても小さなことも含めた事実や経験を信じ込むんじゃなく、さらに昔の流れから今に至るまでをきちんと反省(ごめんなさいってことじゃないですよ)する必要があるんだと思います。

逸れ始めたので、塩尻の話に戻りますが、塩尻が発展したそもそもの理由というか、塩尻の個性というものの真ん中には、やはり各地から交わっているということがあるのだと思いました。この場所の特性を切り口に、やれることを考えると良いように思いました。

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いきなりフランスみたいに、ワインの醸造所が試飲を動機に、食事とか宿泊の提供をはじめる、なんてのは難しいかもしれませんが、人を集めるのに、真ん中にあるのは都合が良いことなのですから、小さくても動き始めることが、いつしか流れをつくるんじゃないかと思いました。単純に、仲の良い3人組がいるとして、3人で遊ぶなら、中間地点の家で遊ぶ可能性が大きい訳です。この動機は単純すぎて、話だけ見るとそれだけで??って思ってしまうぐらい中心の動機と思うには弱いことですが、僕は自然なことだと思いますし、自然なことって、特に遠くから見れば弱くみえるんだと思います。

最後に塩尻の町の写真はまとめてここで見れます。平出の泉がすごく綺麗でした。

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正義とか矛盾とか / Justice, Absurdity...

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随分前から、正義というのは随分と範囲が狭いなぁと思っていました。

正義の反対は悪。悪はちょこっと良いことをしてもやっぱり悪だと言われますよね。でも、正義は少しでも悪いことをした瞬間に正義ではなくなります。正義と悪、反対の意味として捉えるには、ちょっと性質が違いすぎると思いました。

でも、善悪というぐらい、正義(善)と悪は昔から対照的に使われています。ということは、正義の反対が悪かどうかということを疑う前に、悪の反対としての正義の捉え方が違うのかもしれないと思いました。

つまり、これこれが正義であるというのは、何かの理由にはならない可能性があるということです。この実感は、僕たちの中に間違いなくあるように思います。が、逆にそれに従えず、その正義の理由付けに従っている現状もあります。

これは、正しいと誤りの間にも言えそうですね。正しいからというのは、正義と同様に理由にはならないのかもしれません。

では、正義とか正しいというものは、どういうことを言うんでしょうね。多くの人が良いと思うことかな。なんか違う気がする。あと、理由としては何がふさわしいんでしょうか。

わからないことは少し置いておいて、矛盾という言葉について考えます。矛盾って、これとあれが合致しないという状態を言うのですが、その話は矛盾しているという感覚は、ずれてしまった正しさを軸にした時、それは誤っているから正しくないじゃないかという感覚に因っているような気がしました。それって、前述の話を踏まえたとき、絶対的なものではなくなります。

そして、矛盾という言葉も昔からあります。つまりは、僕たちが捉えている意味が違っているんじゃないかと思いました。本当の矛盾って何だったんでしょうか。

最強の矛と無敵の盾。貫けない訳にはいきませんし、壊れる訳にもいきません。この話はこんな風に語られることが多いし、僕らの頭の中でもこの状況は想像できます。でも、ちょっと現実的に想像すると、矛と盾がぶつかったとき、何も結果がないわけがないですよね。貫けなくとも、壊れなくとも、現実的な可能性としては、どちらかが少しは傷つく、もしくはどちらとも全く傷つかないことが考えられます。で、これをもっと厳密に想像すると、水が石に穴をあけるように、傷がつかないはずがないんです。衝突は、何もないようでいて、きちんと影響があるものです。その影響がどちらに優位に作用するかは、時の運とまでは言いませんが、そのときの状況がそれを決めています。

ここから僕が想像できる、矛盾という言葉は、どちらに転ぶかわからないね、ぐらいの意味に近いと思います。その話、矛盾しているね。つまり、どちらかに可能性があるわけですから、矛盾という言葉で、その正誤を決めることは良くないのかもしれないと思いました。

矛盾しているけど、もしもやってみるのが良いと思うなら、やってみる。これが一番素直だと思います。あとは、矛盾しているからそれは駄目だよという考え方や決断は、やめた方が良いのかもしれません。

何かの時にも書きましたが、良いかどうかを感じることを思い出すことが、僕は第一歩だと思います。良いかどうかというのは、自分のことじゃなくて、自分を含めたその状況が良いかどうかを感じようとすることに近いんでしょうね。ちなみに、こういうことが許されない状況というのは、やっぱり少しおかしいと言えそうですね。

前回の話に引き続き、最近気になる、変わってしまったのかもしれない言葉の話でした。

心と気持ち / Heart And Mind

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気持ちと心は別のものなのかもしれない。

僕は小林秀雄さんの本を本当にゆっくりだけど少しずつ、何年か前から読んでいる。小林さんの大和心の話を聞いて、初めてそんな風に思った。心というものを、いつから気持ちだと思うようになったのだろう。

気持ちとは、僕やあなたが(頭の中ででも)日常的に具体化できるもので、各々の価値観に基づいてつくられることが多い。わかりやすいところで、コレいいなとか、アレいやだとかも気持ちである。

心は、全ての存在という存在に備わっている。人の心。世の心。花の心。犬の心。水の心。雲の心。宇宙の心。という具合に。

これらの心というものは、気持ちとは別にあり、気持ちのきっかけになるようなもので、自分の中にあるものだが、いわゆる自分のものというわけではなく、大きく言えば、一つであるとも言えるのだと思った。

少し前に、タコの足は、頭の命令を受けて動いているわけではないという研究をみかけた。そのことだけは研究してわかったようだが、その複雑な繋がりは解析が難しいらしい。タコは頭で考えて生きようとも思っているが、体全体の各部位でその意識を共有している。それらは心と言えるんじゃないかと思った。

これは、タコだけにあるものの話ではなく、僕らも同様に持っている。どうしても僕は、心は間違いなく大切なものだと思えるのだけど、多くの気持ちはそうでもない気がしている。感じたという感覚から思いをやった結果を気持ちだとすると、感じること自体は芯になる大切なもので、思いをやるのは時々で違うのだから余り信じすぎない方が良いのかもしれない。もちろん、無駄なものなんかではないが、そこに強く意識を置きすぎることは、信じることを難しくしてしまっているのかもと思った。歯止めがどんどん利かなくなる方向なんじゃないかと。

経験上で思い出してみると、気持ちや感情を抑えるとはよく言う表現だが、心を抑えるは違和感を感じる。これは、心が抑えられるものではないという認識が、僕らの中にまだ残っているからじゃないかと思った。

心も自由と同様に、都合良く解釈をしてしまった言葉で、それを僕らの「ここ」にあるものと思い込み、それを正当化して辛いことを回避しているだけなのかもしれない。よく気がつく、「ここ」にあるものは気持ちであって、それは個々人にとってはとても大切な、個性に繋がるようなものなのだけど、少し離れてみて自分を含むそこらへんを考えた時に、必ず重視するべきだとは言えないと思える。むしろ心とは逆行していることもあると思った。

というのも、僕らは何かを我慢ができるじゃないかと思ったのだ(さらに言えば、ポジティブな意味で、僕らは直接的に何かをどうにかできることは無いってことも手伝っていると思う)。それをネガティブな「我慢する」と捉えているのは僕たちで、それがまさに自由に繋がっていると意識することもできると思う。因果応報だって、輪廻転生だって、そういうことなんじゃないかと思った。

となると、流行は心かもしれない。そうなのかなぁ・・・。どうなんでしょうね。あと、加えて一つ思うのは、自分以外の気持ちと自分の気持ちを同様に捉えてはいけないということ。強く意識を置きすぎることをしない方が良いのは、自分の気持ちだけで、人の気持ちにはちゃんと意識を持っていたいと思いました。

過食論 / Effect of Overeating

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主に外食での話ですが、食べる量が多すぎるのかもしれない、と最近よく思います。僕が、というよりか、ほとんどのお店で提供される食事の量が多いんじゃないかと。僕は2/3ぐらいにしても問題ないし、半分ぐらいでも結構平気な気がします。結果の一つを取り上げて言うと、肥満人口は増え続けているという実績をつくった社会があると言えます。

食事の量を決めているのは誰なんだろうと思いました。まあ端的に言えば、作っている人たちになります。ただ、彼らは、彼らの望む生活水準(以上)を満たすための経営をするにあたって、コストとサービスのバランスを決めています。その中で、売りたい量、つまり食べてほしい量が決まる訳です。コストパフォーマンスの高いものを提供している人もいたり、逆の人もいたりしつつ、個々の営業努力や経営方針によって色んなことが絡み合っているので、ボリュームの大小だけ取り出して考えるには、少し無理がありますが、それでも、それら全てをひっくるめても、ある生活水準を守るために必要なボリュームというのはあるのかもしれません。(お金持ちの趣味的なところは別で。)

では、提供する人の生活水準を守りながら、食べる量を減らそうとするとどうなるでしょう。食料の価値を上げるか、食料になる前の食材(とそれに付随するもの)の価値を下げるしかないのかな。食料の価値は上げたくないし、食材の価値が下がるのも困るなら、価値の転嫁を行うか、純粋に水準を守らないという手段になります。でも、なんというか、方向としては複雑になるしかないんでしょうかね。何かの代わりにどうとかこうとか、絡まることが良いことにも思えないんですよね。

ちょっとシンプルに考えてみます。の前に、何故、外食産業があるのか。これを考えてみます。簡単な話だと、僕なんかより料理人さんの方が食材に詳しくて、美味しい料理が作れる。しかも、僕が作る手間が省ける。さらに、複数人が食べることが前提なので、原料やエネルギーが効率的。この辺が、わかりやすい外食産業の良さですね。

では、その良さを上手く保ちながら、現状を変えて、肥満人口を減らすためにはどうすれば良いのでしょうか。(あ、肥満人口を減らしたいと言っているのは、その数字が変わると、色んな問題が解決される可能性があるからですよ)

今までの話の中で足りないことは、食べる人のことですね。このぐらい食べると良いという点。食べると良いというのは、成人した男子ならこのぐらいというような、あまり大雑把じゃない基準みたいなのがあると良いですよね。もう少し個々人によった基準。ただ、ストレス発散の食というものもあって、そのあたりが関わると、また複雑さが顔を出し始めてきます。

どっちにいっても、なかなかに難しい。でも、例えばですが、家庭内のお母さんのような、「あなた、このぐらい食べなさい」とか、「こんな時間に食べちゃだめよ」的な発言に沿うような食べ方って無いもんでしょうか。母の愛が成せる業なのかな。

と思いつつも、これは自分で決めるしかないんじゃないですかね。何をどのぐらい食べたのかは、誰も把握してくれないので。逆に言うと、自分で決めるしかないものが個人から社会に立ち表れた結果が、肥満増加な現状なのかとも思いました。それを助長するような、売れるから売るっていう仕組みになりすぎているのが駄目なのかもしれません。

これに乗って、自粛のゆるみの行き先を想像すると、まず食べる量が増えたとします。そうすると少しとばして、食材をたくさん運ばなければならない。運ぶなら、たくさん作らなければならない。作りきれないなら、輸入しなければならない。少しそらすと、食べる頻度が増えるなら、食事を提供する時間・場所を増やさなければならない。そして、これらのことをやろうと思うと、人手がたくさん(エネルギーも)必要になる。人手には、食べ物は必要だ。となると、食べる物をたくさん用意する。という具合に、ぐるっと回りました。スパイラル的に増える方向しかないのかもしれません。であれば、どこかでこの流れを断ち切らないと、食料が尽きる(ことがありえるかどうか、定かじゃないですが)まで、太り続けるしかないですね。それはちょっと怖いなぁ。最近だと、肥満対策に薬をつくるという動きが盛んになりつつあるのだそうで、それはまたスパイラルを強化してるなぁと思ったりしました。まあ、死にたくない気持ちはわかるんですが、難しいですねぇ。

というところで、個々人が少し歯止めをきかせることを考えるはじめる必要があるのかもと思いました。あとは、食べてほしい(売りたい)から売れるという仕組みを、売れるから売るっていう仕組みと明確に区別すると影響が結構あるかもとも思いました。局所的にはそういうお店もあるんだと思いますが、何しろ食べる人にとっては、人生の1食分の関わりでしかないので、その局所で影響を生み出すのは、今でも無くはないですし僕はそういうの大好きですが、それだけだと少し遠いのかもしれません。

そういえば、公的機関による飲食店格付けみたいな計画があったけど、どうなったんだろ。基準が曖昧になりすぎてぽしゃったのかな。

自転車と信号 / Bicycle and Signal

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最近、自転車に乗ってる人ふえたなーって思います。僕の回りにも、もともと好きだった人も、もともとじゃないけど乗り始めたって人も、いろいろ結構たくさんいます。何より、歩いていて見かける人数が多いです。

歩行者の信号無視については、随分昔に書いたことがありました(ちなみに、まだ続けています)が、歩いていてよく思うのですが、信号を無視する歩行者と同じ感覚で、自転車に乗っても信号を無視している人が多いように感じます。

よりスピードが出るから、より思うように進みたくなるのはわかります。僕も高校への通学でそんな感じだったのを思い出しました。でも、より早く進めるのだから、緩急というか、止まるところは止まる心がけがあると良いですよね。あと、人が多いんですよね、東京は。なので、みんな気をつけるといいなーって思いました。

あんまり関係ないですが、自転車に対する感想。地球環境に優しいことかどうかは、けっこう微妙な気がします。車よりは良いですが、(バスが無くならないものならば)バスの方が良い気もするし。良い運動にはなりますね。でも、排ガスには要注意。

律す / Governing Myself

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政治にしても、食にしても、観光にしても、車にしても、律するということが大切なだけなのかもなぁと思いました。日本には良い言葉がありますね。この言葉は、まだ僕らの中にきちんと存在しています。でも、この言葉はきっと、はっきり思い出すことをしないと、忘れられ消えてしまう言葉なんじゃないかと思いました。

自分の都合だけを考えていると、もうちょっと言うといわゆる「自由」であろうとすると、律するという発想は生まれません。自分の都合って何だろうと考えてみると良いだけなのかもしれません。それは、価値観とも言えそうです。でも、価値観という切り口から見るよりも、自分の中にある、律するということを心底信じ、それがある自分を真正面から見てみれば、今の自分と何が違うかなんて、みんな感じていることなんじゃないかと思います。でも、こういうのって難しいですよね。とても。

自民党が守っていたこと / What LDP upholded

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もうしばらく経ちましたが、政治に大きな動きがありましたね。何が変わるんでしょうか。

ニュースを見たり、人の話を聞いたりして、よく耳にしたのは、「今度から○○になる」という話がほとんどでした。国として価値の置き所が変わったことがもたらすことは、○○になるということも当然たくさんあると思いますが、今までの生活と違うこと、■■じゃなくなるということの方が注目するべきだと僕は思ってしまいます。そういうことって、そんなに無いんでしょうか?そんなはずはないですよね。

民主党の台頭により、自民党は守れないことがたくさん出てくると思います(それらがそもそも国民のためだったかどうかはわかりませんが)。その結果をどのぐらいの国民が拒否するかを、民主党は知らないといけないんだと思います。つまり、自分たちが目指す全体像の下地には自民党の今までがあるのです。それを踏まえないと、駄目なんじゃないかと思いました。素人集団なんて言われていますが、そりゃそうでしょう。今まで、色々言われながらもしっかり(?)やってきた人たちから、真っ当な連携無しに切り替わるというのは、普通に考えればおかしいですもんね。そういう連携まで含めてお願いできないもんですかね。

痛みを伴うとか、中途半端な言い方はせず、何が無くなるのか明確にした方が良いと思いました。きっと、かなりわかってるはずです。
まあ、大きな変化を起こさないようにがんばるんだとは思いますが、あの中途半端な物言いがちょっと怖い感じもします。今まで、当たり前にできていたことが、色々とできなくなるんでしょうね。

それと、「自民党は今まで駄目だったから民主党がんばってください」としか言わなかった僕たちが、公約が守れないじゃないか!って民主党を責めるのはちょっと変です。いったい何をお願いした気になってるんでしょうか?できそうかなと思って、投票しただけですよ(僕はしなかったけど)。政治にまでサービスと同様のことを求めると、本当におかしなことになっちゃいます。まあ、それに甘んじるような政治家なら、どんどん責め立てた方が良いですけど。本当に何か言いたいなら、ちゃんと自分なりに動いて結果を伝える努力をしないと、ただただ、駄目だとか、信用してたのに!って言ってると、自民党の今までと結局同じことになっちゃうと思います。そういう努力が、民主主義ってやつなんじゃないですかね。遠くで話すのは、もういいんじゃないかと思いました。

東京 / TOKYO

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この前書いた都市と地方の話から、次に思ったことは、東京について。

東京でも野菜やお肉がつくられているから、地産地消でやっていけるという話を目にしました。新宿とか渋谷とか六本木の真ん中に立ってみれば、そんなことできそうにも無いと感じます。その強い印象を考えれば、地産地消できることに対して、それはすごいね!ってなるのは、まあ何となくわかります。が、それが改めて凄いことなのかどうか、ちょっとおかしなことになっていると思いました。

凄いとか凄くないとかじゃなくて、それを価値の真ん中付近に持てるかどうかを考えることを、地方とか東京というような地域に限らず、自分の周囲で(とか自分の中で)考えてみることが大切だと僕は思います。それが、真ん中付近に持てるなら、それを大切に生きていけば良いのだと思うのです。どっちもほしいと思った人は、もっと考え続けた方が良いと思います。ちなみに、僕はそうです(苦笑)

で、地方にばかり目がいきがちな今だからという訳じゃないのですが、そんな流れをみて何となく、上の話とは逆なんですが、ある地域によったこと、つまり僕が住んでいる東京について考えてみようと思いました。

東京ってやっぱり、かなり変ですよ。ある箱の中にいると、やりつくした感が満載という感じがするのですが、まだまだやってないことがたくさんあります。道路をつくるのをやめて、壊すことを考えるだけでも、畑をつくるとかじゃなく、ぐわっとやれることが増えます。もともとあるものに乗っかり過ぎな気がします。もともとと言っても、そう昔のことじゃないと思うのです。もっと流れによって育まれた、個性を大切に扱えると良いと思います。結果として、東京に日本らしさはなくなるかもしれませんが、もし万が一なくなるなら、それは既にそうなんじゃないかと思います。

生活する場で感じる日本らしさって何でしょうね。僕らの日常で感じる、違和感が無い状態がそれなんでしょうか。前提が何も無いに等しいので、時間かかりそうだな・・・。

もりそば、と、ざるそば / Mori-soba & Zaru-soba

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暖簾をくぐり、
がやがやした蕎麦屋に入る。

空いた席に座り
「もりそばをください」
と言う。
お店の人は愛想良く
「はいよー」
と答えた。

出てきた蕎麦を食べ、
「ごちそうさま」
と言い、店を出る。


その風景を見て思う。
あの人が食べたのは、ざるそばだ。


唐突ですが、この話の裏側はとても面白いなぁと思いました。ざるそばともりそばは違う物であるという前提で、少し想像してみてください。食べる人、注文を聞いて届けた人、つくった人、それぞれの気持ちが交錯します。そして、それを見ていた自分(僕やあなた)はどう思うのか。

普段の暮らしの中で、こういった思いを感じる場面はたくさんあると思います。この話を手がかりに、そういう場面のことも色々考えてみると、自分がどういう風な思考を持って生きている(た)かに気がつけるかもと思いました。自分のことが気になるけど、僕と同様、よくわからないって方には面白いんじゃないかと思います。少しだけ。

