現状について

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少し前に、僕のおばあちゃんが戦争で疎開したときの話を聞いた。

岡山は空襲が来るけーゆーてな、私はな、山の方の実家に(たぶん娘:僕の叔母と一緒に)疎開しとったんじゃあ。そりゃあおそろしかったぁ。怖かったわ。(戦争が)終わってから戻ったけぇど、うちのあったへんまでが焼けてしもうとった。近所の人がどうせられたんかはよぅわからなんだけど、うちのお父さん(僕のおじいちゃん)に後から聞いたんはな、ぎょーさんの人が(避難所みたいなところに)逃げたんじゃけぇど、あんたのお父さんと旭川に逃げとったけぇ、無事だったんじゃーゆうて言いよったんよ。

僕はこれを聞いて、避けられなかった人は多かったんだろうと思った。

この話、空襲怖いよねとか、疎開大変だよねっていう話もあるけど、僕が思ったのはそのことじゃない。空襲があるから疎開したっていうことについて、当時の状況とか生活背景みたいなものを思った上で、疎開した理由が「空襲があるから」ということについて想像をした。

そんな話、誰から言われれば信じられるだろうか。岡山に、っていっても個人から見れば広いものだし、まず最初、うちは違うよねぇって思いそう。どんな情報源でも、今でさえ、起こるまでは本当に信じるのは難しい。でも、運とかじゃなくて、ちゃんと避ける人もいる。この人たちはなにを信じたのかと思いました。

もう少し違う例えをして、戦争がはじまるときや終わるときの想像をしてみる。「戦争が始まりました」とか「戦争は終わりました」って、こういうことを誰から言われれば信じられるだろうか。「戦争がはじまって、そこは危ないから逃げてほしい」と言われて、積み重ねた日常のほとんどを捨てて動けるだろうか。爆弾が降ってくるようなことでさえ、にわかには何かを信じるのはやはり難しい。社会のことのようでいて、自分のことなのだと思います。

社会全体として、様子見の仕方がちょっと変じゃないかなとずっと思っています。僕が言いたいのは、危ないから!ってことじゃなくて(いや、実際危ない確率の方が高いと思うけど)、ちょっと感覚がおかしくなってないだろうかってことは常に考えておかないといけない時期なんじゃないかなってこと。

近頃はあまり聞かない話かもしれないけど、お父さんが単身赴任するのって、まあ割とある話と思います。だからといって、家族が離れちゃうならもう離婚よ!とかってならない。サラリーマンとか企業が中心の社会よりもずっと昔の、出稼ぎだって同じだったんでしょう。

うちの祖父は仲間たちと山の方に仕事で出ていって戻ってこないことが度々あったと母から聞きました。でも、出稼ぎに行くことは家族にとっては必要なことだったんだと思うし、帰ってくることは喜びだったんでしょう。必要なことのために動くのは当然だと思う。

でも今の状態をみると、仕事の都合、つまりお金のことがきっかけだと動けるのに、子の健康が害される可能性がきっかけでは何もできないっていう状態にみえる。僕はどちらも必要なことだと思う。このへんから、これは少しおかしくなってるんじゃないかなって思うのです。

何でそうなってるのかはわかりませんが、そこまで何も起こらない確信がある人って少ないと思うんです。排ガスだって、タバコだって、光化学スモッグだって、農薬だって、黄砂だって、健康には悪影響があるのだし、リスクで言えば、強盗だって、交通事故だって、いじめだって、過労だって、死のきっかけはたくさんあるのだから、今さら放射能ごときではなんてこと無いよ。ってことなのだろうか。

僕の放射能感は、いわゆる公害レベルの事態になるんだろうという感じです。水俣病が当時何か危ないんじゃないかと意識され、県がその地域の漁獲を禁止するまで15年ぐらいかかったという話を読みました。その間、ある特定の魚が捕れなくなったり猫が狂死したりしてたのに15年。認めてもらえないと認められないのはおかしいことでしょう。社会が害を認める5年か10年後には、また社会状況や経済状況もがらっと変わってるのだろうけど、認められないものから身を守るには、補償とか保障とか言ってないで自分が動く以外無いと思う。保障で健康や命は戻ってこないことは明確でしょう。