漠然と政治・車 / Nebulous Politics and Car

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まず政治について思いました。

もっと、それぞれが違うということを意識すると良いのかもしれない。

国籍や人種というもので分類されている僕たちですが、もっと細分化されていると意識できると良いんじゃないかと思いました。友達になれる人なれない人、好きな人好きじゃない人、そういう越え難い壁みたいなものを、明確ではないが必ず持っている僕らが、地域の違いに因るルールのみでやっていくことは難しいと思うのです。

ちょっと荒っぽいかもしれませんが、人生で大切にしたいことに因った分類を10個ぐらいつくって、それぞれでルールを考える。これを大切にしたい、と思い、それが自分の人生にきちんと働きかけるような、手応えみたいなものをきちんと感じられるようになるなら、とても良いと思うんです。お金の交換の中では無くなってしまっていることが、蘇るんじゃないかと思いました。相当に複雑になるでしょうが、意外と上手くいきそうな気が、漠然としました。

でも、漠然と思ったこれを反芻していると、やっぱり無理かもと思ったり。でもでも、そんなに遠くないような、そうでもないような。


次に、前にエコカーについて考えましたが、また車について思いました。

車に大きく名前を表示するっていうのはどうでしょう。仕組みはあんまり考えていませんが、所有者とそのときの運転手の名前が大きくどーんと。暴走族(今は、珍走団とかダサイ族って言うんですよね。)みたいですかね。

前にもほんの一文書いたのですが、車も自分証明ができると良いと思った物の一つです。事故とか、スピード違反とか、盗難とか、ひき逃げとか、車に関する問題や犯罪はとても多いですよね。車の持つ瞬間的な匿名性を無くすような仕組みがあると、とても良いと思ったんです。白黒はっきりしすぎでしょうか。でも、車のことって相当に大きいと思うんですよ。それがすっかり野放しで、免許にしても誰でも取れるようなものになっていたりするのって、僕はそれってどうなんだろうと思う訳です。

ちなみに、運転がいつまでも下手な人っていないんですか?僕はきっと下手です。下手というか、致命的なんじゃないかと思ってます。文字通り。

と書きながら、渋滞についてはその限りではないかもしれないという研究もあるそうです。何割かの違反者がいた方が、渋滞は解消の方向に向かうそうで。つまり、白黒はっきりさせて違反者が減ったとしても車に乗る人が減らないと、渋滞を促進しかねないっぽいです。なんか、複雑だ。

まあ、政治のことも車のことも、漠然と、なんで。言いっぱなしですんません。

観光・旅行 / Tourism And Trip

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観光や旅行について考えました。唐突に観光について考えたというよりは、前回までに書いたような地方のことを考える延長上に、随分と観光という産業(?)は大事なものとして扱われているなぁと思ったのがきっかけです。

観光と一口にいっても、色んな捉え方ができます。まず、自分視点でどういうことなのかを考えてみます。旅行ってたまに行きたくなる人が多いですね。僕はそこまで唐突に行きたい!ってならない、あまり旅行慣れしていない人です。初めての海外旅行も今年の1月でした。帰省などの移動はちょくちょくしてますけど。一般的には現実逃避的に逃げる人もいれば、似てるかもですがリフレッシュのために行く人もいます。普段触れることの無いようなものに触れたり、好奇心の向かう先に出会ったり、基本的には非日常を求めてっていう感じなんでしょうか。そういうものを体験・体感するために場所やものや出来事を求めて行ったり来たりしています。

仮に、それによってみんなの心のバランスが保たれて、社会は円滑に流動していると考えます。娯楽というか余暇というか、そういう個人にフィードバックされたものが社会へのフィードバックに繋がるような意味合いがあると言えます。

でも、僕はよく考えるんですが、地方に行って、こんなものや習慣があるんだなぁとか、当たり前じゃないことのように思うことがたくさんありますが、それを思った直後ぐらいに、それを当たり前のことに生活している人の気持ちを考えます。そこから翻って、今の生活を見たとき、結構すごいなと思うんですよね。ここからさらに突っ込みますが、それっていつも目にしているものの、その裏側にもとてもたくさんの驚きがあるということです。普通に使ったり食べたりしていますが、相当に特殊なことです。ただ、そういう逆の立場になったときの方が、その逆にあるもの(というのは自分の身の回りのもの)を見て、そこに個性があると言って良いのかはためらいますが、違うということはよりはっきり意識できます。

次にもっと漠然と考えてみました。この話を考えはじめた実感から考えてみると、お金が移動しているようなものかなと感じました。お金がたくさんあるところからあまり無いところへ移動する率が高いように思います。まあ、これは一概にはそうも言えないので、とりあえずは有る無いは関係なく移動しているわけです。その結果、どこかに溜まったり、どこかにはまったく溜まらなかったり、あるところでは消えちゃう(?)ようなところもあるんでしょうね。

この話をもう少し良く言うと、植物の種が動物の体を使って広がるように、人を使って知識とか文化とか感情とかが広がっているのだと思います。ある地域の当たり前が、色んな所からやってきたものの影響で変わったり、逆に色んな所に影響を及ぼしたりするわけです。今の社会で大切なものの一つのお金は、こういうものと一緒に動いてしまうので、結果としてお金が動いていると感じたのだと思います。

で、この二つの視点で考えた後に、観光って僕らにとってどうだろうと思ったときに、僕は少し無駄遣いしているのかもと思いました。自分視点のところで少し盛り上がりかけましたが、非日常かどうか、当たり前じゃないかどうかなんて、大体のことは日常的で当たり前なものなんだと思います。それらのある違う状況を含めた体験のために、僕らはとても大きな力を使っています。少し力が入り過ぎじゃないかと思いました。

かといって、無くして良いものでもないように思うので、何かちょっとした努力でその力加減が和らがないものかなと思いました。例えば、随分前に明治神宮の初詣に行ったとき、初詣のように無くなることがほぼないような流れの中の、こんなに多くの人の足踏みが何かに変わるのなら、それはすごいことかもしれない。その当時の僕は(今も)安直なので、みんなが踏んでいる石畳の下にめっちゃ大きな風船みたいなのがあって、上から踏むことで、その口から風がぶおーって出て、その力が電気に変わったり、動力に変わったりすると良いのになぁと思いました。

ゴミの話でも考えていましたが、無くならないものは無くならないもののために上手く使えるととても良いのにと、観光についても思ったのです。そういう影響力を持てれば、僕が感じた力加減は和らいで感じるんじゃないかなぁと思いました。

ちなみに、観光という無くならないものを、ちょっと前の山の話につなげて、山との折り合い方なんかを考えてみると良いなと思いました。効果の期待値が未知数過ぎるのであんまり現実的じゃないですが、山に入った人は少しでよいから間伐してから出て行くような決まりなんかがあると良いんじゃないかと思うんです。この話はもっと考えようがあると思うので、もう少し時間をおいたり調べたりして考えてみます。

汲むこと / Having And Considering Everything

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最近は、地域というものを地方と都市という大きな二つで捉え、その地方というものを見直そうという動きが盛んですね。内側の動きとしては地産地消とか地域ブランディングとか銀座あたりのサテライトショップ運営とか、外側の動きとしてはお土産や特産品を集めてどうこうみたいな企画とか雑誌なんかがよくあります。こういう、今までに見出されていなかったものを新しいものとして、より多くの人が知る機会をつくるようなことをもって、今まで培ってきた地方の良さを見直すというやり方が盛んなわけです。

これに対して、僕はあまり良い実感を持っていません。というのも、なんというか、今までは情報が集まっている場所において珍しいものを探していたのだけど、情報が集まっていない場所にそもそも珍しいものがあるじゃないか、っていうだけの話な感じがするのです。
この話の背景には、今までの広い方向性の視野だけじゃなく、もっと深い方向にも目を向けようというような流れを感じます。それはそれで良いようにも思うんですが、珍しいものを探すんじゃなくて、もっと違うやり方があるんじゃないかと思いました。珍しいものを探すような考え方では、そこの土地に住んでいる人の気持ちはわからないし、ただ知らないだけで珍しくもなかったということもあるんじゃないかと思うのです。思い入れとか動機とか主体性とか、そういうものがごっそり無くなってるように思えるのです。

昨年後半あたりから、地方ブランディング的なことを考える機会が続いています。僕がそれについて考えはじめてから、はじめに思い当たったことは今も変わらず大きなお題目として、僕の中で掲げられています。僕が思い当たったことは、「そこに住んできた人たちが得意なことをやりやすい状況をつくること」でした。

得意なことというのは、社会科の教科書に載っているような、桃が名産ですとか、い草がたくさん穫れますとか、そういったある価値観に沿ってある瞬間を切り取ったような数値が示していることではなく、もっと広く漠然とその地域においての今までの流れを、その時々の生活にまで思いを馳せ、積み重ねて考えていったとき、どういう種類のことが得意と言えるかということを捉えようと考えました。

そしてそれの足がかりとして色々と調べたり考えたりするうちに、その地域に住んでいない僕じゃなく、住んでいる誰かがどんな風に思いどういう動きをしていけば、その得意なことがよりやりやすくなるのだろうかという問いも出てきました。

そこで僕が思い付いたのが、「汲む」ということです。主に人に対して人ができる行動を思い起こしたときに、与えるとか教えるとか繋ぐとか伝えるとか届けるとか育てるとか助けるとか救うとか、そういう言葉のどれかを中心に考えようとすると、どうにも行動が限定的に感じられ、今の、都市部にあるようなサービス的なものでしかないように感じてしまいました。「やりやすい状況」というものは、状況よりも前に、既にやっていることがあるのです。それを限定的な行動を起こすことで、関係を醸成したりとか、連鎖を生んだりというようなことはできないんじゃないかと思いました。そんな中、汲むというのは、人に対して思いやるというような意味合いも大きく含みながら、何らかの行為とそれで何かに丁寧に接することを前提としている言葉だなと思ったのです。人の意を汲んだり、時代の流れを汲んだりすることを基盤に活動できるなら、それは素晴らしいことだと思いました。

加えて大切なことは、そこで生活している人の心持ちだと思います。その動機が無い限り、何かが続くことは難しいと思えます。

こういうことの先に、どういうことができるようになるのか。まだまだ考えていこうと思っています。

自らに由る / I can't translate the title.

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よく耳にもするし口にもする、自由という言葉について考えました。

自由でありたい。自由に生きたい。自由になりたい。自由にする。自由にさせて。自由を欲する。

少し前に調べものをしていたとき、今の自由という概念は福沢諭吉によって決められたという話を見かけました。(それ以前からも自由という言葉はあったようです。)福沢諭吉は、アメリカで大切にされていたFreedomやLibertyというものに出会い、日本人もそういうように生きた方が良いと思ったんだと思います。その言葉を自由という言葉に翻訳し、それが定着したのが現在です。

ここで、現在使われている自由という言葉の意味を、逆にFreedomやLibertyに戻せるものかな(当てはめられるかな)と思いました。アメリカが無法地帯だというなら別ですが、なんか無理な気がする・・・って思います。このずれは、今の僕らの自由という言葉が、それを訳した福沢諭吉の気持ちとは違うということを示しているように思います。

自由の国、アメリカ。という表現があります。今もアメリカではFreedomやLibertyを大切にしているのでしょう。できたばかりのアメリカで考えると、この自由というのは、好き勝手になんでもやって良いよということではなく、人の生命というものを大切にするとか、誇りを大切にするとか、そういうような意味だったんじゃないかと思います(本当に大切にされていたかどうか、いるかどうかは、不勉強&未体験の僕にはわかりませんが)。そのように感じた福沢さんは、そういうのって自ずからに由ることだなぁ、というわけで、Freedomを自由としよう!と思ったんじゃないかと思えました。でも、アメリカ的なやり方が、奔放というか横暴とも言えるようなものに見えてしまった日本人にとって、自由というものが、(極端に書くと)反省の無い自分が望む満足のために好き勝手にやって良いというようなことに繋がってしまったのではないかと思いました。

自らに由ることを真ん中に置いて生きていくのは、とても辛いことだと思います。でも、その覚悟をもって善く生きようとするのは、とても健全なことだと思います。縛られた生真面目な人生なんかではなく、ダイレクトに(この生きている)世界と繋がり、泳ぐように生きていけるなら、そんな素晴らしい人生は無いだろうと思います。僕はそう生きていきたいなぁ。って、まあ僕のことは良いのですが・・・。

少し話をずらして、アメリカ的なやり方は日本には合わないという表現もたまに聞きます。この考え方も同意できる部分もあるのですが、自由ということに関しては少し違っているようにも思えます。(完全に僕の想像ですが)アメリカにあったFreedomは、誇りのようなものを動機に、家族が生きていけることこそ最上なことであるというように、生きていく上で必要な芯として扱われたのだと思います。このFreedomを、最上とすることも含めて解釈したとすると、それは日本にフィットするはずがありません。このFreedomという言葉は、その最上とすることを、国に、というより地域や家族や個人にまで求めている言葉だと思います。そして、それが自らに由るということだと思う訳です。

ちなみに、そこまで剥き出しの、自由というものを個々が考えないでも、いわゆる今の自由であることの共感や納得ができる側面ももっとあって良いようにも思うのですが、それが国を越えるのは難しかったというのが現実な気がします。アメリカの自由が特に日本に合わなかった理由は、それぞれの国の状況が違ったということなんじゃないかと思いました。その頃のアメリカでは、未知なものに対する可能性や生存することを叶える努力などを大切にしていたと思いますし、日本では、畏怖してきた存在と積み重ねてきたことを大切にしてきたように思います。そんな両者のFreedomは違って当然です。

言葉の解釈は、できた瞬間からひとときも一定にはならないものだと思います。ただ、人間にはそれを一定にしたい気持ちも強く、大勢の人が共有しやすい意味合いで統一されていくものだと思います。その経緯で、共感がもてず使われなくなる言葉もあったり、自由のように意味が変わりながらも根付くものもあるのでしょう。自由という言葉は僕らにとって、良い意味でも悪い意味でも、とても良いものなのだと思います。ただ、自らに由ることと、好き勝手にするというようなことを同一と考えるのは、やはりちょっと問題があると思います。

で、最後にひとつ。対価があれば水やエネルギーをいくらでも使って良い仕組みになってしまっていますが、それを制限することを考えてみても良いのではないかと思いました。そういうものを自由に使える状況というのは、おかしいんじゃないかと思えました。これは、つまり「自由」がおかしいせいじゃないかと思ったのです。


今回の話はいつもにも増して難しかったです。なんというか、表現が難しいというか。自由についてはまだまだ渦巻いているものがあるんですが、今回はこんなところで。

食育 / The Dietary Education

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最近よく、食育のことを考えています。

何年か前、国の政策として、食育基本法が公布されました。さらっと読んでみて、「食育バランスガイド」とか「健全な食生活を実践することができる人間を育てる」なんて言葉を見かけて、少しげんなりしました。ちゃんとした安全なものを、栄養価を考えてバランス良く食べる。というようなことが食育だと考えられているように感じますが、そういう考え方だけで、食べない方が良い食べ物が減ったり、食が生活の基盤という位置づけを持てるような方向に進むんでしょうか。

少し前に気がついたのですが、手間をかけて調理される料理というもののほとんどは、もともと生活の豊かな人のものだったのかもしれないと思いました。生活すること自体に懸命な人は、料理に手間をかける時間で、生活していくためのことをやっていたんじゃないかと。

そう思うと、料理研究家による、ちゃんとした食材を用いた、時間をかけてつくられる食事を常にみんなが目指すことが、最高に良いことだな、とは思えませんでした。

ここ数十年の全ての人の努力により、僕たちの生活においては、以前に比べ格段に死ぬ確率は低くなっています。でも、全体として死ぬ確率は低くなっているとしても、生活することに懸命な人もたくさんいます。

本当は、この生きやすさを上手く活かして、豊かな生活を送ることもできるんだと思います。色んな原因が考えられそうですが、現状に慣れてしまっていることが、その生きやすさを感じにくくさせているのだと思います。料理に限らず、身の回りのものともっとナチュラルに接した方が良いのかもと思いました。

で、食育のことに話を戻しますが、僕は今の食の問題とは、食べるものに対峙する時間が短いことが原因なんじゃないかと思っています。食べるものに対峙する時間を伸ばすために食材を育てる、なんてことが誰にでもできることだとは思いませんが、食材になる前の状態を知ることや、その食材がどういう変化をするものなのかを日常で感じるだけでも随分違うように思います。僕らが食に対してそういう取り組みをするだけじゃなくて、そういう生活の組み立て方をみんなでやれないとちょっと辛そうだなぁと感じているのですが、それはそれでとても難しいでしょうね。プライバシーとか、独占とか、サービスとか、色々問題のある言葉にぶつかりそうです。何がやれるのかな・・・。

一つ思うのは、大きく何かを決めるというよりは、小さい範囲でできることをやっていく方が良いように思います。例えば、周辺の人たちと一緒に食事をとれる関係をつくるとか。これは他力本願すぎるか。自分の食事を自分でつくることが第一歩なのか・・・苦笑。でも、それだけでもしょうがないのが現状のようにも思います。誰かと食をともにすることで、その関係が深められるような形が必要な気がしています。

時間 / The Time

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時間というものは、人の都合でしかないのかもしれない。

僕らが体感している、この流れは、永遠の昔から永遠の未来まで続いているものだと思う。だとしても、永遠に続くということを、僕らの都合にはめてみて、僕らが生きていることと関連づけることには無理があるように思えた。

少し前に書いた「人間の尊厳」から気がついたこと。例えばこのある日常の一場面が、僕の生の中で同一に繰り返されると想像したとき、尊厳を失いそうな感覚が生まれる。それはつまり、ある行動を、直接的では無いにしても、時間という単位へ半ば自動的に置き換え、僕らの都合でつくった時間という流れの捉え方の中で、何度繰り返すのかを想像するとき、限られた生の中で、最後の最後まで繰り返されるその行動に対して、気が遠くなるのと同時に永遠的な虚無感のような感覚を感じることから、自分の尊厳が消失してまうような感覚に陥る。その陥ってしまった感覚に対する感情を過剰な言葉で表現すると、僕の人生はもっと変化に富んで意味のある、素晴らしいものであるはずだ、というようなことだと思う。その人生は言葉で表現するならば、そうなのだろう。でも、それが具体的にどんなものなのかをあまり気にしないで、ただ生きることの方が、そうなっていくものなんじゃないかと思った。


他人と何かを共有するために、時間という単位ができたとすると、それはやはり人の都合であって、それがそのまま、この世というものにあてはまるものではない。都合とは言いながらも、確かに60秒が60回すぎれば1時間が経ち、それが24回繰り返せば1日が経ち、太陽はぐるっと一周回って戻ってくる。だから正しいのか?というとそういうことではない。正しいから、例えば太陽すら自分の範疇にあると言えるのだろうか。

少し極端に言うと、僕は、体感した事の全てが説明可能な言葉にできるような世界は、自分の意識の中にしかないと思っている。周りにはもちろん、自分の無意識の中にさえ、これほどのものが潜んでいる事を感じる事をせずに、時間から連想する尊厳の喪失なんて考えてもしょうがない。


他に、よく目にする「ゆとりのある暮らし」という言葉を考えてみると、その言葉からはじめたその暮らしは、時間という都合でできてしまうんじゃないかと思った。暮らしは、もっと自然なかたちの現れで、その現れ方により、ゆとりが生まれるのだと思う。ゆとりを持つために、意識的に何もしない時間をつくるということが不自然なのかもしれない。何もしない時間をつくるというのは、何かしている時間を短縮する行為とほぼ同じになりやすい。どちらかというと、時間を意識せずに何かをし続けると考えた方がより自然にそちらの方に向かっていくんじゃないかと思った。


尊厳の喪失や、理想的なゆとりの持ち方に繋がってしまうぐらい、時間の捉え方は、自然なものと認識してしまっていることが、良いのか悪いのかはわからないけど、尊厳やゆとりといったことを考える上では、時間の捉え方を変えないとわからないことがたくさんありそうだと思った。



写真は、つつじ。春なので。

祈り / The Praying

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辰巳芳子さんの本「食の位置づけ」を読んで、祝日や年中行事というものが単なるイベントではなく、生への感謝の現れだということを改めて思い出しました。いや、正確には知りました、かもしれません。

その昔、生きる事が今よりずっと難しくて、たくさんの悲しい思いが渦巻いていた中、あるうねりや積み重ねから生まれてきた行事がいくつもあります。七五三だって端午の節句だって、これらの存在がここまで深く根付いていることを思うと、当時の思いの強さが伺い知れますし、人が人として反応した結果であるようにも思えます。

辰巳さんは、行事のあるハレの日の食とは、いのちへの祈りであると言っていました。「なぜ人は食べ続けるのか」という自問に対し、食というものがこの世の全ての流れの動きの一つである。それをごく自然なものと捉え有難く思い、一品一品を、ただひたすら丁寧につくる。それをもって、子が生きてくれたことに対して喜び、これからも元気でいられるよう感謝する。それを節目節目で祝い、祈る。

ハレとケという分け方も、もともとあったというものではなく、毎日が同じように続いていく中で、前段のうねりや積み重ねがそれを導いたんじゃないかと思います。

そう思っていて、そこらへんで僕の中にあった違和感がはっきりとし始めてきました。

祈るというのは何を何に祈っているんだろう。祈るって何だろう。

僕たちの存在が、この世の流れの一つであり、少し科学的に表現するとしても原子レベルで少しずつ外から内へ、内から外へと繋がっていくようなものであるのは納得できます。そのための食という事もわかります。でも、食べたくても食べられない状況にあって、死んでしまう事は自然の流れなんじゃないか。もちろん、そんな風な割り切りを僕たちは持ち得ません。どうしても死にたくない、死んでほしくないと思うのです。それは、例え死んで当然だと思えるような状態であったとしても、自然の流れの死というものに対して、抗うような反対方向の祈りというものを感じてしまうのです。

この話、ごく普通の話のように思えるかもしれません。でも、この話を人生の中にいくつもある矛盾の一つとして捉えてしまい、死に対して抗うための祈りという認識をしてしまうことが、そもそもおかしいんじゃないかと思いました。この話は矛盾なんかではないのかもしれない。このことに気がついた時に自分の中で振り返ってみて、頭の真ん中より上のあたりにきゅーっと意識が集まってくる感覚を思い出しました。あれが祈りなのかもしれません。きっと、もっと動物的なもので、反射運動のようなものなんだと思いました。抓られて痛い!と思うぐらい。こうあってほしいというのは、その後からやってきてるような気がします。

今の時代、何かのために祈るということは望むということに近くて、本来的な祈るではないんじゃないかということです。祈っても越えられなかったこと変わらなかったことが、(人の欲望により)本来の祈りの必要性を失わせたのだろうと思います。祈ってもお腹はふくれませんしお金も稼げません。それは、笑うことも怒ることも同様です。祈りとは、わかりやすく何かのためになるものじゃないんだと思います。でも、備わっているものを抑えてしまう事の影響はきっと大きいはず。備わっているものは完全に消し去る事ができないものだとも思います。

文化というのは、この備わっているものが数えられないぐらい積み重なって、ようやく見えない形を成していくんじゃないかと思いました。行事はその見えない形の中にある、節のようなものなんだと思います。本来的な祈りをきちんと捉えていないと、文化は形を成さないのかもしれません。そして、これはそんなに難しいことではなく、その感覚を思い出し委ねるだけのことだと思います。

昔を思う / Thinking The Old Age

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昔のこと(想像含め)から色々考えていました。

まず、家のことから考え始めた。その昔、家は囲炉裏(もしくは竃)を中心に成り立っていた。囲炉裏の火は暖をとるため以外にも、煤が出ることで家が丈夫になるという役割も持っていた。囲炉裏の火を絶やさないよう、薪を絶やさない。そのために山に入る。結果、山にも人が入っていた。薪以外にも、水を汲みに行ったり食料をとりに行ったり道具の素材をとりに行ったりと、山に入ることは、生活をする上で欠かせなかったのだろう。こういう状況においては、家を保つために行動したというよりも、生活全体としてバランスが良かったのだと思う。きっと1000年近くはこういう生活だったんだと思うし。

第二次世界大戦後、GHQにより食品衛生法ができた。囲炉裏や竃、土間が無くなり、庭が変化した。ガスが通って、暖をとるという方向よりも、外気に影響を受けないようなつくり方に変わっていった。こうなってくると昔のバランスは保てない。山には人が入らなくなり、生活の場が山から都市へ移り、山が荒れる原因となった。

便利さを求めて、山から人がいなくなったとよく言われるが、それだけではないと思う。それは、例えば山間部の村の中でも、二極化を実感したせいじゃないかと思う。昔からの流れで、多くの村には大地主という人がいる。村の頂点みたいな人だ。その一方で、その価値軸で見ると一番下に位置する人もいる。上辺と底辺で二極化が起こっているようにきっと感じただろう。二極化を感じたとき、その価値軸が存在しないところへ行きたくなるのもわかる。良い土地も持てず、立派な家もない。逃げると言えば逃げるなのだけど、より生きやすい環境に移動する。移動先は他の村だったり、誰も住んでいない土地だったり、都市だったりと様々だ。そうして見いだした価値軸が今の便利さだったりするんじゃないか。さらに都市においては価値軸の持ち方が複雑で、二極化を実感しにくかったはずだ。でも今、便利さが崩壊したのか、都市部では二極化を実感し始めている人が増えているように思う。ここで思うのは、二極化を感じるところとしては、権力の強さなのかもしれないということ。でも、人生の真ん中に権力の影響を受けない人は、そうは思わないんだろう。そういう人はきっと誇りを持っている。

山のことに話を戻す。山が荒れたというのはどういう状況なのか。木が生えていない山が増えたことや、木はあるのだけど根がきちんとはっていないゆるい山が増えたことなどがある。針葉樹は生えたい放題にしておくと、山に日が入らない状態になり、地面に草が生えにくくなり、養分もなくなり、保水性も低くなるらしい。伐採や間伐というのは、そうならないために必要である。

でも、少し戻って考えてみると、そもそも広葉樹が多かった、バランスの取れた山に、経済的な必要性から針葉樹を植えたのは人間だ。それを忘れて山が荒れたなんておかしな話だ。でもでも、それが僕らには必要だったのだと思う。少なくとも、以前には必要だったのだ。そのおかげで今がある。そして、今から広葉樹を植えたからといって、すぐには元に戻るもんでもない。時間はかかる。

ここで、なんだかなぁと思い始めたのは、何か大規模なことをやるにあたって、このためにこれをしよう!というときに、“このため”がある地点まできた(ある変化が起きた)後、どうするかも考えておくことをなぜしなかったのか。もう少し言うと、始める前に想定することなんて行き届かないに決まっている。おかしな話かもしれないが失敗することを前提に、それを調整しフィットさせるためとか、全然違ったら違う方向を考えるとかの考え方もできるんじゃないか。そうすることで、はじめに何を思い、どういう経緯でその芯が変わっていったのかという知恵を蓄積できる。これが財産になり、次の動き(世代でも良い)につなげていけるように思う。そういう流れもきっとどこかにあったはず。どうして途切れてしまったんだろう。昔の知恵をそのまま使うんじゃなくて、その知恵が進む先を考えていくこと。そう見直せない限り、山が荒れた地球がおかしいと嘆いてみてもはじまらないのかもと思った。

誰だって失敗したくない気持ちはわかるのだけど、そことその裏側に原因は潜んでいると僕は思う。失敗しても、それを踏まえてやり直すことが大切だと思う。というか、考えたことが成功するなんて無いんじゃないか。失敗しても成立させる努力ができるかどうか、それは生きていく意気込みみたいなもんだと思う。それが持てないのは、やっている人だけの問題ではなく、やってもらっている僕らの気持ちがそれをさせない、今はそういう状況もあるんだと思う。関係する人や事がある規模をこえたとき、信頼を持つというのは距離が遠すぎて難しい。でも、意外とある側面に対して無関心になる(少し語弊があるかも)ことで為されることもあるのかもしれない。

って、こんな話になる予定だったわけじゃなかったんですが、こんなところで。苦笑

反対語 AとB / Antonym A and B

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明るい、暗い。新しい、古い。ゆるい、きつい。暖かい、寒い。優しい、厳しい。熱い、冷たい。

色んな反対語があります。この反対語という意味の持ち方は、とても危ういんじゃないかと思いました。

明るいから暗いまでに至る間に感じる感覚は、同じ軸に乗ったものじゃないという実感が僕にはあります。それは、照明の明るさを調節して得られるものだけで明るさが決まっている訳ではないということです。想像の中でもう少し突っ込むと、軽いの反対方向にあるのは重いものだけとは限らず、楽しいってことだってあるんじゃないかと思うのです。ただ、反対語はわかりやすい分、浸透していて、それだけを信じていると気がつかないことがたくさんある気がしました。特に、自分が嗜好する方向と反対の言葉に対して拒絶してしまうことが気になります。

この前段で気になっていたのは、アナログとデジタルについて。これに関しては、アナログ志向の人間だからデジタルなことは興味ないしわからないとか、デジタルっ子だからアナログなことは必要ないとか、そういう感覚に対して、気になることがありました。

例えば、デジタルなものの象徴としてパソコンというものがあって、デジタルとアナログの間には壁ができています。でも、デジタルなことというのは、いわゆる“デジタルなもの”にしかないように考えるのは違うと思えました。僕的に簡潔に書くと、僕らが頭の中で、何らかの理由付けをして捉えたものごとの全てはデジタルであり、それ以外の捉えきれないゾーンがアナログなんじゃないかと思うのです。

そのまま話を転がしてみると、人工と自然というものがあって、作られた物は人工的、海や山は自然という割り切りはどうでしょうか。そこの境目はどういうものなのか。

スタイリッシュなものは人工的で嫌いだという出発点から、たまに山へ行き、自然って最高だなぁと思う心は、本当に自然を愛せているのでしょうか。僕は、本当の山での暮らしをしたことがあるわけじゃないので、山が愛せているというのがどういう状態なのかはわかりませんが、少なくとも都市だろうと山だろうと、人工か自然かという理由をもって何かに接さないのはおかしいと思うのです。もっと言うと、人工だって自然だろうと思ったりもします。(さらにもしかすると、今見える自然は人工じゃないかとも・・・)

自然じゃないことが人工だという割り切りを持っていては、人工が自然の一部とは思えないんじゃないかと思うのです。それって、ちょっと危ないというか、人工に対しても自然に対してもキッチュな認識だなと思います。(ちなみに、キッチュが悪いことだとは思わないが、人生の真ん中あたりに関わることをキッチュなものとしてしまうのは良くないと思う)

ちょっと話がややこしくなってきましたが、何事も二極的ではないと思いつつ、反対語を便利な道具のようなものだと思って接していないと、価値観を見失うんじゃないかと思った次第です。特に、反対語による理由付けを自分の感覚だと思うことは、あらぬ方向に進んでいることがあるように思います。

お金 / The Money

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お金の価値について考えていました。昔から、その価値が上下を繰り返しながら、今に至ってもほぼ同様な価値を持ち続けるお金というものは、とても不思議なものだなと思ったのがきっかけです。いや、少し落ち着いて考えると、“ほぼ同様”というのはちょっと違っていて、昔よりも今の方が、お金に対してどん欲というか盲目的になっている分、人生の中でお金に重点を置いているように思います。これは一種の慣れのようなものなんじゃないかと思います。もちろん、今も昔も、お金は食べられないし、薬のように体を治せるようなものではないということは、理解できているのですが、今はそれが直結しているようにも思えます。これは、自分にとって信頼の足ると思える人が扱っているお金に対して、自ずから感じる評価を気にしないようにしているからだったり、経験則としてお金に対する気持ち上の負荷をどんどん大きくしてみても(例えば食べ物づくりを止め、お金をつくり出すことに専念することなど)自分の人生は成立可能だった結果なんじゃないかと思いました。

僕もお金のことをそれほど特別なものと考えたことは無かったのですが、価格としての価値というものがこれほどに変化をする、普遍的であるはずのお金というものを考えた時に、何かおかしいよなぁと気にかかるようになりました。

色々と考えてみたのですが、どうもお金というのは、ある文化圏(?)における究極の先送り法じゃないかと思えました。食べ物の物々交換で考えると、交換した時点で食べれば問題ないというか、腐る前に食べる必要があります。でも食べないとすると、腐るまでしか価値が残らない。お金は腐らないので、いつでも何かと交換可能なわけです。

でも、心はお金じゃ買えないんだよとか、本当に困る時には逆にお金があっても役に立たないことだって想像できるわけです。そうこう考えていると、価値を数値で表せることは便利ではあるけど、色んな意味で欠如している部分があるように思えました。その交換はなんのためなのか、交換によって得られた物に対する心持ちとか。

食料を奪い合うような時代においては、他者との間にあるお金の重みはより大きくなる(価値は下がるが)のかもしれませんが、逆に今の時代においては、重みは小さくなっていると思えます。その小さくなってしまった重みに対して、不信感を抱くのは当然です。でも、今のタイミングで、自分の小さな不信感ぐらいでは、信頼している社会に対して思い切れることはほぼ無いでしょうし、経験則を覆すことはできません。難しいもんです。

でも、既に経験として感じているところはあるはずです。湯水のように使ってしまったお金によって生まれてしまった先送りのしわ寄せが、至る所に感じられます。これはたった一個人の先送りであっても、それが直接的に個人に戻ってくるというものである以上に、地域に対して国に対して世界に対して、戻っていっているのだと思います。でも、これも難しいんですよね。必要不必要を誰かが測って決めていくことなんて、できませんもんね。

僕的には、お金の価値じゃなくて、お金の意味が変えられると良いのじゃないかと思っています。お金ができる前、さらに物々交換が行われるよりも以前、もっと言うと言葉すらなかった時代、他人によるある(親切な)行為の代わりに自分ができることをお返しするような関係があったと思うのですが、そのとき、両者で交わされた価値というものが、ほぼ無くなってしまっているやり取りはおかしいと思うのです。

ある一辺倒な価値基準以外に、それとは全く無関係にある価値基準をもち、それらを合わせて交換を行うような仕組みなんかがあると良いのかなぁとか思ったりしました。これも先送り法の一環かなぁ・・・。例えば、お金の現れである資産のようなものが、お金以外の価値軸でも持てたりすると良いのかなとか。でも、これもまた難しい。お金以外の価値軸って、いわゆる差別ってものに繋がりやすそうだし。でもでも、そう思うと、お金による社会性の差というものは差別なんじゃないかとも思えますね。うーん、とても難しい・・・。もう少し考えます。

甘えてはいけない、のか / Don't Rely...?

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甘えてはいけない。

本当に?

最近、このことについてずっと考えていました。これの返事が少しでもできるようになると、色んな辛い出来事が回避できそうな気がしました。

誰かに対して、「甘えてはいけないよ」と言いたくなるとき、言葉を止めることがよくある。なんで?と聞かれたときにどう答えて良いかはっきりとはわからない、ということもあるのだけど、それ以上に、「甘えてはいけないと言うこと」に対して、僕が甘えているように思えて言葉が出てこない。ただ、稀にうわっと出るときがある。それは肉親だったり、親友だったり、いわゆる僕が甘えてしまう人たち。それ以外にも、甘えてしまった人もいる。もうこの人とはあわないんじゃないかと思えるような人も、不意に甘えてしまう対象になっているように思う。

昔から、例えば殺人事件なんかの、加害者の気持ちが何となくわかる(あくまで、何となくです。実際はわからん。)ような気がしていた僕は、この感情の起伏(?)みたいなのを考えていて、そういうことなんだと思った。やっぱり、そういう人たちは、何かに甘えている。

で、ここではじめの話に戻すと、僕の考えたように何かに甘えているとしても、甘えてはいけないというものでもない。「どうだっていいんだよ」と言われればそれまで。そんなことを言う人には、やっぱり甘えるなと言いたくなる。ここから先は、ずっと平行線の話が続く想像ができる。

ちなみに、同じようなことで、「裏切られた」と言っている人にも、甘えるなと言いたくなる時がある。例え、どんなバックグラウンドがあろうとも、裏切られることなんて無いと、僕は思う。自分が何かの形で被害を受けたって、その次にどうするかの方が大切だと思うんですよ。って、話が逸れました(苦笑)

今の僕は、自分が生きていることに意味を求めてはいない。いや、自分がじゃない。人が、かな。何で生きてるの?って、生きてるから。生きている自分や他、全ての世界に対して、僕は絶大な興味を抱いている。

そんな僕が大切にしていることの一つは、僕が見たくないものを見ないこと。そのためには、色んなものを投げ打っても、それを回避できるよう努力をする。

「意味が無いと生きていられない」と「甘えてはいけない」は似ているような気がする。とすると、生きていることに意味を求めない僕は、甘えてはいけないと思っていないのか?でも実際は、誰かに対して甘えてはいけないと思うときがある。じゃあ、逆に生きることにはやっぱり意味があるのか?いや、無いと思うんだよなぁ。うーん。これ、難しい。

ちょっと話を変えてみる。

甘えている状態ってどんなだろうと考えてみる。犬がしっぽをふるときに感じる気持ちに似たものが感じられる状況で、その状況に身を任せることが甘えていると言えると思う。本当は特に悪いことではないのだけど、過剰な甘えは本当に良くないと思う。自分にとってもそうだけど、僕は甘える相手に対しての影響が一番気になる。与り知らないものに対して甘えることは、それを与り知っている人の努力なんかは考えない。与り知っていると思っている存在に対しても、例えば自分のこどもに対して甘えることは、人生とはそういうものかもしれないと、こどもに思わせてしまうかもしれない。こういうことをいつも気にして、一切しないことが良いとはもちろん全く思わなし、僕もすると思うが、過剰になると甘えるなと言いたくなる。甘えることは、依存しているとも言える。こどもに対して依存している親はたくさんいると思うし、僕ももしかするとそうなるかもしれないけど、ある線を越えてまで甘えてはいけないなと思えるようにはなりたいかも。

甘えているかどうかの線引きは、倫理観というか個々の価値観にあるんだろう。とすると、やっぱり甘えてはいけないと、他人に言うことは甘えていることなんだろうな。

では、なぜ僕が甘えてはいけないと思ってしまっているんだろうか。過剰に甘えることで、何かをごまかそうとしているのが嫌なのかもしれない。転嫁しているのを感じて、逃げているように思うのかもしれない。そうはいっても、逃げたって良いじゃないか。

あ、逃げ道はいくらでもあるってことかも。もっとやれるじゃんと思うのか。どうやら、そういうことのようです。つまり、僕が甘えるなと言いたくなるとき、もっとやれることがぼんやーりとあるかもと感じているってことのようです。