ただ、お金が無いと暮らしていけないのは身にしみてよくわかる。わかっているけど、家族よりお金の方が大切っていうことを無意識に(もしくは暗黙の割り切りで)受け入れていることになってしまっていないだろうか。様子見っていつまでそのままなのか。こういう状況で様子見するなら、離れてから様子見するのが普通なんじゃないか。きっとこういう風に迷ってる人も多い気がする。そう。これはとても難しいんですよね。人生が変わっちゃう気がしますから。変わっちゃうっていうか制限が大きい感じがするという感じですかね。子のいない僕が言うのはお気楽なもんですが、僕ですらそういう感じがあります。

様子見をしているうちに、本当は安全性がはっきりしてくれば嬉しいのだけど、逆に、危ない確率が上がるような情報はどんどん集まっていると思います。これだけ材料があれば、他のところに住んでいる人が、福島で死ぬまで稼げる仕事があるからといって福島へ引っ越そうかって気持ちになるんだろうか。それは、瓶が地面に埋まってて実は放射線量が局地的に高かったけど健康には害がなかったよね、ってことぐらいでひっくり返るもんじゃないでしょう。悲しいことに、チェルノブイリでは間違いなく問題があったわけです。

大地震から、もう半年以上が経ちました。あの地震以来、原発のことで好転した打開できたことってあるのかなって思うと甚だ疑問です。放射線量は徐々に増えています。いや、増えていますっていうとちょっと言い過ぎになるとしても、まあ間違いなく減ってません。時間が経てばある程度は落ち着く種類のもののはずが、減ってないってことは、未だにあそこから塵となって舞っているということだと思います。現場の人はすごくがんばってるだろうのに。

僕の中での話ですが、以前のバランスに気を取られて、意識というか感覚みたいなものがおいてけぼりになってるような感じが少し。そろそろ落ち着けるはずだし、おいてけぼりにしておくと戻ってこなくなってしまうかもと思う。例えの例えになるけど、丹田に意識がある状態、のような生き方過ごし方というのがある。そういう感じ、僕らはなかなか普段の生活で持てないけど、それは生きていくうえでは大切なことだと思う。大切なのだけど、それがなくとも、今の僕らは致し方なく、歯を食いしばる時期なのだとも思う。制限とか変化ぐらい、我慢できるしどうとでもなる。

僕らの体は基本的に、外側からの刺激には強く、内側からの刺激には弱いものだと思います。おなじ1Svでも内と外だと影響の度合いが違うってこともよく言われていますよね。日常で言えば、こけて傷ができても、外側は再生(というか代謝?)が活発だからまあ平気なわけです。でも、内側がどのぐらい弱いかと思うと、本当に侮れないと思います。アレルギー反応が体の内部に出ると死んじゃうよとかって話もあるし、どっかでは内部被ばくは外部の6倍の影響があるなんて数字も見かけました。

ここのところ、すごい線量の放射性物質が埋まってるっていうニュースをちょくちょく見かけますが、あれ本当のところ何なんでしょうね。あんなにたくさん埋まってて本当に影響がないんならもしかして・・・と思う気持ちはありますが、何か変な感じがしますけどね。害が無いならそりゃ嬉しいですが、無いならチェルノブイリだって平気だったんじゃないのとは思います。その情報が嘘、というか原因が別にあったならわからないですけどね。情報って難しいですね。

病気になるかどうかの想定を、とりあえず数字を追いかけてがんばろうとしている人はたくさんいるんだと思うけど、ちょっと気になったことがある。これは僕の想像というか妄想ですが、自殺しちゃう子がいないと良いなって思いました。

「お父さんお母さんがすんごいがんばってくれて、私もそれに順じ、応じ、がんばってきたけど、それでも私は癌になってしまった。」と、思ってしまった子が、その申し訳なさに、状況次第ではあっさり死んでしまうのではないか、本当は治る病気かもしれないのに。とか。

この状況というのは、家庭の中のこともそうだけど、友達で話していることの中にもきっかけはたくさん隠れてるんじゃないかなって思いました。みんながみんな、行動がどうあれ心配はしてるわけだから。

まあ、割とはっきりしてることは、あそこまで壊れた原発はそう簡単には直らないってこと。壊れた容器を直すってだけを思うと何となくがんばればできそうな感じってありますが、作るだけでもとても大変なあんなでかいものを、水や気体といったすごく細かいものが漏れない精度で、撤去せず壊れた部分を修復する技術なんて現実的ではないと思うけど。特に建築に携わってる人は実感できるはず。雨漏りだって難しいもの。やってもやっても追いつかなかったりもしそう。慌ててしまっていて隠さなきゃっていう考えだと止めようもないことのように思う。