というわけで、甘えてはいけないってことはないけど、甘える前にやれることをやろうってことみたい。なんだ、シンプルだな。

メールとの距離感 / The Distance Between Us And Email

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最近、ようやくiPhoneに慣れてきました。でも、やっぱりバッテリーが不安で不安で・・・。まあ、そんな不安は置いておいて。iPhoneって基本的には覗くためのツールだなと思います。データを取得するという期待をしているとやられるように思います。そんなiPhoneを持って、メールとの距離感について思うことがありました。

普段のコミュニケーションの中で、声をかけることと、手紙をもらうことでは意味が違います。メールは、どっちの意味合いに近いんだろうかと考えました。若ければ若い人ほど声をかけることに似ていて、逆に年を重ねている人にとっては手紙に近いものだと思っているように感じます。
メールが電話の新しい形だとすると、若い人の感覚の方が正しいのでしょう。逆に、メールの語源から手紙の新しい形だとすると、若くない人の方が正しいのでしょう。うーん。年齢によって違う解釈を抱えているのは、何か気持ち悪いもんですね。

で、僕が気がついたのは、たぶん、どちらも違うということです。声と手紙の一番大きな違いは、目に映る明らかなものがあるかどうかです。あ、電話だって履歴が残るとか言わないように。電話は、今や声になることができています。手紙は紙ですよね。メールは、携帯電話などのデバイス上に存在する、他者からの投げかけです。これが実は少しおかしくて、僕もこれに気がつくまではメールがまるで僕の手の中にやってきているように捉えていました。メールは、本当を言うと手元にきていません。いや、デバイス上に確かにきてるんですけど、実は受け取った人は手元にあると思っていないのに、そう解釈をしていないと感じました。
僕が思うに、受け取る側の受け取る責任みたいなものが、都合に合わせて強弱するからなんじゃないかと思いました。だから、声か手紙のどちらかによって解釈しようと考えて、個々人によって捉え方が変わるんじゃないかなと思ったのです。

じゃあ、なんなのかというと、受け取るものというよりは、主体的に見るものなんです。つまり、主体的に見ないというものにもできるのです。これがメールの正体だとすると、なんとも曖昧なものですね。新聞とか雑誌、駅の掲示板でもよいですが、そういうものと同じようなものだということになりますね。まあ、実際の使われ方として、なるべくすぐに返事を返すという方法で使われているので、やっぱり電話や手紙に近いものになっているのですけどね。

で、この話、どこに落ち着くのかヒヤヒヤな僕ですが、これに気がついてメールが今までよりもはっきりと、自分から距離のある存在だと感じることができたのです。だから何か変わるのかとかはわからないですが、はっきりしてすっきりした、という話です。

あと、iPhoneについてもう一つ。

iPhone使ってて、腑に落ちないことが一つあります。それは、ブラウザが落ちまくること。いや、落ちまくるっていっても、落ちた事なんてない携帯サイトや、ほぼ落ちないPCでのブラウジングと比較するとこういう表現になるっていう程度の話なんですが。

でも、そこから僕の想像ははじまりました。これ、部分的にはわざとなんじゃなかろうか?わざとと言うと悪意があるように感じますが、悪意があるんじゃなくて、その問題を解決することの優先順位があがらないのではと思いました。

iPhoneを使い始めてそろそろ4ヶ月。落ちる傾向みたいなのがわかるようになった感じがします。バックグラウンドで色んなアプリが動いていると落ちやすいってのが大きいですけど、普通のブラウジングで落ちるときって、バナーが多いサイトを見ているときな気がしました。

わりと前からバナーって意義が薄くなってないかと疑問視している僕だからなのかもしれませんが、広告としては、ぶっちゃけちょっと色んな所で使われすぎてると思うんですよね。そこかしこで同じバナーを見たりもするし、とにかくたくさんありすぎです。上の話と少しかぶりますが、広告からの情報の得方も色々あって、広告があったおかげで知る事ができた!っていうポジティブなこともあると思いますが、ここまで膨らんでしまった状態ならむしろ、主体的に得ようとするときに得られるのが広告という形に押し込めた方がまだましだと思ったりします。

インターネット上に限らず広告全般に言えることで、インターネットが普及してから一番変わったのは、情報を得る手段が格段に広がったことで、その広がりにあわせて大量にばらまくのではなくて、その広がりや繋がりを上手く使ってピンポイントに広告をしていくことが大切なのだと思います。そういう傾向に戦略立てているところも多いですけど、バナー枠を用意する側はそうでもないですね。

ちなみに、GoogleやらYahooやらmixiがやっているターゲットを絞った広告表示はまだまだ早いと思います。見る人のそのときの気持ちも汲み取れるようになってからやるのが良いと思いますよ。せめて体調ぐらいは考慮できないと。機嫌の悪い奥さんが八百屋の前を通ったとき、いつも通りに声をかける八百屋さんはいませんよ。まあ、そんな伺ってくるようなウェブサイトって、今想像すると相当気持ち悪いですが(苦笑)。

エコロジーとものをつくること / Ecology and Designing

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ものをつくることとエコロジーについて考えていた。

限られた資源を有効に使おう!とか、リサイクル率95%以上の製品しか作りませんとか、色んな主張がされている。限られた資源を有効に使おうという投げかけは、普段の生活の中で自分たちがどのぐらい資源を使っているのか認識する人たちを増やすことができているんだろうか。また、リサイクル率95%を掲げれば、単純にものとして人生に必要か不必要かは関係なく、もっと何かのために努力できるのに、そのままで肯定されているような物もたくさんあるんだろう。

エコロジーであるかどうかを誰かが審査することは、人が自然を審査するようなものだと僕は思った。例えは悪いかもしれないが、この辺に道が欲しくて、この辺の山の中でこの山は綺麗じゃないからまあ無くしちゃっても良いよね、とかってときの無くしちゃう山を選ぶ感覚に似ている。普通に考えればそれで良いはずはなく、その前段に問題があるのに。

こういうことを趣味で考える分には、深く色々考えられて良いのだが、最近のエコロジーは、全体としてちゃんと考えられた主張であるかどうかは関係なく、とにかくある一面のみであっても効果あるんですって言えちゃえば、それが絶対の善として存在しようとするところが怖い。健康問題も教育問題も同じようなもんだと思う。ある部分を急に持ち上げることが、全体としてどういう影響をもたらすのか、はあまり考慮されない。

白洲次郎の影響か、ちょっと前にたくさんのニュースの中で電気の記事が目に入った。オール電化はそれほどエコロジーではない、という話。コンビニの袋のことだって、割り箸のことだって、オール電化に対するのと大差ないような否定ができるんだと思う。でも、社会がそれぞれの行為をエコだと言っていて、それを信じてエコだと思う人がいる。それだけで、その行為を行う自分が、自分の中で社会的に(この表現は少し難しい。ネガティブな意味ではないです)正当化されている状態になれる。今の時代にできた自己正当化のための新しい手法なんだと思う。(補足しておくと、悪い意味で正当化という言葉は使っていない。無自覚ながら、僕も含めみんな、それが良いと思って生きているものだと、僕は思っています。)人間が自己を正当化していたい、できない状態があまりに長いと死んでしまうということは、何となく理解できているのだが、この正当化のために失っていることをきちんと理解しないと駄目だと思う。
また、失うこと以前に、本当に正当化できることというのは、そんなに簡単な事じゃないんじゃないかと思う。それこそ、一生をかけてみて、ああ良かったと思えるかどうかぐらい先の長い、もしかすると、いわゆる人生の目標とも言い換える事ができるかもしれないようなものなんじゃないかと思う。

ものをつくることに話を戻す。

「贅沢や利便性なんかのために資源を使っているにも関わらず、ゴミになってしまうようなものをつくることは、絶対にしてはいけない。だから、人が生きる必要最低限のもの以外はつくらないほうが良いんじゃないか。」こういう心境に陥ってしまう状態は、上に書いたような新しい正当化が生み出していると思った。そのままそれは、エコロジーによってものをつくることは否定されている、と僕に感じさせている。

例えば、手を出される事に抵抗の無い正当化が目の前にあって、みんながそれに則して、便利さをせーので手放すなら、その正当化は意味を成すことに繋がるのだと思うけど、何か目に見える目標というものを掲げて、みんなが一斉に何かやるっていうことの難しさにはそろそろ気がついてきた。

こんな風に考えていると、目の前の正当化を感じながらも、それでもそこに依らずにものをつくることって大切なんだなと思った。もし、その正当化を受け止めて、結果ものをつくることを止めることになったとしたら、それは本末転倒じゃないかと思った。「いや、そんなことはない。ものをつくる人はいっぱいいるから減るのは大歓迎じゃないか。」と誰かは言うかもしれない。でも、僕がつくらないとしても、代わりに誰かが何かの形でつくってしまう。この流れはとても自然なことなのであって、であれば、僕は、手を出される事に抵抗の無い正当化に依らず、僕がつくろうと思うのだ。

自分を正当化するときの根拠(こういうのを信念というのかな)は、ものをつくるときは特に、自分がそうだと感じることの方が良い。自分や自分以外の人たちが、知って見て触れて何を思いどう感じるのかを考える事をするのが良い。例えば統計の甘い罠に頼り切ると、いつの日か色んなことがわからなくなり、色んなことがどうでもよくなるような気がした。


少し話が前後してしまうけど、最近のエコロジーってひどいのが多いなって思う。例えばカーボンオフセット。Yahoo!がやっているのをみて、それお金じゃんと思った。自分のやったことに責任をもつというのは、お金だけをどうこうしてもしょうがない。やってしまったことを何かに置き換えたんじゃ、また同じようなことを違う形でやっちゃうだろうし、何でもかんでもお金に変えられるってもんでもない。もうちょっと言うと、個々人の二酸化炭素の排出量を気にする前に、もっとあるだろうと思うし。でも、難しいのかな。

色々書いたけど、マイバッグとかマイ箸を使う事はとても良い事だと思います。僕は使っていませんが・・・。まあ、マイバッグを使うかどうかで善悪がどうこうっていうことじゃなく、エコロジーなのかどうか、自分を含め、誰かのためになっているのかどうか、を自分で考えてやれているなら、それで良いのだと思います。こういうみんなのことって省略したり簡略化する意味は無いし、反省があるから先に進むものなんじゃないですかね。ものをつくることも、同じだと思います。リサイクルできることも、それなりに大切ではありますが。

少し前からちょこちょこと書いていたので、文章が散漫だ・・・。そのうち書き直す・・・かな。とりあえず公開ってことで。

決めること。まもること。

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色んな決め事があります。人を殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、そういう倫理観のど真ん中の揺れることもあるけど何となく守ってるような決まり事や、靴下は白でワンポイントまでOKとか、茶髪だめとか、そういうはっきりしてることのように思えるけど実はごく一部の価値観(例えば先生の。機嫌で変わるもの。)で決められてしまっているような決まり事なんかがあります。

ここ最近、色んな法律が変わったり、新しいルールができたり、今までに誰も口に出さなかったことがどんどん明言されていて、生きている社会の分野によって個人差はあるけど、まもらないといけないことがみんな増えたんじゃないかなって思います。

最近気になったのは、携帯電話とタバコについて。携帯電話については、小学生中学生は携帯電話持っちゃ駄目って、それをストレートに抑制して、どうなることを期待しているんだろうって思いました。タバコについては、タスポで買いましょうと言いつつ、深夜販売を再開させて、夜中に親のカードで買えばいいじゃんって思われるのは平気なんだろうかとか、携帯電話認証で割り切っちゃった方がまだ効果ありそうじゃないかとかって思いました。。まあ、決めたときの気持ちがよくわからんって感じです。

最近は、ルールのつくり方が良くないんじゃないかと思いました。何か、おかしな決まりだなぁと思う機会が多い気がします。まあ、そのぐらい複雑になっている社会があるってことなんだと思いますが、そうはいっても皆のことだから慎重にやるしかないと思うんですよね。恐らく、ポイントとしてはもう少し焦らずゆっくり考えて決めることなんじゃないかと思ったりしています。それが正しい(語弊あるかも)ことなのかどうか、少しでも考えてみる時間ができると良いんじゃないかなぁと思います。

少し話が戻ってずれますが、携帯電話について。随分前に僕もあーだこーだ考えてみましたが、最近話題のフィルタリングってやつです。どーも、納得いかないんですよね。危ないから守らないと!って言って色々考えるのはわかるんですが、何かやり方が違う気がして。ちょっと話題の「日本のインターネットが終了する日」でも触れられていますが、各端末のIDを無差別に送信するなんて、デメリットしか無いんじゃないの?どうしても突き止めたい時は、もう突き止められる仕組みはあるんじゃないの?って思いますし。

さらにちょっと話をずらして、例えば、海辺に住む人たちは、荒れた夜の海には近づかないじゃないですか。危ないからって、海を埋めたりしないですよね。同じようにはできないんですかねぇ。例えが自然だと大きすぎるかな。ああ、道路でも良いかも。自動車危ないから道路を無くそう!とはならないわけで。これも極端かな。うーん。良い例えが無いですが、とにかく危ないものに対して、危ないからという理由で、無くしたり覆ったりしないでも今までやってこれたのは、明示的にルールをつくったからじゃなくて、黙示的につくり上げたり、ときには感情的にそれを諭すというやり方でやってきたんじゃないかと思うのです。もちろん、死にたくはないので、できることは何でもやろうって気持ちも大きいですが、何でもやろうって気持ちだと逆行しているような気がするんですよね。5年スパンぐらいで考えると、良くなるのかもしれませんが、もっと長い目で見たときに、対峙した問題が痛くても、問題のまま抱えておく期間がなるべく長い方が、より長くより良くなるように思うんです。全体として、ちょっと痛がり過ぎなのかもしれません。情報が早くなった分、ちょっとでも痛いことに対して敏感になり過ぎているのかもしれません。まもり方(というか、まもる側かな)にも問題あるのかもですね。絡み合ってるなぁ。

最後。本当はきちんと記事にしようと思っていましたが、さらりと書いてみます。
最近、個人情報が痛みの中心にあることが多いですが、個人情報ってそんなに痛いことでしょうか?この世界で仕事をしているというのも大きいですが、僕なんて、公開しまくってる気がしますよ。スパムメールは嫌なのでちょっとした対策ぐらいはやっていますけどね。膨大な量になりそうですが、何が知られたらどう困るのかをちょっとまとめてみると良いかもしれませんね。そういうのって、誰か見てるのかな。

あと、なかなか文章にならず、僕の中で渦巻いていますが、身分証明ならぬ自分証明がきちんとできるようになると、かなり色んなことが解決できる予感があります。まだ、文章にならないんですけど・・・。

あとあと、いっせーのせで皆が手放すっていうことをもう少し考えてみた方が良いのかも。何かで一度でもできると、変わることがあるんじゃないかなぁ。やり方とやる対象がかなり難しいそうですけどね。

相変わらず、ぐだぐだな終わり方ですが、この辺で。

形のなまえ / Name of Shapes

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少し前に夢を見ました。

誰かに、「あなたが最高に良いと思う形の握り方をしてみて。」と言われる。
僕は、こうかな。いや、もう少し中指と小指だそう、親指の角度が・・・と試行錯誤。
「できた!」とこぶしを突き出して僕。
「その形をこなと言うよ。ちなみに、これがきな。んで、これでこなきな。」と誰か。
そういう風に名前のついた形が昔は15種類ぐらいあったんだとか。
で、起きた。寝ぼけつつ、なるほどなぁと思う。

今では、鍵の穴みたいな形状だと鍵穴型だとか、縦と横の割合が極端に違いすぎず両端が丸い形状だとカプセル型だとか、水滴のような形状だと水滴型だとか、そういう名前のつき方のものがあるのだけど、実存するものに頼った名前だから何となく純粋ではない気がした。四角とか三角とかは、もう少し純粋で、角が丸くても、少し歪んでても、大体は四角だと言われるので、広義な名前だなと思った。
純粋について少し補足しておくと、水滴型の方が自然に則したいわゆる元々あるもので純粋な感じもするのだけど、もともとあるものを型として名前を決めるって、何となく主体性がもの任せな感じがするし、例えば水滴のとんがったところが広がったところより極端に小さいと丸と言っても差し支えないから、広義な意味合いが強くなくって概念的には弱いから純粋じゃない感じがしていると思った次第です。

で、夢で見たような、形の名前がみんなの言語として共有できたら、何かの形について今より少し詳しく伝えることができるのかもなぁと思った。のだけど、共有したい形で、名前のつけようも無いものって、そもそも形状の概念として共有する意味があまり無いようにも思った。夢の中の話は精神論的で、自分のための、ある形の名前というニュアンスが強くって、それはそれで違和感無く聞いていたのだけど、よく考えてみると、それを他人と共有する意味なんて無い気がした。

しばらくアレコレ考えてみて思ったのだけど、三角とか四角という名前はすごい。それほど外さす共有できてしまう。でも誤解も多分に含んでしまうけど。他にも名前が有った方が良い形状って無いのかな。カドが角と丸で構成されている形状とか。四角に丸がくっ付いたものは古墳型って言われるのかな。三角と四角だと矢印か。四角が三つぐらい連なった形とか。まあ、よく見かける形状じゃないと名前をつけるメリットも少ないかな。そう言う意味では、角丸の四角はそろそろ名前をもらっても良い気がする。
あと、自分のための、ある形に名前があるっていうのは、必要になることがあるのだろうか。何か、あると少し心強いような気がするんだけど、認識が時々で変わっちゃうなら意味は無いしなぁ。ジンクスみたいな感じかな。

力加減 / Control of Power

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前に書いたインターネットにおける丁寧さの話の続き。

マウスやキーボードといったインターフェイスでは、力加減が実現し難いんだと思いました。重いと思うもの、軽いんだなと感じるもの、その時々でそれを動かすときの力加減は、丁寧さには欠かせないはずです。タッチディスプレイとか、速度や方向を感知するものとか、そういう新しいインターフェイスも良いのですが、物理的なその感覚たちは精神的なものにも繋がるので、力加減を再現できるようなインターフェイスが出来てくると良いのではと思います。もう少し言うと、力加減を再現するには、大きさがあまり小さいとまた難しい。まあ、慣れてくれば平気でしょうけど、あまり小さくて難しいと慣れるまで使ってくれないのだろうと思います。

しかし、もしそういうインターフェイスがあるとすると、コンピュータの中のものだけど、物理的に存在する物をつくることと変わらない労力が必要になるのかもしれません。完全な複製は変わらず容易ではあると思いますが、違うものをつくり出すときのフォーマットとして使えないデータというか、コピー&ペーストできないデータというか、できないというよりも、やってもあまり意味が無いという感じかな。そのぐらい複雑な成り立ちが必要になるかもしれません。

それと、僕らが普段接している重力とか物理的法則とか、そういうものを無視できる世界において、コンピュータの中と日常の感覚との差異をどう感じるのかが気になります。黒ければ重そうとか、そういう心理は同じだと思いますが、大きいのに軽いとか、固そうなのに握ったら壊れたとか、そういうのが力加減をもって繰り返されるとそれはそれで危なそうです。でも、日常の感覚を超えたところから、新しいものが生まれる可能性はあるんじゃないかと思いました。

と、書いてみて思いました。壊れるとか、変形するとか、そういうことじゃないかもしれない。壊れることが無い世界で、何を起こすべきなんだろうか。この日常と同じで良いのだろうか。人間が知り得る範囲でのいわゆる自然というものをつくるということなのか?壊れるってどういうことだ?変化とは?うーん、難しい。それに話が逸れてる・・・か(苦笑)

ウェブデザインについて / About Web Design

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昨年、ウェブデザインについて、ある方から意見を求められたので、考えてみました。

ウェブは、今や僕らの生活に深く関わっていると言えます。世界中の最新ニュース、天気、地図、交通情報、買い物、日記、知人との交流、とにかく色んな事ができるようになりました。買い物については、ものを探す新しい視点を与えてくれた上に、僕らは随分楽に買い物ができるようになり、知人との交流については、今までに無かったインターネットを経由した新たな出会いも生まれるようになりました。
しかし、ほとんどの部分では、情報を閲覧する場所を焼き直したにすぎないと言えます。まあ、確かに早いし広いし多いのですが、それでも「俺は新聞でいい」って言う人がたくさんいることが想像できます。結局、焼き直しを脱するには、信頼性を伴った全く新しい使われ方が大切なのだと思います。ただ、ウェブが信頼を得るには大きな壁があります。ウェブはパソコンを出る事ができないのです。パソコンを触らない、ウェブを信頼していない人たちに直接語りかける事ができないのです。

その信頼をしていない人たちにとって、ウェブが信じるに足るものになるために必要なことを考えました。まず日常において、信頼性の高い情報とは何かを挙げてみます。
1. 自分がある情報を得ようと思い、期待通りの情報を得た時の情報
2. 信頼に足る人物から手段は問わず得た情報
3. 信頼に足る団体(企業や公的機関)から紙面及び口頭で得た情報
4. 自分の目の前で、多くの人が信頼している、と見える情報
5. 対価が必要な情報
ウェブというひとつの塊が、こういうポイントを新たにつくれたとき、ウェブは信頼を得ていけると考えます。重ねて書きますが、ウェブは信頼を得られていません。人の目に直接触れる影響力をまだ持っていないことが一番大きな理由だと考えます。ウェブを通して、社会や人に働きかける仕組みがもっと必要です。昨今のウェブ上に作られているコンテンツは、そういう意識の強く表れたものもたくさんありますが、人が情報を得るまでの流れを含めた、大きな意味でのインターフェイスが従来のものではなく、全く違うものになる必要があると僕は考えます。全体として、パソコンから出てくるのか、パソコンに呼び込むのかは、どちらが良いとも言えませんが、双方から歩み寄ったあたりに何かあるような気がします。

どういう形になるにせよ、ウェブデザインでより意識するべきだと思うのは、「人生の中で丁寧さを失いすぎてはいけない」ということです。あまりに膨大な情報を扱うことによる予期できない事態や、データやパソコンの持つ半永久的な無変化に、人々が日常の中で触れるとき、人々は本来持っている丁寧さを失っていると僕は感じています。だから、ユーザーの目に入る範囲では、丁寧さを失わせない情報構成や仕組み、ユーザーインターフェイスをつくっていく必要があると考えます。
少し抽象的な話になっているので、一例を挙げておきます。行き慣れた図書館を思い浮かべてください。自分が見たい本を探す過程で、何十冊もの本を取り出し探したとします。見つけた後でも、見つからなくても、取り出した本をもとあった所に戻しますよね。これは、目的の種類は問わず、みんなが持つ丁寧さが招く結果です。利便性を追求して得る何かよりも、この丁寧さを多くの人と共有することの方が、僕たちの人生にとってはとても大切なことだと僕は考えます。

うまれる歌 / Appearing Songs

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随分前に、僕らが知っている歌ってどうやって生まれてくるんだろうって、ふと思いました。とおりゃんせとか、ねんねんころりとか、切手の無い贈り物とか、花とか。歌には、うまれる歌と、うむ歌があるように思います。つまり、大小に関係なく社会がつくる歌(できちゃった歌とも言える)と、個人がつくり出す歌です。僕が子供の頃に触れていた歌は、前者の歌もたくさんあった気がしますが、いまや後者が増えに増え、ほとんど後者なのだと思います。

そんな想像をきっかけに、未来の歌ってどうなっているのかなと考えました。SFチックに想いを馳せると、近い将来インターネットの浸透により、誰かが明確に意図するわけではないにしろ、生活の中にある、けっこう小さな事実までも記録されはじめる気がします。その結果として、噂や口伝は減り、身の回りから曖昧なことが少しずつ減っていきそうって思いました。
となると、人々は自分が直面するあらゆる事態・現象に対して、判断基準を自分の外に求めるようになります。僕の感覚で言うと、わからないときはGoogleに聞こうっていうのは、これに似ている気がします。これがどんどん膨れていくと、「生きることは、ただただ選択や判断の連続が続いていくのみだ」という考えをみんなに植え付けてしまうかもしれません。そんな中では、きっと人と人との関係はとても薄いものになっちゃうでしょうね・・・。なんか、どんどん悲しくなってきました。少なくとも、人には生きる理由も死ぬ理由も無いという実感を迷いながらも少しでも持てるなら、生きることが判断の連続なんかだとは思えないと思うのですが、まあ、こういう考えは僕が思うってだけなので、微妙かもしれません。って、話が逸れてる(苦笑)。

でですね、うまれる歌っていうのを意識して、それが無くならない努力をすると、社会にある色んな問題が解決したりしそうだなと思ったのです。あからさまに「みんなでつくろう!」みたいな仕組みづくりをすると、たぶんうまれてこない気がします。なので、こっそり、ひっそり、ふんわりとした仕組みが勝手にできちゃえば良いなぁと思ってみたりしました。便利なものを使うことは良いことですが、それでもまずは、何かに直面した時すぐに判断基準を外側に求めないようにがんばるのが一番かもしれません。外側の判断基準ってすんごいラクチンなんですけどね。

あ、最後に、ちょっと関係ないですが、音楽って言葉の生まれについて。
何年か前に密教だったと思うんですが、宗教音楽のライブを聴きました。かなりぼーっと聴いていたのでよくは覚えていませんが、聴いているときに、これが音楽の根源だとすると、もしかして音を楽しむのが音楽なんじゃなくて、音にして楽になるものが音楽なんじゃないかと思いました。それは聴く人がって話じゃなく、演奏する人が楽になるってことです。まあ、それを聴く人も楽になるんですけども。僕は楽器が弾けませんが、弾けるようになりたいなぁとは思っています。

お寺について / About a Temple

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あるお寺のプロジェクトに関わりかけたときに考えていたことを、中途半端ではありますが、せっかくなので公開してみます。(ネタ帳に書いてあることを振り返って公開してみるっていうのをやってみようかと思っているので、今回はそのお試しです。)

お寺が持つ全ての要素について、世代に依らないよう、
人が人として反応することを盛り込まないといけない。
色、形、それらの組み合わせによる質。

そして、それらを感じるのはあくまで「人」であり、
何かが存在しているのではない。
(厳密には、存在しているとも言える。)

・存在
・人が生きること
・宗教

感覚
思考

救うとか救われるとか
ではなく
生きていること。

本能は、存在と感覚の子である。

立ちのぼり、集まり、組合わさる。

見た事の無い真直ぐ / The Streight That I Have Never Seen

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見た事の無い真直ぐ

僕は真直ぐなものを見た事があるのだろうか。

ふと、文明の利器無しに、どうやって真直ぐな状態をつくり出せば良いのかを考えていました。木を削ってつくる。竹を裂いてつくる。紙のような薄いもの(葉っぱとか)を折ってつくる。糸を紡いで垂らしてつくる。石を割って磨いてつくる。色々考えていたんですが、なかなか難しい。問題は精度にあります。

困っていたところ、点と線という人間のつくり出した概念に深く関わりのある、真直ぐっていうのは、未だに物体として表れた事はないんだろうと思ったのです。限りなく真直ぐに近いとか、人間の目では人間の計測では真直ぐであるとか、そういうものはたくさんあるのだけど。
ただ、ある真直ぐには固有の重みみたいなものがあって、熟練の職人がつくるとか、広大な大地や海の広がる果ての地平線とか水平線とか、そういうものは数値的な真直ぐである事実は特に必要なく、真直ぐで美しいと思えるのです。

でも、僕は今回の思考の中で、本当に真直ぐのものを見た事があるのか、と自分に問いかけてみました。想像できないその真直ぐさを眼前にする想像をしてしまい、見た事がない、見たいと思ってしまいました。

僕らは普段、定規を使って直線を引いています。その真直ぐである定規は一体どうやってつくるんだろう。もし、その真直ぐが真直ぐではないなら、真直ぐな線はひけません。結局はそれが真直ぐであると信じるかどうかが問題で、それを信じるに足る重みを持たせる事が必要なのです。定規は世界標準的な真直ぐであると信じさせる重みを持っているのです。持っているというか、持たされているというか。僕はそれを信じる事ができていないんだなって思ったのです。

例えその、真直ぐなものを見たとして、どういうことがあるのかはわからないですが、想像できない真直ぐさがあるかもしれないという想像をしてしまったので、考えていこうと思います。

30年に1度 / Once per thirty years

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僕ももうちょっとで30年生きたことになる。

この、人生はじめの30年というものは、肉体や性格や環境が驚くほどの幅を持ってめまぐるしく変わるものだと、ふと思った。もちろん人によって幅は違う。だけど、その幅の中でよりピンポイントに自分が適していると思う幅に絞り、その後の人生を歩み続ける人が多い。結婚だって、起業だってそういうことなんだと思った。

さて、僕はというと、ここにきて良く分からなくなった。わからないというのが、そういう幅を見失った気がする。いや、もともと無かったようにも思える。そして見つけるというより、自分の中に感じようとし始めているみたい。
いつだか忘れたけど、ある日の朝、「生きてて良いんだ」と思った。そして、今年に入って、僕は「生きたい」と思った。
その後に待っていたのは、世界を知りたいという気持ちの第一歩としての、自分に対する解釈なのかもしれない。これは俗にいう自分探しが必要なのか・・・?笑

まあ、こんな気持ちになったのも30年に1度のこと。真剣に受け止めようと思う。

ついでなので、30年に1度あったことを書いてみる。時系列順で。
・生まれた(思い出そうと試みても思い出せないもんですね。何となくぼんやりとあるような無いような・・・。)
・骨にヒビ(痛かった。)
・卵焼きをつくるときに洗剤を入れてみた(もちろん食べずに捨てた。)
・柿の木に釘を打った(ものすごく怒られた。もうしません。)
・ほの暗い森を抜けて見た、山の上の草原の美しさの実感(実に爽快。)
・骨折(これも痛かった。)
・泥棒にやられた(ゲームが全部・・・。)
・兄弟だけで観光(良いものです。)
・生きてて良いんだと思った(ある、徹夜明けの朝のことでした。)
・髪を伸ばしてみようと思った(意外とあったかくて良い。)
・ピアスの穴を開けた(想像よりは痛くなかった。アレルギー無さそうで良かった。)
・スリの現行犯逮捕(女性対女性。被害者は冷静に対処。)
・チカンの現行犯逮捕(女性対男性。ITっぽい男性は、なんだよも〜って顔してた。もっと反省しなさい。)

意外と思い出せない。もっとあったろうに・・・。

30歳までのあと数ヶ月、思い出してみよっと。

FOMA / FOMA (a service of cellular phone in Japan)

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今日、movaからFOMAに機種変更をした。今更ながらソニーエリクソンのSO902i。端末は可もなく不可もなくだけど、FOMAに驚いた。通信速度が早い。さすが3G。前に使っていたWILLCOMと比べると、圧倒的に早い。

ただ、WILLCOMと違ってPCのメールチェックはできない。何とかならないものかと探したところ、WEB MAILERっていう無料サービスを発見。素敵っす。COXSさん。3キャリア対応だし。このサービスを使うと、パソコンでチェックしているメールをi-modeでチェックできるのです。
ちなみにデメリットはこんな感じ。
・プロバイダによっては使えない
・受信プロトコルがPOP3だけ
・添付画像が見れない
まあ、WILLCOMの遅さを考えると、こんなのデメリットとは呼べないな。本当にWILLCOMは酷かった。通信速度以前に端末のキーレスポンスが悪すぎたのも一因だけど・・・。

せっかくのパケ放題なので、便利 or 楽しいことを探さなきゃだ。(何か良いのを知ってる方、教えてください)

しかし、この携帯電話、小さいのはいいんだけど、ちょっと入力しにくいなぁ。マルチスレッドは想像してたより良い感じ。もたつくけど。

信じること / What You Believe

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もし、あなたの携帯電話に、こんなメールがきたらどうだろう。

2010年には国の仕組みが変わります。
そこで、あなたは誰とも相談すること無く、国籍を移すことを決める権利を有します。
今後この件に関する会話を第三者と行った時点で、その権利は消滅します。
あなたがどうするかを以下の三択よりご決断し、ご返信ください。
1. はい
2. いいえ
3. 変更内容に依るので今は決断できない
*この返信の有効期限は30日間です。有効期限を過ぎた場合も権利は消滅します。
なお、仕組みがどう変わるかについては、追ってご連絡します。

突っ込みどころが満載気味なこのメール。突っ込みどころ満載な上に、意外にもはじめに想像していた以上に、人生に深く関わりそうな質問内容になってしまったのですが、この前段として僕が思いついたのは、自分一人でそのメールが国からのメールであると決断しなければならない状況に立たされたとき、その内容もしくは送信者を信じることができるか?また、信じれないとして何がどうなれば信じることができるようになるのか?それと、ちょっと前二つとはずれますが、必ずしも信じる必要は無いと言い切れるのか?です。

これはまた難しい。とりあえず、人生の問題はおいておいて、メールというものへの信用ってどうすれば変わるんでしょうね。浸透していくに従い、仕事での使用ももはや当然のこととなっていますが、実際まだまだな部分が多いですよね。例え、メールの遅延は絶対に無いシステムができあがったとしても、上のような状況で信じることができるのか?っていうと、ちょっと難しい気がします。まあ、上の場合極端すぎてメールじゃなくても信じるのが難しいとも思うんですけどね・・・。僕的には、誰にも相談すること無く自分で決めなくてはいけない状況というよりも、相談する時間がないぐらい緊急な事態があった場合、すぐ信じることができないといけないわけで、とても効率的に大多数の人に情報を伝えることができるのだから、それじゃ駄目なんじゃないかって思うわけです。人って何をもって何を信じてるんでしょうね。能動的な行為により得られたものは信じやすいってのはわかるんですが、それでも信じるまでに至る経緯って細かく見るとどうなってるんだろう。

しかしこの例えメール、映画ができそうだな(笑)

東雲キャナルコート / Shinonome Canal Court

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東雲キャナルコートには、僕が良く買い物をするBYTRICOがあります。ので、何度か行っています。で、このキャナルコートができる前に、ある機会があってキャナルコートについての考察をやってみました。そのときの考察を記事にしてみます。掴みは結構かなり相当淀んでいますが、まあそんなときだってあるさってことです。
ちなみに参考にした情報源はWEBサイトだったのですが、今は閉鎖されてしまったらしく、こんなへんなのがありました。とっても営業用。


今回の考察においての情報元は、公式WEBサイトがメインです。他のメディアや実際の建築群などは見ていません。今回は、広告戦略も考察の範囲に入っていたこともあり、消費者としての僕という観点から考察を進めました。

公団がCODANになり、どんな住宅なのか少し興味を持っていました。その興味から公式WEBサイトを覗いた所、以下のような疑問が浮かんできました。

まちなみ街区企画会議 編
・まちなみ街区企画会議には色々な著名人が名を連ねているが、具体的なことは述べていないように感じる。
・コンセプトがどのように東雲CODAN全体に体現されているのかがわからない。
・住むのではなく滞在という感覚と謳っているが、それなら賃貸の方がわかりやすいと思う。
・世代を超えた住人を考えるのであれば、新しすぎるし、古すぎるのではと思う。
・住居周辺が24時間になることの何が良いのか。不安が大きい。
・時代のニーズをプロデュースするとあるが、具体的にどういった機関がどう動くのかがわからない。
・魅力を褪せること無く進化するとあるが、どこを魅力としているかがわからない。

東雲デザイン会議 編
・どちらに問題があるのかはわからないが、まちなみ街区企画会議と噛み合ない点が多い。
・多孔質を特徴としているが、不特定多数の人を招き入れる空間ではなく、ある程度安全が保証された空間の中でやるべきではないか。
・道とも広場とも違うコネクタという外部空間を作るのは良いと思うが、どう使うのかわからない。
・街全体で住んでいる感覚を、首都圏に住む人たちに求めるのは的確なのだろうか。

上記の疑問は広告戦略に潜む問題から浮上したと考えます。このWEBサイトに全ての情報が集まっている訳ではないので、今の時点で偏った考察ではありますが、WEBサイトにしろ、ポスターにしろ、一番大切な”誰に何を伝えたいのか”が抜けていると感じました。
WEBサイトの中で建築家たちが自分の建築を紹介していますが、どの説明もよそよそしい口調。「ここがこうなって、だからほら、こんなに素敵でしょう?」といった投げかけは見つかりません。きっと建築家たちはそういう思いを持っています。それを引き出せていないと感じます。
ポスターには大きくCODAN・2次募集と書いてあったりしますが、その他は何もありません。あの広告で世代を超えた住人を集めるのは難しいことだと感じました。以前、実際に見かけたとき、僕は遠目に「ふーん」と思った程度です。(ちょっとフォローしておくと、あのポスターは好きか嫌いかで言うと好きなんですけどね。)
WEBサイトの補足説明にはダイナミックなモダンデザインとありました。それが伝えるべきことでは無いように思います。また、おそらく首都圏での設置がほとんどなのでしょうが、首都圏以外から募集するべきではと思いました。そうすることで、より大きな渦を作る場所ができると感じるからです。

以上の疑問を通して、この巨大な東雲CODANにどういった要素を加えていけば面白くなるかを考えました。最も不足していると感じた要素は「何を良しとするのか」と「良いに繋げるためのきっかけ」です。良い生活の形を実現させる試みを考えました。

今となっては随分と意識されなくなってきた町内会を復活させる試みを、東雲CODANの一部(賃貸ゾーンを想定しています)で行います。ただ、従来の持ち回り制に偏った町内会ではありません。予め役割を想定します。また集合住宅であることの良さは隣との距離が近いことです。そこで、共同生活的なグループを考えました。(20代〜30代がターゲットの中心になると思います。)
まずデザイナーを募ります。報酬は家賃です。このデザイナーの役割は、的確な言葉ではないかもしれませんが、グループ内の広報です。以下はいくつかの具体的な役割の例です。

・グループ内の人々に季節を感じてもらいます。(旅行の企画なども良いと思います。)
・皆で祝いたいという希望があれば、お祝い事などの準備を行います。
・料理やお菓子が作れれば尚良いです。
・よく「花を抜かないで!」という張り紙を見ますが、あの張り紙をより効果的につくります。これはきちんとした装置(掲示板のようなもの)を設置しておけば、サイン計画としても考えられます。
・こんなもの欲しいなというときに相談にのります。
・自分を含めたグループが快適に生活できるよう努めます。

このデザイナーを中心として、住人を募ります。その結果、グループができるという形です。ただし、デザイナーという立場の人に面倒なことを押し付けることができるグループではありません。皆で考え、デザイナーは形にするきっかけであり、全員で生活を豊かにする工夫をつくっていくグループを目指します。


上記の案は今は色々な問題を含んでいるとは思いますが、新しい時代に隣人とのコミュニケーションを取り戻し、楽しい生活を送るための新しい仕組みとしては、興味深いものになるのではと考えます。また、デザイナーにとっても新しい生き方になると考えます。


というわけです。久々に読み返してみましたが、何度か足を運んだ今でも、こういうことができていたら楽しいだろうなって思います。僕がこうしたいだけなのかな・・・。

実感 / Feeling of Reality

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WEBに関わっている僕がこういうことを書くのもちょっとどうかとも思うのですが、せっかく思いついたので。

あまり口にされない気がしますが、世界中のWEBサイトの、クォリティというかできることとか含め総合的なレベルは2、3年前と比べると、全体的に一段階以上あがったと実感します。それもこれも、世にたくさんいるWEBデザイナーのおかげですし、それを取り巻く色々な人のおかげでもあります。感謝ですね。みんな、えらいなぁ。えらい!