地震以降、ここに書いてる色々な話を読んで、たまに心配をされることがある。まあ、暗いねっていう単なる感想などもあったりして、確かに明るい話題はここのところ少ないけど、僕の考えてることってもともとそんなもんだし、精神が鬱屈して放射能が心配で夜も眠れないなんて事は無いので、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ。書けば書くほど説得力ないかもですが、僕はとても元気です。笑

ただ、僕が今、本気で受け止めようとしているのは、今までにないぐらい、自分の考えと自分の生活とその行く先が連動している状況があるってことぐらい。今まで普段考えてきたことって、大体のことは自分の生活にダイレクトな影響が無いことの方が多い。まあ日本がそういう社会になろうとがんばってきたってことだと思うけど。よくわかんないけど、幕府の悪口を言ったから打ち首になるとか、戦時中にあったような命を揺るがす決断なんて、普通はそうたくさん欲しいものじゃない。

でも、ここにきて、放射能のこと、お金のこと、法律のこと、みんなそれぞれが生きる指針のこと、なんでもかんでもが、結構な近距離で動いていて、見過ごして良いことももちろんたくさんあるけど、視界に入ってこれだと思えばばしっと押さえないと自分の生きていく指針が定まってこない、ぐらいの状況がいきなり始まったって感じがします。なんとなくですが。

上の写真は、少し前に行った今治の漁港にあった生活の道具。市場が終わってからは、おばあちゃんたちがこの荷車を押して魚を売り歩いている。荷車の上がまな板みたいになっていて(荷車の右側に乗っている板がそれ)、売れた魚はそこでおろされてたりしているみたいで、魚の内臓と血まみれの包丁を乗せたまま、おばあちゃんが押して歩いていた。今治もまた、独特の進み方をしているなと思いました。

食べるについて

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今までも食にまつわることは色々書いたのだけど、もう少し膨らませていきたいので、気になることをまとめてみました。写真は最近の僕のごはん。このページでもう少し大きく見られます。

灰汁について。灰汁ってとるもんだとずっと思ってましたが、ここ最近の自炊生活で、灰汁って美味しいなと思うようになりました。普通に食べると駄目です。えぐい。なのですが、1日2日とおいておくと、そのえぐみがじんわりしてきて、すごく良い。全部の食材の灰汁が美味しいかはわかりません(ものによっては毒があるとも言われてるみたい)が、ごぼうの灰汁は美味しいです。きんぴらとかお味噌汁とか。火を通したばかりの、できたてじゃなくて、ぜひ試してみてほしいです(特にお味噌汁のできたては、美味しくないので要注意)。まあ、僕の好みが偏ってるっていう可能性は多いにあるので、ちっとも美味しくないじゃないか!って人もいるかもしれませんが、怒らないでください。

あと、友達に教えてもらった重ね煮というのが手軽で良かったです。食材の陰と陽を意識した養生料理だそうです。陰とか陽とかってなんだよって思う方もいると思いますが、なんかそういう印象とは違って意外にも、理にかなってる感じがします。僕はしばらく試してみようと思っている感じです。

乾燥とか発酵とか焙煎とかのわりと原始的な加工の工夫と、砂糖とかお塩とか油とかを使う調理的な工夫以上に保存が利くやり方はとりあえずいらないんじゃないか?それを真ん中にするだけで、仕組みは大きな変化を求められ、ずいぶんシェイプされると思う。するだけって言っても、すごく大変なんだろうけど。

でも、コンビニの流れそのままで、流れるもの(物も仕事も)をがらっと変えて、結果として手で作るものを売るようなやり方に変えられるとすごいことになると思うんだけどなぁ。

化学調味料の話をすると、気にしている人にとってはタバコの話に近いような印象を抱く人がいる。僕は化学調味料って好きじゃないけど、すごい嫌だとも思わない。あの手軽さはすごいと思うし、アジア諸国を中心に大人気らしい。そんな化学調味料なのだけど、最近きついお店がすごく増えた気がする。僕が変わっただけなのかなぁ。ここのところ、自炊をはじめたのはそれもある。ちょっと敬遠気味な店が多くなってきて、お昼食べに外にでても、外食できるものの中から食べたいものが浮かばない。食べたい味や味付け、具体的な野菜なんかは思い浮かぶのに。だから思い浮かんだ味から追っかけて、食べに行くのと同じぐらいの時間でつくれるものを、身近な素材で作ってるって感じ。