今年はまだまだあがりそう。
今はまだあんまり無いけど、もう少しでパン屋さんや八百屋さんと同じように感謝を受ける日がくるんだろうと思いますよ。感謝することされることは大切です。

デザイナー / DESIGNER

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新しい名刺
ちょっと前に新しい名刺をつくりました。
焦って数時間と一睡眠でつくったわりに、割と好評で嬉しい限りです。

肩書きはDESIGNERです。以前の名刺にはDirector / Designerと書いていたんですが、どうもしっくりこないなぁと思い変えました。”それ”であることがしっくりこなかったというより、やってることはとても広義にDESIGNだと思っているのに、自らその広義に枠をつけている行為に似ていると心の底で感じてしっくりこなかったのかなって思います。

僕はDESIGNをするDESIGNERです。もう誤解は怖くありません。

とはいえ、DESIGNってなんだ?っていうのは難しい問いです。まだまだ考え続けます。
ちなみにですが、さらに僕的には、それってArchitectureなんですけどね。

靴屋の後の靴屋 / Shoes Shop After Shoes Shop

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靴屋がつぶれた。そこに他の靴屋ができた。

ある土地であるお店を営むという行為は、社会の中でその土地の性格を構築することでもある。だから、靴屋の後の靴屋というのは、よくも悪くもはじめからみんなの記憶の中にある。それをアドバンテージとできるのなら、それは意味のあることなのでしょう。今までは気がつかなかったけど、これもお店をやる上で大切なポイントなのかもしれないと思った。


『「ある事柄に関する僕の記憶」があることを知っている他人の記憶』って、その事柄にとってはとても薄い記憶なんだろうけど、それでも世界中に飛んでいくものなんじゃないかと思った。それは10Mbpsですらないかもしれないが、1000Gbpsよりもっとずっときっとすごい力があるに違いない。記憶エイリアス。世界をつくっている要素の一つはこれだ。たぶん。

グレーな抑制 / Vague Control

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インターネットにおける未成年者の行動制限は、今までも色んな話題が出ていました。ペアレンタルコントロールとかも随分と前から考えられていたりしてます。ちょっと考えてみると、個人レベル・家庭レベル・学校レベル・社会レベルとあって、この4段階での対策が必要となるとまあ大変だなぁと思います。
が、一方で、アクセスさせないように仕組みを作ることが本当に有効なのかという疑問が僕にはあります。じゃあ、この問題で何がポイントになるのか考えてみました。

まずインターネットというものは、ある面では仮想社会の中での事実をデータ化して蓄積する巨大な仕組みです。「いや、私はネットショッピングを楽しんでいるよ。」という人もいるかもしれません。個人としては楽しみという面が顕著に目立つものなのですが、これが現実空間だとして考えてみるとわかります。もし、とあるなんだか楽しいビルがあるとして、その中でのすべての行動が逐一記録されていることを知っていたら、それを良しとして楽しめるか?っていう話です。僕は無理です。でも、そのビルがトイレの必要がないような、例えば単なる通り道的なものであれば、まあ納得できるかもしれません。数年前のインターネットはそんな感じだったかもしれませんが、技術の進歩と利用者・利用時間の増加でやっている行動・できる行動が増えるごとに、そのビルは例えるならホテルやマンションに近づいています。自分の寝息すら記録されているホテルの中で安らかに過ごすことができるでしょうか?さすがに無理でしょう。
人間は年齢を重ねるごとに自分のことを表に出し始めます。出し始めるというよりも、出てしまうことに執着しない傾向にあると感じます。ただ、出すことが自分にとって不利益だと思っていることは絶対に出さない、悪い意味でも良い意味でもそんな二面性を持つことになるもんなんだと思います。で、いわゆる成長期にあるこどもというのは、そんなものの存在は考えないし、しないのです。じゃあ、そういう二面性があることを伝えれば良いのかというと、そういうものでもないもので、ある程度の時間をもって自分の価値観を構築していく中で、築き上げられるものでしょう。インターネットの中で容易にできてしまう行動が今後もどんどんどんどん増えていく中で、どの面をインターネットで出すことが自分にとって不利益なのかということをコントロールしない限り、アクセスを制限したって駄目なんじゃないかと思います。アクセス制限ってのはいくらでもかいくぐれるものでしょうから。なので、インターネットの中で行うひとつひとつの行動が結局どういうことなんだという認識作りをしていかないといけないんじゃないかと思いました。でも、これって大変というか、難しいだろうなぁ。多くの価値観を多くの人と共有する必要がありますからね。
じゃあ、ちょっと話を少しずらして、ある範囲の中にある、ある事柄をデータ化することが、誰にとっての有害で、誰にとっての利益なのか、について考えてみます。
例えばいつ誰が何をどうやって買ったのかという情報は、マーケティングを生業にしている人にとっては非常に有益な情報です。データ化されていることで情報として取り出せて、戦略の材料として使えるわけです。がしかし、これって例えば近所のスーパーで同じことをされていると知ると周囲の住民にとってはいい迷惑というか、食べ物ぐらいならまああれですが、本や薬といった範囲にまで広がるとすごく迷惑な話です。しかもそのデータを誰でも取り出せたりすると、もうなんでそんなことするのっ!って思うでしょう。まあ、誰もそんなことはしないんですけど、しないというのはどういうことか知っているからしないんです。こういうのってちょっと広義にいうと、自分の身近な人間関係のデータ化、もう少しわかりやすく言うと数値化ともいえます。
じゃあ、こういうことをこどもはしないでしょうか?たぶん、野山をかけまわってスズメバチと格闘したり、田んぼでザリガニと泥まみれになってたり、帰っても山盛りのご飯を食べて家族と話して寝てるような生活なら、たぶんしません。でも、携帯電話を持っているようなこどもたちはわかんないわけです。例えば携帯電話のメモリ。これって人間関係をデータ化したものです。これをクラスの中で誰が誰のデータをもっているか統計とって閲覧可能にしちゃったりとかすると、結構イタイ情報を生み出しそうですよね。メモリの量が一番多いのは誰かとか、誰がクラスの中で一番メモリされていないかとか、安易にわかってしまうわけです。そんな状態で、長い時間を複数の人間と過ごす環境にいたとすると、たぶん、ふとしたときの特別教室の理科の時間とかに自分のと周りの仲の良い友達のメモリをあわせて数値化してみて、おお何かおもしろいかも!とかってチェーンメールなんかで周りを巻き込みつつ、変なデータをつくりはじめるやつとかいそうな気がします。で、そのデータがヤバい要素も含んでいることなんて思いもせず、やってみてそのデータに振り回される環境を作ってしまうわけです。これは、データの持つ潜在能力を理解しないまま、楽しさ優先でやってしまうような一例です。でもここまで読んで思うのですが、「まあ人それぞれに色々あるのだから、そんな情報ではその人の価値なんて決められるようなもんじゃない。気にすることはないさ」って思え、そんな行為をしないのがいわゆる大人な感じがしますが、だからといって「何が悪いのか?」って問われたときに答えられる気がしません。それじゃまずそうです。だって、ふとした思いつきでできてしまうようなことを抑制する手段が、おのおのの倫理観みたいなものに依存するしかないとすれば、こどもにとってそれは問題でしょうし、それに答えられない大人ってのも問題ですよね。まあ、ちょっといじわるな人だと「そんなことをしてもそもそもの犯人が誰なのかはよく調べればわかることなんだから、やって得することは何もない。やめておけ。」と法律に抑制されるがままの人間って感じな方向付けをしそうですが、殺人とか泥棒ならそういうグレーな抑制でも自分の損益として理解しやすいからそのままでも良さそうですが(深くつっこむと止まらなそうな話なのでさらっと書きました。)、日常生活のすぐ手の届くところにある、損なのか得なのかがいまいちわかりにくいことに関しては、そんなことじゃいけません。なので、上の例にさらに突っ込んでみて核にある問題点を抽出してみることにします。
人は比較や直感を駆使して、あるものに関する価値観をつくっています。単純に言うと、考えているわけです。ポイントとしては”自分で”考えることなんだと思います。で、その考えるときにさらにポイントになるのはペースで、自分のペースでつくるのが自分の価値観になるのだと思うのです。もしあるAという事柄に関して自分のペースで価値観を判断している途中に、何らかそれに対して決断を余儀なくされる場合、人はそれがまだ未決な存在として決断、例えば何もしないとかを選択する気がします。むしろ、何もできないことを予測してその決断ポイントに近寄らないってことも考えていると思います。しかし生活の大部分において、同じ空間同じ時間を共有する多数の存在がある環境では、自分の考えるペースを保つことが難しいのです。これは日本人の性質の目立つ部分でもあるのかもしれませんが、人間は根底にそういう気持ちって持つもんなんじゃないかなと思います。(それとは別に根底にある、早い者勝ち思考がそうさせている気もします。これについてはまた後日。)となると、問題はどんどん難しくなってきました。難しいので今日はこのへんでやめておきます。

一応まとめ。いやぁ、やっぱり学校の先生ってすごいなとつくづくそう思います。そういえば、インターネットに関する制限の話を書いていたんだった。ま、まあ、インターネットとはいえ、根本は同じだということです。
あと補足的に、僕は携帯電話が悪いとも思わないですし、今の教育否定しているわけでもありません。否定できるほど理解できていませんし。

信号機 / Signal

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信号機
通りの大小や周囲の人および車の有無に関わらず、信号を守ること。

僕はこのルールを1年ぐらい前から気にしています。安全を確認してから信号を確認して、その上で信号に従う感じで、少なくとも一人でいるときには守っています(誰かと急いでいるときはその限りじゃないのですが)。こんなことを何故やりはじめたのかというと、別に何っていうこともなく何となく始めました。たぶん人々がさも当然のごとく無視しているのを見てのことだと思います。自分のことを考えているうちに、この世界標準の赤青黄はどんな風に人々に影響を及ぼしてきたのかが気になってきたので考えてみました。

以下の文はほとんどが想像です。ので、常識として信じたりしないでください(笑)

日本では信号がよく使われるようになって100年近く経っています。初めて信号を目にした人たちは、それに慣れるまでの間、戸惑いがたくさんあったと思います。でも交通量を想像すると、そのせいで事故が増えたり減ったりするようなことはあんまり無かったんじゃないかと思います。この頃、信号機はそれほど効果的なものではなかったと思います。プライドが邪魔をして機械に従うことが許せなかった人とかもいたんじゃないかと思ってみたり。まあ、そんな時期が30、40年ぐらいは続いてたんじゃないかなって思います。戦争の前後では信号機を守る余裕なんてのももちろんなかったでしょうし、信号機を守ることに対する意味の無さというのが人々に根付くには十分な時間だったと思います。
その後、戦争が終わって高度成長期に突入している日本は、生への執着と死への恐怖が如実に強くなり、悪意からくる人口の減少に敏感になっていったと思います。そんな中、活発な経済のおかげで交通量が増え、悪意ではない人口の減少要因として交通事故というものが浮上してきて、色んなところで信号の重要性が認識されていきました。が、前段としての信号機不信があるおかげで、伝播するスピードはそれほど早くはなかったのでしょう。
そんな信号機不信な時代も、昭和45年ごろの交通事故死数ピーク(これは想像じゃなく本当。ここに書いてある。)を迎え、人々が自分の身の回りに交通事故の危険を感じるようになり、やっぱり信号って大切じゃないのかと心の底から信じはじめるようになります。その結果、交通事故は減少の一途をたどります。僕が子供の頃に教えられた「道路では十分に気をつける。信号は守る。」というのは、今思えばこのへんの時代だったんだなと思いました。
しかしその後、そもそも危ないから信号を守ろうと思っていたはずの人々は、この時代を経て「青ならば安全。みんなが信じる青は安全に決まっている」という危ないかどうかは関係ない気持ちを持つようになり、交通事故の減少もストップがかかります。
それから逆にまた事故数は増えていきます。そんな時期を幾年か過ごすと、体験的に青が安全であるとは限らないと思うようになります。そうなると、次は自分で安全かどうかを確かめる時代になるわけです。この頃にはずいぶんと複雑化した社会になっているので、信号機を信じたぐらいじゃその複雑さの中で安全に生きていくことはできません。タイミングの良い進化だったと思います。そのおかげで、また事故数はどんどんと減っていき、今現在に至るという感じです。
今までの時代の流れを信号機にフォーカスして表現してみると、「信号機は意味が無い」→「青は安全の象徴」→「青は絶対安全ではない」という感じです。そして今、青は絶対安全ではないから安全は自分で判断するという意識になって久しいとすると、赤の意味が薄くなっている、もしくは信号機自体の意味が薄くなっているのではと思うのです。これが僕が目の当たりにした「信号を無視する人たちの深層心理」なんじゃないかと思いました。

これが歩行中のみの意識なら問題ないのですが、歩行者の中には車に乗る人もたくさんいます。とすると、この意識が成長するとまた事故が増えちゃいそうだなと思いました(高齢化の影響もあるでしょうしね。)。
でもたぶん、意味も無く赤信号を守っている人って何かちょっと滑稽というか、それが自分の進行の妨げになろうもんなら「こいつ、こんなところで止まるなよ」って思う人も多いんじゃないかと思うのです。が、それを加速させてはいけないよなぁと思ってみたりしました。とはいえ、僕が立ち止まったぐらいじゃどうにもならないんでしょうけどね。

話は少しずれますが、「ルールは破るためにもある」って良く言われたりします。守るためのルールなのか、破るためのルールなのか、なんてのはどっちでも良いと思います。要は守るにも破るにもそれなりの理由を思いついてからそうすれば良いのだと僕は思います。もし、理由が無いなら守っても良いというか、守った方が良いことも多いだろうと思いました。守る理由が自分になくとも誰かが思いついた理由があるからルールとして存在している(場合が多い)のです。破ることを知っていながらも理由が無ければ破らないというか守る気持ちの持ちようって今の社会にはあっても良いんじゃないかと思いました。

NOTATION

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エスキモーの木彫り地図

NOTATIONとは、特殊な文字、記号による表記法のことである。

これは、グリーンランド東部のエスキモーの木彫り地図である。この地図には一切の記述が無い。言葉も用いてないだろう。そういう文化が発達していないからそうなのではないと思う。触覚によりすべての位置関係を把握できるということを彼らは十分に知っている。

人は様々なことを考えている。だが、それらすべてをどこかに伝えるのに、言葉だけでは不十分である。このような問題を抱えたまま、人間は今まで発展してきたわけではない。だが、人間のすべてがその問題に直面し、何らかの方法でそれを解決しているわけでもない。何かを伝える表現として、今、僕の前に現れたNOTATIONという言葉を深く知る必要がある。

地図というものはそれ単体だけではまったく無意味である。それらを必要とする人がいてはじめて、NOTATIONとして機能する。NOTATIONというもの自体は万能ではない。だが、言葉には無い何か、その人の心の一部が見え隠れしている。では、建築においてのこれは、果たして万人に伝わるのだろうか。

建築におけるNOTATIONとは非常に意味深いが、その空間を訪れる人にとってその存在を気づかせないものである。だが、これをやめてしまった空間は"空"となる。

空間とは、人やモノが作り出すものである。建築とは、その空間にフレームを与えるだけにとどまるのではなく、人と時間のプログラムでもある。このプログラムを表現するためにNOTATIONは模索され続ける。

ということだそうな。いやぁ、懐かしいシリーズ第一弾。これ、僕が大学の課題の中で考えていたことです。10+1という雑誌のNOTATIONっていう特集を読んで、こりゃ大変だ!って思ったのを思い出しました。もちろん、未だにわかってはないです。この頃とは少し捉え方は変わってきてるかもしれませんが、基本は変わらずです。NOTATIONっていうのはすべてのものに含まれる要素で、人が何かから感じる何かに対して何を思うかを考えた末にものに含めるものだと思ってます。「何」が多いですね。

とりあえず、この木彫りの地図を見てみたい。

分類と抽象 / Classification and Abstraction

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甥に彼女ができました。
叔父としては嬉しい限りなのですが、複雑な心境もあったりなかったり・・・。早くオープンな関係でいられるようになると良いね。両者それぞれとその相手家族との人間関係が、少しでもあるのと無いのとじゃあ大違いと思うので。

さて、「今年もはじまったばかりなんですが」と書き出そうとした記事がいまだに残っていました。「分類と抽象について、はっとしたので記事にしてみます。」とのことです。

まずはじまりは、「分類と抽象がもしかして同じことなのかもしれない。」と思い当たったことです。それぞれが全く関係の無い存在として結びつくこと無く頭の中にあったことに驚きました。そのぐらい似ている気がしたわけです。それぞれについて書いてみます。

分類というのは、ある集まった事象や物事について、個々に何であるかとかどうできているかとかなんでそうなのかとか、そういう特徴を見つけて、共通する特徴ごとに括ったりして、とにかくその群集を理解するために行う行為です。まあ、知るために行うというか、そんな感じ。

で、抽象というのは、色んな要素でできた事象や物事を分解し、基準に沿って不要な要素を取り除き、それが何であるかを見極める行為です。これもそれを知るために行うことです。

両者の違いとして思いついたことはこんな感じです。
・分類は1つの事象では行えなくて、抽象は1つでも大丈夫。
・抽象は、結果としての性質以外はあまり意味をなさない、結果が主観の表れである
・分類は逆で、抽象の結果を含みながらもそれを取り巻く要素との関係・順位(?)などが重要、結果が他の影響を受けやすい

この二つの説明を書いてみて、言い回しが違うだけなんじゃないかと一瞬思ったのですが、それこそが両者の一番大きな差なのかもしれないと思いました。つまり、僕の頭の中で結びつくこと無く今まで付き合ってきた二つの言葉に対する印象が、言い回しに表れたのかもと思いました。こういう種類の違いを感じたのは久々(初めて?)かもしれません。

僕の経験則的には、分類する過程で抽象は行われているし、抽象を行う前提として分類があるような気もするので、きちんと分けることは難しいのかもしれません。

機能と形態 / function and form

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昨年の11月に聞いた深澤さんの話の続き。深澤さんの話を聞いた後、僕が学生時代に学んだ「形態は機能に従う」「機能は形態に従う」ということについて少し考えていた事がはっきりしてきました。この二つは、機能と形態という二つの大きな要素がものを構成している的な考え方です。
まずそれぞれの考え方を僕なりに定義・説明します。

■ 形態は機能に従う
ものをつくるにあたって「こうなればいいなぁ」という要望(機能)が生み出され、その機能を実現するための形態を考えていくのが「形態は機能に従う」です。こういうつくられ方をしたものの例を挙げます。
今年のGOOD DESIGN AWARDを受賞したインスリン用注射針
「痛みを感じたくない」から「針を細くした」ものです。

・トンネル
「この山の反対側に遠回りせずに行きたい」から「構造強度の強い卵形の穴を掘った」ものです。

・新幹線
「遠くに短時間で移動したい」から「とても早いスピードが出ても安定した走行が可能な形にした」ものです。


■機能は形態に従う
色々と考えてみたところ、ものが既に目の前に出来上がってしまっているため結果的に「形態は機能に従う」と捉える事も可能な場合があり、こっちを説明するのは難しいのですが、まず例を挙げてみます。

・ぬいぐるみ
「動物の赤ちゃんってかわいいじゃんと思った」から「それっぽくつくってみた」ものです。

・ポスト
「僕ら(郵便局の人)のテーマカラーは赤だ!」から「僕らの装置は赤色でつくった」ものです。

・王座
「僕は偉い」から「誰も見た事の無い形で豪華にした」ものです。

この三つについては、それぞれどういうものだ?と考えてみたところ、ぬいぐるみには寂しさを紛らわす機能や良質な睡眠を生む可能性がある機能が備わっているかもしれないことがわかったり、ポストはゴミゴミした街の中にあっても目立って良いじゃんと思えたり、王座は特別な椅子に座っている自分は特別だと思えるようになったりと、いわゆる機能と言えそうなことが備わっていることが後になってわかっているんだと思えました。つまり、「何か良いんじゃないかなぁ」という気持ちからできたものだけど、結果として新しい機能を生み出しているのがこの考え方なんじゃないかと思いました。

って書くと、「『機能は形態に従う』理論によって新しくつくられたものが、『形態は機能に従う』理論によって洗練されていく。」のかと思えたりもしましたが、たぶんそれだけじゃないっぽいです。「形態は機能に従う」から新しくつくられるものもあるんでしょう。でも「機能は形態に従う」だけでは洗練はできないものなのかもしれません。(そもそも洗練なんてことが必要ないものもありそうだし)

でも、全く新しいものをつくりたいとき、「機能は形態に従う」で突っ走ればどこかに出口が現れるんだな!とは思えません。両方の思考を自分なりに理解した上で、1つの思いつきに対して(どちらが先とは決めず)交互な思考で思いを巡らせる事が大切なんだろうと思いました。で、それをやっているのが深澤さんなんだと思います。彼は、「形態は機能に従う」から生まれたっぽい既にあるものにも、「機能は形態に従う」をぶつけてみて「お、こっちの方が良い!」って思えることを見つける中からものをつくっているように感じます。そして、自分を含め人がニヤリとできるかどうかが、彼が思う「お、こっちの方が良い!」っていう基準になっているのだと思います。(本心から尊敬の念を込めて)彼は本当に幸せな人です。

僕は、この考察をしてみる前から、機能と形態をそれぞれにわける事そのものが難しいんじゃないかと考えていました。つまり、どこまでが機能で、どこまでが形態かという点です。例えば、ポストの赤い色は形態でもありますが、見つけやすいという機能ともとれます。では、どちらがどちらに従っているのか、見つけやすいから赤くしたのか、赤くした結果見つけやすくなったのかということです。これはどちらも可能性があると思い、実際につくった人がどちらを意識していたのかが重要なことでもあり世間が決める事でもあります。
機能も形態も人間がつくりだした曖昧だけど明確な括りにすぎず、そこだけにとらわれてものをつくる事はあまり意味が無いと感じていました。それらとは別軸で、人間の本能というか、人間を含めた大きな意味での自然というものが、はっきりとは見えていないけど必ず作用していて、それをつかんでものをつくることをバックグラウンドで必ず考えていないと、今の自分からは脱せないと感じていました。今回の考察を通してその考えは案外はずれてはいないなと思えました。

この考察で、こういうことなのかもと思ったのはこんな感じです。
・機能というのは、何となく良いことが具体的に何であるかを人間が知った結果である。
・機能には数学と同じで1もあれば0もある。0は”有る”ものの量が無い状態を表している。
・形態には数学でいうところの1もあれば0もあるのだけど、無というものがある。
・「形態は機能に従う」理論でできたものは、いわゆる便利なものである。
・「機能は形態に従う」理論でできたものは、いわゆる便利なものもある。
・「形態は機能に従う」も「機能は形態に従う」も大切なプロセスの一つである。

ちょこっとメモ
・色々調べているうちに面白そうなことが書いてあるなと思ったページはここ
・極端な気がするけどちょっと見てみたいから本を買ってみようと思ったページはここ
・何だか面白そうな考えと動きかもと思ったページはここ

存在の耐えられない軽さ / NESNESITELNÁ LEHKOST BYTÍ

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ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読みました。1968年のチェコスロバキアを舞台に、多くの浮気をする夫と、浮気を見ぬ振りをする妻を中心とした人間模様を描いた物語。さらにそれを哲学的論点から著者が分析して、ところどころにナレーションをいれている作品です。
この本、とても面白かったです。考えたことや驚いたことがたくさんありましたが、一番の関心はキッチュ(俗悪なもの)についてです。ほとんどの人間はキッチュな意識を持ち、自分を正当化するため自分の周りも含めて正当化しているのかもと思いました。どういう事か、著者の本意からは外れているかもしれませんが僕的な意見を書いてみます。

著者の哲学論の中で著者が子供の頃に、「もし人間が神に似せられてつくられたのなら神は腸を持っていて排便をする」「もし神が排便をしないなら腸を持っていないことになり人間は神に似ていない」という、その昔議論されていたらしい問題に自分の中で直面したそうです。この問題はその神を信じるものからすれば神に対する冒涜的なことです。しかし、その神に対する信仰心の無いものからの質問に答えるためには真実を知る必要があります。しかし、やはり冒涜なので無理です。そこで信じるものたちは神が排便なさらないとしていたそうです。これこそがまさにキッチュというわけです。もう少し付け加えると、著者は神を信仰していた訳ではないのにも関わらず、これを冒涜であると感じたそうで、キッチュというのは信仰心に関係なく人間の中にあるのだと感じたようです。少し前の日本に置き換えると、アイドルはトイレにいかないってのと同じ話ですね。

で、生きていく上でまさにキッチュを感じる瞬間というのは、まさかそれがキッチュであるとは思っていないが、ふと少し考えるきっかけがあるとわかるこのキッチュというものは、大なり小なり生活の至る所にありそうだと思いました。そしてこのキッチュがある場面では人間の思考を妨げる原因になったりもするんでしょうね。生きるためにはキッチュが必要そうですが、最低限のキッチュでいたいもの・・・なのかどうかは、まだ、僕の中ではキッチュという概念が根付いたばかりなので、もう少しよく考えないとはっきりとはわかりません(苦笑)

あと、「真実に生きること」について少し。物語の中の登場人物で愛人関係にある、フランツという男性とサビナという女性がいます。この二人はそれぞれ「真実に生きること」を重んじて生きていますが、結果としては正反対でした。

女性の思考はこうです。

サビナにとっては真実に生きるという事、自分にも他人にもいつわらないということは、観客無しに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識する事は嘘の中で生きる事を意味する。(中略)自分のプライバシーを失う者は、すべてを失うと、サビナは考える。そしてそれを自分の意志で放棄する者は異常である。そこでサビナは自分の恋をかくさねばならないことを苦にはしない。逆に、そうしてのみ「真実に生きる」ことができるのである。

男性の思考はこうです。

フランツのほうは逆に、人がプライベートなときと公の場でまったくの別人になるという、個人の生活と公人としての生活の区分の中にあらゆるいつわりの源があることを確信している。彼にとっては「真実に生きる」ことは個人と公人の間の境をとり払うことを意味している。そして秘密は何ひとつなく、誰でもが見ることのできる「ガラスの家に」住みたいというアンドレ・ブルトンの文を喜んで引用するのである。

サビナは観客をつけないためにプライバシーをかくす事で真実を生き、フランツはプライバシーを全ての人と共有することで真実を生きているわけです。で、この「真実に生きる」こと、僕はどうしているんだろうって考えたりしました。キッチュにも通ずる話のような気もします。これも難しい。でも、結果はどうあれ真実に生きたい気がするので、咀嚼していこうと思いました。

あと最後に、人間が人間であることの一番の理由は、自分自身の存在に気がついている事であると、著者は本の中で表現しています。簡単に言うと、鏡を見て自分であると認識できれば人間であるということです。 必要十分な条件ではないかもしれませんが、なるほどなぁと思いました。そして全てでは無いですが、だから他の動物は人間から無償の愛を受け取る事ができるのです。となると、人間間の無償の愛は?と考え始めましたが、まとまりきっていないのでまたそのうち。

ウェブ進化論 / The web theory of evolution

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梅田望夫さんのウェブ進化論を読みました。とてもすんなり読める内容で面白かったです。本に対するやや客観的な感想としては「きちんとまとまっていて良い内容だな」って感じでした。
僕は仕事柄ウェブに触れている時間が多いこともあり、これを読む以前から今後のウェブについては何となく考えていて、こうなればいいのになぁってのはポコポコとあったりしました。今後このポコポコを何らかの形にしていきたいですが、その前に、この本を読んだおかげでそのポコポコ浮かんできた元を僕もちょっとまとめてみようと思いました。梅田さんにありがとうございますです。

さてウェブでは今、Web2.0だ!いや、そんなのは言葉だけだ!いやいや、実際あるじゃん!と色々と言われつつも、新しいサービスが次々とつくられているわけです。色んなサービスができるのは良い事ですが、僕的な今後の展開について必要かもと思うことは以前の記事でも少し書きましたが、牽引・浸透させる手段を考えていく必要があって、このときに書いた方向での思考は、誰かがやっていかないと駄目だろうなと相変わらず思っています。Googleの言葉を借りれば、世界政府がやるべきなんでしょうね。
他にも色々あるのですが、僕の思考の元には何があるのかという自問自答をしてみました。答えは、(あやふやな所が多く明確ではないかもしれませんが)人間は人間であろうとするもの、といういつものっぽい結論が待っていました。

人間はこれまで色んな発明をしてきました。エジソンが蓄音機や電話やレコードプレイヤーをつくったり、レジナルド・フェッセンデンっていう人がラジオをつくったり、そのうちテレビができてみたり、自転車・自動車・機関車・新幹線・飛行機と挙げればキリがないです。これらの大発明品というやつのほとんどが、人と人の距離を近づけるためにつくられた(もしくは結果的にそうなった)と僕は思っています。
今はそこにいないのに遠くの人にこの声を届けることができる。今はそこにいないのに遠くの人にこの風景を届ける事ができる。驚くでしょ?驚くよね?
そんな気持ちから色んな発明品は生まれたんだと思います。
では、発明した人は何故そういうことを感じたんだろうともう一歩突っ込んで考えてみました。

「昔は今ほど物があふれていなくて良かった。今では資本主義的な世の流れから人は物欲に支配されている」なんてちょっとネガティブな思想が見えたりする今の世の中ですが、発明されたものが持つ本質は昔から変わっていません。そもそも、人間は自分以外が発する要素を自分で感じられる距離に置く事が、人生において自分が驚く(感動と言っても外れではない)ための一つの手段であると感じているのではと思うのです。そして、その手段を極力多く実現し、驚きを他の人と共有しようとする事がコミュニケーションに繋がると心の奥底で感じていると思うのです。それがまさに人間が人間であろうとすることなんじゃないかなと思います。
ただ、ものの本質はそのものが浸透すればするほど、その物と人間や他の物との関わりが多様になりすぎて、本質以外に付与したものが目立ち始めたりします。そのあたりは人間の欲望メカニズムにも大きく影響されていると思われますが、話がややこしくなりそうなので今回はとりあえず置いておきます。
本質以外のものがいくらついたとしても、発明されたものの全ては人間にとって大きな役割を担い続けていて、ウェブにもそういった担っていくはずの役割があると思っています。今までの社会では不可能だった事の一つ(かそれ以上)がその役割になるわけです。

で、僕が思うその役割とは、その瞬間の全人類のことを知る事ができるということです。いわゆる歴史や研究として、過ぎ去った全人類を今まではとらえてきましたが、今のこの瞬間を歴史の中にいれられるとすると、人間は自分たちのことをもう少しわかるようになるんじゃないかと想像していたりします。さらに、この時代以降の情報群は世代を超え時代を超え蓄積されてもいきますので、今までよりも深く知るきっかけは多くなっていくのではないかとも思います。
で、こっからは妄想ですが、それをもって人間の内面に対して改めて驚いて(それをもってコミュニケーションして)いければ、人の人に対する信頼や愛情は今よりも大きくなっていくんじゃないかと思います。現状、思い悩むほど「混沌とした現世だ」なんて考えている訳ではないですが、いつ崩れるともわからない世の中ではあると思うので、色んな事に関して、もう少し良い折り合いの付け方ができるようになっていくんじゃないでしょうか。

と、同時に危惧もあります。これからもしかすると自分の家のことが数多く残っていくかもしれない訳です(僕はそう思っています)。その中では僕たちがあまり触れた事のない、自分の親やさらにその親たちのリアルな姿をありありと感じる事ができます。例えばですが、今までは親の事を自分のことと同じ人間であると感じる年齢というのがありました。大体は仕事をするようになったりして感じるものです。しかし、今後は子供が自分の親が自分と同じ歳だったことがありありと目の前に現れ、そこに自分を重ねてみたりするわけです。それが良い影響を及ぼす事も考えられますが、悪い影響もきっとあるでしょう。それを良しとするか悪しとするかは、慎重に考えていかないといけないでしょうね。

何だか書いてみてまとまったんだかまとまってないんだかわかりませんが、久々に記事を書けたという事で良しとします。

桜 /

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今日、桜を見た。花はまだ。見上げると、無数の枝。
これがもう少ししたら花でいっぱいになる、そのときを想像した。

なぜ、そこで花をつけるのか。

きっと、色んなタイミングがあるんだと思う。

今日は晴れてるから、花を咲かそう。
ここは寒いから、もう少しまとう。

つぼみたちはそんな気持ちを持って、そのときを待っている。
そして、必ず咲くんだ。

加点法・減点法 / Adding point and the bad mark system

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今まで、何度か誰かと話をする機会があったのですが、人生においての加点法・減点法について書いてみます。

いわゆる完璧主義者とそうでもない人は、この点において違うのではと僕は考えます。

完璧主義者は減点法で、持ち点を100点とすると気になるところがあると1点減って100点ではない、ので、駄目っていう考え。一方、そうでもない人は加点法で、持ち点が0点から始まって良いところを見つけると10点プラスしてみたり、局地的に「こりゃすげー」っていうところがあればそれで100点。100点だからOKっていう考え。
前者の考え方は生き方としては過酷で、その減点って運の要素も多分に含んでいるだろうと思えることもしばしば。後者は前者よりは楽ですが、どうもポイントが甘くなる傾向があって、はじめは10点が2つと思っていたのに、最終的にはその2つが50点だとさも不可抗力によりそうであったかのように跳ね上がったりします。

ここでよく見かけるのが、それぞれの性質を持つ両者が一つの事柄に立ち会ったときのことです。まあ、結果に影響するのは主導権がどちら側にあるのかなんですが、どちらがどちらでも、主導権を振りかざして納得せざるを得ない状況にしてしまうか、相手の加点法、もしくは減点法を覆す威力を持った説得力で覆すかのいずれかでしょうね。後者はとても良い結果が待っていることが多いんですけど、前者はそれはもうひどいもので・・・。なので、僕はだれかとぶつかると、それまで自分がどちら側かを改めて考えてみて、ちょっと裏返ってみたりします。そうするだけで、ずいぶんと話が進んだり膨らんだりします。基本的には後者を目指しています。

で、加点法にしろ減点法にしろ、100点とはどこか?という問題が一番重要で、それさえはっきりしていればまだがんばりようもあるのですが、100点が頭に無いまま「そこ減点!」とか「これで満点!」とか言ってちゃ駄目なんだろうなと思います。
まあ、人生的にはその時点で思いつく100点なんて、時間が経って考えてみれば、60点ぐらいしかなくて、なんて浅はかなんだろう・・・と反省してみたりもします。だから、100点を目指すこの考え方自体も破綻しているのかもしれません。難しいところです。

ちなみに僕はどちらかと言いますとどちらとも言えず(ずるいか?(笑))。まあ使い分けていると思います。だいたいの場合、自分の裁量しか存在しないことに対しては減点法で、それ以外は加点法。たまに、途中まで加点法で、途中から減点法なんていう考え方になることもありますし、減点法でやっていたけどラチがあかないと気づき加点法に切り替えてみたりもします。ものを買うときは加点法が多いです。人にものを進めるときは減点法が多いですが、人にとっての100点がわからないので正確には加点法なのかもしれません。

29歳 / Twenty-nine years old

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僕もついに29歳になりました。

10年前には思い描いていなかった人生がここにあり、
20年前には思い描いていなかった人生がここにある。

人生というのはとても難しく、生きるというのはとても面白い。

予測することを僕にとっての最高の思考とするなら、
すぐに終わってしまう事なのかもしれないがもしかすると
僕にとっての人生はもう少し簡単なのかもしれない。

予測することだけでできているのなら、
それは僕にとっての思考ではないと思う。

僕は僕の思う思考を絶対にやめない。

予測だけで片付くような、
そんな少ない道筋の中で僕たちは生きていないと、
心の底からそう思う。

僕はいま、とても生きていたいと思う。
予測の範疇に無い、そんな瞬間をつくり、生きたい。

今、生きていられる環境があることに感謝します。
みなさん、本当にありがとう。

みーんなが、幸せでありますように。

よこやまひろあき

ケーキを食べるとちょっと幸せ。 / When it eats the cake, it is a little happy.