化学調味料のことをもう少しどんな感じか書いておく。1〜2年ぐらい前からかな。きついとこで食べると、あの痛いというかえぐいというかウヤウヤした感じが1〜2日つづく。軽くても昼食べて夜寝るときまで続く感じ。コンビニのおにぎりは口に含むと、もちろん我慢できる程度だけど、ちょっとだけ吐き出したい感じがある。これは随分前からあったが、前はそうじゃないのも多かったし、外のおにぎりはそういうもんなんだろうぐらいに思っていた。あの匂い、なんなんだろう。

まあ、何でもそうなんだけど、例えば「これがオレンジのジュースよ」と言われ飲んだ飲み物の味は、オレンジのジュースとして覚えることになる。でもオレンジの味と、大体のオレンジジュースの味は明確に違う。テレビの中の人と現実の人がどちらも人だけど、前者は人が映っているだけで厳密には人ではないということと同様に。

覚えることと、実際に感じることの差をはじめから無いものとして付き合ってると、本当にわからなくなってしまう。みんながみんなこういう種類の認識の仕方をどこかではしていて、気がついているものの気にしないとか、そもそも気がついていないとか、色んな状況を生んでいる。例えば、木調と木とか、陶器と樹脂とか、スピーカーからの音と本当の楽器の音とか、マイクの声と人の声とか。人と話すのにはこの差を厳密にしないってのはすごく有用な(というか、厳密にすると話にならない)のだけど、そこを自分の中でも埋めちゃうことに対しては意識を持っていたいなと思う。

そんなこんなで、化学調味料の入っているものは絶対食べないぞ!なんてのは無理だと思うし、わりとおおざっぱな僕は少なければたぶん気にしない、というかたぶん気づかない。そのぐらいの範囲で使っていけば良いんじゃない?って思うかな。まあ自分では理由が無い限りは、使わないようにしようと思ってるけど。わざわざ選ぶものじゃないとは思う。

ビタミン剤とかの薬というかサプリメント、僕はあまり良くないと思っている。もともと薬に頼ることが好きじゃないというか、自分の体調を復調路線に乗せる為のきっかけぐらいの使い方しかしないようにしている。日頃飲む薬も、科学的なものよりは丸薬みたいな昔からある薬とか漢方っぽいものを飲んでいる。僕と薬がそのぐらいの距離感なのもあるけど、色んな本を読んだり話を聞いたりしていて、やっぱりそうだよなと思ったことがある。

例えばビタミンEが肌荒れに利くっていう効能があるとする。ビタミンEを摂取すると肌の状態が良くなるってことだけど、普通の流れでいうと、かぼちゃを調理し食べると、消化をしその過程で必要な栄養素を吸収し、排泄する。この流れの中には大切なことがたくさん入っているけど、ここでは「ビタミンEが肌荒れに利く」っていうことと比べられるようなところだけを取り出して考えてみる。

簡単に言うと、必要な栄養素を吸収する、というところがそのあたりに該当すると思うけど、このときの吸収っていうのは、ただひょいと取り出しているような行為じゃない。僕は詳しく知らないけど、口・食道・胃・小腸・大腸と食べた物を通す中で、消化液とか菌とか運動とかまあなんやかんやが、食べ物を変化させながら分解しより分け吸収したりしている。

この一連の流れにこそ、肌が良くなるっていう結果を生んでいる現象が含まれているのだと思う。もし単なるビタミンEで単なる肌荒れが治るんなら、もっと効果が出ててもおかしくない。全体の結果としてみれば、利かないとは言わないがまあ利かないようなもんだわなっていう程度だと思う。(僕はビタミン剤みたいなものは風邪薬とセットで飲んだりするぐらいで、そんなに飲んだことがあまり無いから、実感はほとんどないのだけど)

利くときもあるだろうし、そもそも好きずきもある。この話、このぐらいで終わるなら良いのだけど、食べることをせずビタミンEを摂取することをやっているとどうなるのだろうか、につっこんで考えてみる。割と簡単な話だけど、やってないとやれなくなるっていうことだろうと思う。食べた物が排泄できなくなる、なんてことがあるとは思わないけど、あるものが分解できなくなるとか、あるものが吸収できなくなるとか、そういうことは想像に難くない。例えて良いか微妙だけど、自然界の食物連鎖みたいなものを思い浮かべれば、流れが途切れると失われていくものがあり、それはもうものすごい年月をかけてぐるーーーーーーっと一周して戻ってくるぐらいのことなのだと思う。怖いと思うけどな。ポリポリとサプリメントを食べるのって。