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久々の投稿なのですが、ちょっと告知です。
1/29(日)の12:00〜23:00、青山のコラボカフェで、友達が1日カフェをやります。
僕はデザイン担当です。(ケーキのデザインはしませんが・・・)

「カフェを つくる 日々 をつづる」の記事

ケーキを食べるとちょっと幸せ。というコンセプトで、今年中(?)には本当にお店をオープンしたいと思ってやっている女の子で、そのお試しカフェとして、1/29に青山でやるというわけです。青山学院大学の近くです。渋谷駅からの方が近いです。当日、そのへんに用事のある方もそうでない方も、ふらっと来てもらえると幸いです。

もし、時間が間に合えば(場所があれば)、僕もなんか展示してみうようかなって思っています。

今回はそんなところで。
時間があれば、坂本龍一とか、初詣についてとか、人類の総記憶量についてとか、色々と書きたい事があるんですが、どんどん溜まっていく一方で・・・また、そのうち時間をみつけて書きます(たぶん)

PSPのゲームのレビュー / Review of PSP softwares

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今回の冬休みはじんましんのおかげで、家にいることが多くてゲームをかなりやりました。
今回はそのレビュー(なのか?)を少し書いてみます。

僕の私の塊魂NAMCO / アクション(パズル?)]
塊魂シリーズは何作目なのか知らないですが、結構沢山出ていますよね。面白いとの噂を聞きながらもずっとやってなくて、ようやくやってみました。
これはかなり面白いです。思った方向に進んでくれず、操作に慣れるまでは少し大変ですけど。
そしてBGMも素敵なものが多く、何故か松崎しげるも参加しています。僕はEVER LASTING(だったかな?)ってのが結構好きです。

まだひとリプレイしかしていないので、そのうち対戦もやってみようと色んな人に声をかけてまわっています。きっと対戦の方がたのしいんだろうなぁ。声がかかった方は遊んでやってくださいね。

ちなみにこのゲームにはまると、ちょうどいい感じの住宅地とか、カゴの山積みとかを見て、「固められそう・・・」って反射的に思います。で、「それを固めたら次はこっちへ・・・」ってな具合に現実とゲームの世界を重ねてみそうになります。影響力はかなりのものです。
友達も言っていたのですが、固められそう・・・って思うものの基準がけっこう曖昧かつ微妙で、何でそう思うんだろうって思いました。

で、暇なので少し考えていたところ

  • 単一な(or に近い)形状のものが並んでいて、効率的に巻き込めるか

  • 自分の目線から地面までの距離を球体の直径と捉え、大きさ的に巻き込めるか

ある対象に対して、この2点が瞬時に評価され、視界に入るものを次々と評価していきルートを決めていっている。
ような気がしました。

で、この見方って少し面白いなって思いました。ゲームじゃなくても実際の生活の中でそれに似た見方をしているような感じがします。だから、このゲームは取っ付きやすいのかなって思いました。

モンスターハンターポータブルCAPCOM / アクションRPG]
このゲームもシリーズもののPSP版らしいです。ゲームをすることが久しぶりの僕には、「結構ヘビーなゲームかもなぁ」なんて思いながらも買ってみたのですが、苦労は多いですがそれなりの達成感は常にありながら進められるゲームでした。で、ある程度は進んでいる感じがありながらも、まだまだ先は長そうです。

一人でやりながら思ったのですが、このゲームは誰かと協力することを前提につくられているような感じもしました。だから一人だと苦労が多いのかなって。ぜひ4人でやってみたい・・・。でも、この手のゲームははまると危ないです。特に多人数プレイでの楽しさにはまると、楽しくて楽しくて色んな事をそっちのけにしてしまうことも・・・。
とはいえ楽しいので、持ってる人は遊んでください(こればっかり(笑))。

新年、明けましておめでとうございます / A Happy New Year!!!

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2005年も終わり、2006年が始まりました。まあ、今年も岡山の実家に帰ってこれて良かったです。
2005年は健康面でかなりやられていました。色んな方にご心配・ご迷惑おかけしました。すいません(苦笑)。
年末までも謎のじんましんにやられ(大分調子良くなってきました)、年末年始とノンアルコールな感じでした。こういうときにお酒を飲めないのってややつらいですが、おかげで例年に比べて胃腸は元気です。

はっと気づくと20代最後の1年。今年は健康を維持しながら、元気に走り回りたいと思います。

ちなみにおみくじは大吉でした。おみくじって楽しいですよね。僕はああいうの好きなんです。おみくじの裏に「25歳まで勉強、40歳まで研究、60歳までに全うせよ」と書いてありました。25歳はすでに過ぎている僕ですが、まだまだ勉強はしつつも、研究も進めていきたいです。

それでは、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

あ、今年は年賀状をまだつくっていませんが、なるはやでつくります・・・できるかなぁ(苦笑)

WEB 2.0に感じた事 / Feeling WEB 2.0

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昨日色々と書きましたが、読んだ記事がかなり長い文章だったので思う事は他にたくさんありました。で、まとめようかなと思ったのですが、無理でした(笑)考えてる事がよくわからないというか。とりあえずメモ的に羅列してみます。そうすればそのうちまとまるかも・・・

  • ページビューだけの意味のなさ

  • 人間の認識(善悪とか)を今よりも把握したり、形成(これは洗脳みたいで何か語弊が・・・)しないと駄目?

  • 双方向気味に知らない人と繋がる事にどんな意味があるのか?

  • 知りたい事を知りたいときに知れる事はやっぱり大切

  • データの分類として「過去」「現在」「未来」っていう括りが大切になる?

  • 今あるキーボードとマウスの限界?

  • 身近なものとそうじゃないもの2種類に大きく分かれる?

  • 世の中の多くを占めている作業的なWEBデザイン(既にデザインとすら言えない気もする)はいつまで持つだろうか?優秀なインターフェイスができたとき今のままではいられない。

昨日の空 / Yesterday's sky

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昨日の空は、今年一番の素敵な色の空でした。
とてもとてもとても素敵。

一瞬、写真をとろうかと思ったのですが、僕のへなちょこカメラ(と腕)では、ほど遠い色合いにがっかりしそうだし、写真を見る度にこの感覚はどんどん劣化するんじゃないかと思い、イメージは頭深く沈めておこうと思いました。

あとは日記につけておけば、いつでも思い出せます(たぶん)。
言葉って便利ですね。あと匂いも。


*記憶メモ
イングリッド・フジコ・ゲオルギー・ヘミング / Impromptu No. 4 in C-Sharp Minor, Op. 66 "Fantaisie - Impromptu"
これの高揚感と似ている。

視覚の無い夢 / Dream without sight

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宅配便の二人組がうちにやってきて、僕がはんこをつく夢。

夢の中で僕は寝ている。
呼び鈴で起こされる。瞳孔の調整が上手くいかないらしく目が見えない。
見ようとがんばったけど見えないので、玄関まで行って玄関を開けてはんこを渡す(ここで他人にはんこを渡して良いか躊躇した)。
つまりは視覚の無い夢。これって夢なのか・・・

引力 /

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何か引力とか言うと、ちょっと難しそうですね。
僕には高等なことはさっぱりです。
とはいえ、理科の授業の端々ぐらいは覚えていまして、
何にでも引力があるんだよってことだけ覚えています。

その当時、ああ、なるほどと思いました。
人間の人生と引力の関係についてです。

人間は性格が違うとか、そのあたりも当然違うのですが、
それ以前に似ているだけで、
物理的にみても個体差があるじゃないですか。
(精神的なものが物理的なものに及ぼす影響ももちろんありますね)

例をあげると細胞の数とか、そりゃもうまちまちです。
となると、各個人がもつ引力も違う訳です。

となるとですよ、世の中で目立っている人とか
素敵な人生(どんなだ?笑)を送っている人ってのは、
その組み合わせのおかげで自分引力が人より強いんじゃないか。
その引力の強さがあって、結果的にそうなっていってるんじゃないか。
魅かれる。引かれる。敷かれる。ああ、なるほど。

と思った事がありました。
じゃ質量か?質量を増やす事ができれば、引力が増えるのか?と
思ったりもしました。
いや、意識的に自分引力を増やすなんてできないよなぁと
思ったりもしました。
だから、どんなに性格の悪い、酷いことする人でも
引力さえあれば無事に生きていられるんだなと
思ったりもしました。
さらに引力ってつまり運ってことか?と思ったりもしました。

・・・

ほんと、だからといって何?ってかんじと思います。 苦笑

と、書いていてまた思い出しました。
先日のこと。

引力についてニュートンがその当時に「おお!」と思ったぐらい
(勝手に予想)、
僕もぼーっとしていたからか、負けじと「おおお!」と思いました。
僕の場合は梅でした。
世界の不思議だなぁと思った次第です。

いろいろ

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■「ど」と「と」
日本人の僕にとっては「ど」と「と」は濁点がある無いの
関係があるのですが、
外国の人にとって、ローマ字であったとしても
「do」と「to」はいまいち関係ないということに
今更ながら気がつきました。

そりゃ、大きな違いだ!

と、すごく大きく違うと思ってみたのだけど・・・。

■外国の人にもウケている?!
先日、新宿駅で外国の人(早稲田の教授らしい。人間の習慣に関して教えているとか何とか)に荷物を運ぶのを手伝ってと
言われました。
それも、地上から京王線の乗り場まで。
行き先聞いて、財布預かって切符買ったり(笑)
うーむ、なめられているのか?
いや、信頼してもらってるんだな。ふふ。

ちなみに、日本の人でも声をかけられる率が高い気がします。
道を聞かれたり、時間を聞かれたり、何となく声をかけられたり。
僕は全人類的に声をかけやすい傾向にあるようです。
これは良い事なのか、はたまた・・・
僕は楽しいんですけどね。
もう少し、実体験を通して観察してみようと思います。

■ absolute ← → relative
相対的な思想は危ういなと思います。
結局、相対的なことってあんまり意味が無いことが多い。
でも、意味のある相対もあるんですよね。
相対するもの両方が一定の条件を満たしている場合は、
意味があるんです。たぶん。
意味の無い相対にだまされちゃいけません。

一旦、絶対で考えた上で問題なければ相対で考えるかんじ。
これってつまり絶対かな?
まあ、どっちでも良いんですけどね。

■神経と運動
昨日の朝、寝ぼけつつも僕の脳からの命令が手に行っている様子を
感じてみようと試みてみました。

僕の脳が小指動けと思う

神経を通じ小指に指令が飛ぶ

小指が動く

小指が動いた感じを神経を通じ脳にバック

小指が動いたと認識

とこんな流れを考えていたんだけど、
どうにも、そんな感じがありませんでした。
思うのと動くのは同時ぐらいの感じでした。
もっと慎重に今度やってみることにします。
寝ぼけてちゃだめか(そういう問題じゃないのかな?)

子供と人 /

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僕が子供の頃は、自分より随分背の高い
セイタカアワダチソウの生い茂った草はらを
わしわしとかきわけて、色んな遊びをしたものです。


先日、山手線に乗っていたところ、
三人組の小学生の男の子が乗ってきました。

少年たちはどこかを目指し、一列になって
大人たちでほんのり混み合った車両の中を
かきわけかきわけ歩いていきました。
その光景に、僕は自分の子供の頃の様子をダブらせていました。

何か懐かしいなぁと微笑ましさを感じた次の瞬間、
あることに気が付きました。
ん?ってことは・・・他人を人だと思ってない?

もちろん僕がセイタカアワダチソウにしたように、
蹴り倒したり、定規でビシビシ叩いたりはしないものの、
彼らの行動には他人に対する配慮はあまり無いように感じました。

また彼らの他に、数人の学校が違う小学生がいたのですが、
その両者の関係もまた、僕とセイタカアワダチソウの関係に
近いものでした。

僕はまた極端に田舎にすんでいたので
知らない同年代の子がいると、やや警戒してたりしてましたよ。
まあ警戒というか、仲良くなるなら仲良くなるぞって
かんじですけど。


都会の少年たちはこんなもんなんですかねぇ。
どうなんだろう・・・。


で、ちょっと想像してみました。

彼らはきっと、もう少し大きくなると
自分が知らない人と触れることは、
いくらかの危険があるかもしれない
ことを感じるでしょう。
また、自分の領域というものを感じ、
今ほどむやみに人に近づかなくなったりもするでしょう。

上の方に書いたセイダカな関係のまま、自分の都合だけで
危険を避け始めるって、何か凄いわがままだなぁと感じます。
そういうことを自然にさせてしまう環境があるってのは
僕はどうかなぁと思います。
少なくとも他人は他人であり、他人は自分と同じ人間である
と認識はするべきで、子供の頃の僕にとっての
セイダカアワダチソウと同じレベルじゃいけないと思うのです。

良い方向で、人なつっこい人になれば良いのですが、
大部分はなかなかそうなるとも思えず・・・

うーん。
女性専用車両も必要ですが、そろそろ子供専用車両ですかね。
いや、電車の乗り方か。
携帯電話のマナーとか言ってるより先にこっちでしょうと
思いました。
いや、遊び場が無いのも問題なのか・・・。
難しいですね。

40年の孤独 /

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こんなに、こんなにも、深い悲しみを感じたことは
久しぶりでした。

僕は今まで生きてきて、28年たって。
それでも孤独であることや、死ぬかもしれないということの
圧迫をほとんど受けずに生きてきて。
この孤独と不安は、小さな僕では受け止めることができず
そのときは、今にも泣いてしまいそうでした。
そして今は、泣いてしまいました。

自分が生き、自分が生きたいように生きること。
自分の肉親が生き、自分が肉親と生きたいように生きること。
自分の子供が生き、自分の子供と生きたいように生きること。
自分の知人が生き、自分の知人と生きたいように生きること。

すべてが当たり前で、すべてが可能であるはずで、
でも当たり前に無くなって、自分が思うように生きることすら、
死の恐怖と隣り合うことで、それがそうできない。

今日バス停で出会った一人のおばあちゃんは、
そう歩んできたような人生を話してくれました。

戦争でご両親が。
戦争でお子さんが。
寝ることが死ぬことと同一に。

今は一人で暮らし、習慣は続き、朝方まで眠れずテレビを見て、
3時間寝て、また一日がはじまる。
今日は池袋で食事を食べるんだと言っていました。

おばあちゃんの40年。
40年続く孤独。

おばあちゃんは、僕に日傘をさしてくれたんです。
別れ際に、何度も何度もありがとうって言ってくれたんです。
ニコってしてくれて、また会いましょうねって言ってくれたんです。

こんなにも悲しいことがあるんですね。
こんなにも悲しいことなんですね。
こんなにも深く、こんなにも不自由で。
とにかく悲しくて悲しくて。悲しくて悲しくて。

これが運?これが運命?
これが人生で、これが生きるということ?

抗うことも、流れることも、選ぶことも、決めることも、
全てにおいて余地のない、深い孤独と不安。

それに対することが有効であるとは思わないけど、
僕がここでこうしていられることに対する感覚。
驚きでもあるような、
虚無感でもあるような、
感謝でもあるような、
無力感でもあるような。

この深い悲しみは、
愛なのか、善なのか、
共感なのか、憤りなのか、
哀れみなのか、偽善なのか。

全てはとりとめも無く、
まとめることもできず、
何を考えているかわからない。
これを書いて何を言いたいってこともわからない。
ただ、どこかにむけておきたいと思いました。
この気持ち。

ある日ふと

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もし
さくらたちが咲かなかったら
皆驚くだろうなぁ。

いつの日か
咲かないかもと
ふとおもう

騙されないため /

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オレオレ詐欺も随分と増えたような減ったような。
友達の話も何人か聞きました。
誘拐されて指を落とされたくなかったら振り込めとか、
事故を起こしちゃったから示談金を振り込めとか。
登場人物も1〜4人と多彩です。
さらに効果音まで使ってます。
色々話を聞いていて、僕はかなりの怒りを感じてます。


で、ここ最近、少し考えていました。

今の一般的な対策としては、
・本人に折り返し電話をする
・警察に相談する
・知人に相談する
と、こんなかんじでしょうか。
本人に折り返し電話するのは、結構効果的な手段のように思えますが、
先日、僕の実家にかかってきたときは
携帯電話の番号を教えられたそうです。
で、かけたら同一人物が出たと。
というわけで、折り返しといっても一概に有効とは言えません。
携帯電話の人も多いので繋がらないこともあると思いますし。

また、残りの二つも最近では「早く早く」と
追い込む手口が多く、これまた効果は薄い気がします。

僕が思う、この3つに関して致命的な欠陥は
騙されている人(最初に電話に出た人)の心労が
数時間続く可能性があるということだと思います。

どこの家庭にもお年寄りはいるもので、
そういうお年寄りにこの数時間の心労というのは
非常に心配です。(もちろんお年寄りだけじゃないですが)
本当にやめてほしいと心から思うばかりです。

が、思ってみても彼らはやめないんでしょう。
本当、怒りです。


というわけで。
警察の呼びかけや、口座の監視といった
数を減らすことを目的とした対策ではなく、
騙されている人の心労を減らすことで、
数もついでに減らすことが大切と考えました。

一番良いのは、
最初の電話の時点でこれが本人じゃないと確証が持てること
と思います。
そう、本人確認ってやつです。
ただ、どこまで調べて電話してきているかが未知数なので、
ありきたりな生年月日とか、住所とか、出身地とかは
ちょっと心もとないです。

そこで!
思い付いたのは、合い言葉です。
そう、忍者が使う「山!」「川!」ってやつです。
家族と自分しかしらないような秘密をつくるわけです。
予め決めておけば良いだけ。
たったそれだけの労力でその場で本人確認ができ、
飛躍的(僕の想像(笑))に心労が減り
ついでに数が減ると思うのです。

ただ、これだけだと今は本人は出れないからって言われたり、
偶然ばれちゃったりすることもあるかもなので、
これに頼るのではなく、
本人への電話確認とセットで使っていけば
良いんだと思います。


僕は早速うちのおばあちゃんとそう言う話をして、
おばあちゃんの好きなことにちなんだ(忘れないように)
合い言葉を決めました。
で、
とにかく、びっくりするような電話があったら、
前後の会話と脈略があろうとなかろうと
合い言葉を投げかけて。必ず答えるから。と。

結構、恥ずかしいような気もしますが(笑)
そんなこと言ってる場合じゃないかなって思います。
本当に彼らは容赦ないっぽいです。
こんな世の中になってしまって、なんだかなぁ・・・。
でも、ちょっとしたことで家族が少し守れるんだったら
良いと思いません?

もし有効かもと思った方は是非ご実家にお電話を。
特に実家が遠く、一人暮らしの方。
あと、ほとんど実家に連絡していない方。
是非是非。


あ、あと、これ駄目じゃん!な意見もよろしくです(苦笑)

早くなくならないですかね。こういうの。

僕らのからだ /

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僕らのからだの中では
時間が逆に流れているのかもしれない。


しっかし、凄い時間に起きました。
前日の徹夜仕事のおかげで、
久々に外で倒れそうなぐらい眠かった。
ほんと倒れそうでした。

で、夕方に戻ってきて睡眠。
で、5時起きと。
やばい!寝すぎた(笑)

でね、あー喉乾いた〜って思って
あ、水が無い・・・外寒い・・・
って思ってたら、前日に買ったフルーツ盛り合わせが
冷蔵庫に入っていました。

おお!これ賞味期限大丈夫か?と思い確認。
14日AM9時。やった!
がつむしゃ食べました。
喉潤い〜いやぁ、捨てる神あれば、拾う神ありですよ。

で、最後のオレンジを食べようとしたときのことです。

この賞味期限ぎりぎりのフルーツ、僕らの体に入って9時に
なると賞味期限すぎるんだよな。

ってことはだ、
僕らのからだの中は外とは時間の流れが逆で
そのフルーツたちはそこに入る事で、
どんどん新鮮になり、みるみる皮がついて
青く青く、小さく小さく、花になり、
ついには消えてしまうのだと気がつきました。

やばい!だいはっけーん!(チガウゾ)

ああ、つまりはタイム風呂敷ってことなんだなぁとか
考えながらも、そろそろ仕事します。
げんじつトウヒ、おしマイ。

倒れている人を起こす感じ /

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気がついちゃいました。
まさにこれ。
昨日、自転車にのってて気がついちゃいました。


ほら、よくあるじゃないですか。
もんのすごく酔っぱらって、ふらふらを通り越して
だるーーんとうなだれてる人。

ああいう人を
トイレこっちだからとか、
家までもうすぐだからとか、
救急車きたからとか言いながら、
起こすときのあの感覚。

ずっしりきます。
相手はだるーーーんですから。

ちょっと嫌悪感や、何だか義務感があったり、
妙な親心があったり、いい加減にしろと思ったり。
気持ちはこんな風に色々です。
でも、気持ちは色々でも感覚は同じ。ずっしり。


で、何に気がついたかと言いますと、
こうやって生きている気がしました、僕は。
一つの心がうなだれているのを感じ、
他の心がずっしり感じつつ起こそうとする。

ここ数ヶ月の僕の振る舞いを思い起こすと、
色々な気持ちはありましたが、ずっしりな感覚が色濃く残っている。
やっぱり、生きるのって結構、力がいるんだな。
僕は運動不足です。たぶん。
だから、運動しないといけないな。

といっても、何をどうするのかは・・・
これから探します。