以前、食への興味からつながって、辰巳芳子さんの「食の位置づけ」という本を読みました。そこから色々思った、人間の尊厳食育祈り、なんかを書いたのをすこし前に思い出した。食べることってすごいけど、楽しい食であれば良いっていう状況ではないのかもしれません。論っていうほど大げさなものじゃないですが、過食論っていうのも 書きました。こういう話は未だにありえるというか考えないとかもなと思う。

ちなみに、食と関係ないけど、僕は地震以来、祈りっぱなしです(お祈りしてるわけではないです。たまに弱まる)。抜き差しならぬ状況では、例えたり、比べたりしている場合ではないのかもしれないとも思う。

生きていくについて

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この頃、時間ができるとよく考えるのは、これからの生きていくについて。まあ、いつものぼんやりとしたアレです。2ヶ月分ぐらい。

ここのとこ、お手軽料理をちょいちょい作って食べてるのだけど、ニンニクと胡椒は使わない方向でやってる。これなかなか良いです。大学生時代につくってたころは入れるのが当たり前ってなってたけど、んなこたない。自炊されてる方にオススメしたいす。入ってても食べられるし美味しいものもあるけど、無くて美味しいものも日本には多いと思う。素材そのものの味は美味しいのだけど、か弱いものだと思う。

日本酒にしろお味噌にしろ、現状を思うと、ずいぶん遠回りをしているなと思う。遠回りをしたあげく、醸造アルコールだとか化学調味料だとか、大型スーパーだとかネット販売だとか、ちっとも良くない。せっかく積み重ねてきた智慧や経験、技術をなぜやめて、なぜこういう薄っぺらいものに変えてしまったんだろうか。誰も望んでなかったろうと思う。実際、はじめにこれを目指して、化学調味料をつくった人はいなかったろうと思う。これ、なんなんだろう。

でも、こういうのって、やってみたからわかるっていう種類のものだとも思う。わかったなら、少しずつ戻すというか、折り合っていかないと、大きなものを失っちゃうんだろうな。

本当のことを言えば、あんなに身近であんなに美味しいものは無いと思う。飽きちゃったってことなのかな。しかも今でさえ、あんなに安く買えるってすごいですよ。人気がなくて売れないから安いのかな。

中国に華僑ができたような動きをできないものか。

少し前、知人と飲んで話をしていたのだけど、中国でいう華僑みたいな動きをやれないと日本は厳しいんだろうと思っている。とはいえ、華僑の方たちはちゃんとその土地の生活に馴染む手法と努力でがんばった。僕らに同じようなことができるかと思うと、難しいのかもしれないと思う。

全くの新しい土地で新しくはじめるには、違和感無く受け入れてもらうことが大切。僕が思うのは、華僑の人たちがそうだった(んじゃないかな)ように、その土地のものでつくった料理を提供することからはじめると良いのじゃないかということ。で、ありきたりな言葉で言えば、プライドがあるとそういうことがやりにくいものだと思う。

僕が高校生の頃、旭川の川辺の緑道にあるベンチに座ってぼーっとしていると、おじいさんが一人やってきて、僕の横に座った。おじいさんは、食費が1食50円であること、それはうどんであるということ、年間節約賞みたいなもので県庁から表彰してもらったことなどを話してくれた。(そんな賞があるのかは定かじゃないけど)

話は変わってまたその昔、小学生中学生ぐらいの頃、僕が住んでいた家は、3人住まいで家賃が6000円だった。家で食べる分の食費は20000円ぐらいとおばあちゃんに聞いたことがある。光熱費は10000円ぐらいだったのだろう。あわせて40000円に満たない。

こういう生活を思うと、今の僕の暮らしは随分と贅沢なことだと思う。でも、その当時の僕は特に不便などなかったし、夕食の支度の手伝いも楽しかった。小公女セーラとか日本昔話とかなんやかんやとテレビを観たり、机は無かったけどねっころがって勉強もした。できないことはたくさんあったけど、幸せだってたくさんあった。僕はいわゆる贅沢な暮らしができるほど裕福ではないけど、特別な倹約家でもない。ただ、今の僕の生活を、昔のようなところに落ち着けるのはやはり難しいような気がする。何でだろう。

実感と違う、ねじ曲がった認識が数多くある。今、特にねじ曲がってることの原因は効率やお金にある。

戦争すると儲かるとか、経済が大きく動くってよく聞きます。あれ、経済的な影響は確かに大きいのだと思いますが、何となく大きな話だし専門的っぽいからよく考えずに、そういうもんだ、と思ってる人は多いと思います。僕もそうでした。でも、ちょっと前に、ふと思いました。あれは、大きく動いてはいますが、大きく失ったものを補填する為に、未来の大きなお金をあてがっていますよね。つまり、実際はちっとも良い動きを生んでいない。そんな風に、みんなでちゃんと否定できないと駄目だなと思いました。

家は借りるより買った方がお得ってよく聞きます。これ幻想に近くないかな。貸せる人はとてもとても裕福で、経済面だけでみれば慈善的な行為になっていく可能性もある。なぜそう思うか。二つある。

一つはこんなに大きな存在である土地や建物を所有する人が、ある種の責任を背負わないなんてちょっとおかしい。責任というと少しニュアンスが違うのだけど、難しいが例えてみると、自分の目が届く場所というのは自分がそこにいること、もしくはそれに近いことで、そこに自ら手がかけられるのにかけないのって何がしたいんだろうなと思っちゃうという感じ。手や目の届かないような物件を所有して、誰だかわからない人に貸すよりも、この人が好きだって人に貸して、その人と生きていくのなら、とても面白いことだろうなとは思う。

二つめは、今ある家の数はたぶん人の数を上回っている。社会としてどんどん新しく家を作ることについて、人の仕事をできるだけ生まないような、今の家の作り方になんか良さがあると思えない。そうじゃない家もたくさんあるから、そういうのはがんばってほしいし、そうやって建てられるなら自分の家を持てば良いと思う。特殊な技術が崇められるような話ではなく、みんなの生活の一部(仕事)をつかって、自分の家を建てるという当たり前のことをやれるならという意味で。

これは結局1000万円で立つ家なんておかしいってこと。よーく想像してください。手で建てる家をつくるのに5人で半年かかるとして、1人あたり半年で200万円しかもらえない。材料費が半分なら給料は100万円。ひと月で16万。大工さんは若い人から年配の方までいます。妻子がいる家庭が16万円で成り立つかな。若い人をもっと安くしたところで、偉い人だけ30万円にするのも結構な遠さ。材料費が高ければ、もっと遠い。こういうことを思えば、建物分だけで3000万円ぐらいからが妥当な金額なんだと思う。しかもローンじゃなくて。そのお金が無いんなら、建てなくっていいと僕は思ってしまう。なぜ自分の家がほしいのか、をよく考えてみると良いと思った。家賃、しんどいけどね。でも、しんどいけど良いんじゃないと思うかな。

時代は進んだ。時代は変わった。だから時代遅れだ、っていう捉え方。だいぶ危ういと思う。確かに時代は進んでいる。その進んだ先に生まれた、時代遅れっていう考え方。これのもとは自尊心とそれを保持したい気持ちから来ていると思う。それは、色んなものをなぎ倒す、言ってしまえば甘えなのだと思う。

エネルギーがどうの、経済がどうの、法律がどうの、便利がどうの、そんなことは何のことでもない。僕が僕の家族が僕の友達が、幸せに生きていくことだけに注力すれば、そんなことは何のことでもない。いらないものは多過ぎると思えるが、多くたって良い。何のことでもないのだ。

給与をもらっていると経費っていうものを理解できない、と言っている記事をみかけた。これを別の対象で言うと、経費をじゃんじゃん使ってるのは税金を理解していない、これと同じじゃないのかな。稼いだり使ったりするのは、結局みんなのお金でしょう。経費に計上したお金は、誰かが収めた税金が回り回ってあてがわれてると思うのだけど。まあ、だからあらゆることに仕分け(この表現嫌い)をしようなんて思わないけど。切り口のおかしな話だなと思ったというだけです。

いわゆる有名な、頭のはっきりした人たちが、誰も行ったことの無いところへ、とか、誰も観たことの無いものを、とか、本当の贅沢がどうの、とか、そういう言い方しかできないのは、本当になんというか、もっと違うことを言えば良いのに、と思う。そんなとこで止まっちゃいかんし、そういうことを促してはいけない。有名な人がそう促したとき、「誰も観たことのないものをつくれればあなたの人生は間違っていないのですよ」って感じてしまう人は多いと思う。「ああ、間違っていないんだな」っていう実感は、ある問答というか、手軽なやりとりの中から生まれることはなかなか無いものだと思う。間違っていることや、わからないってことが辛いことだとは十分わかってるけど、その辛さを落ち着いてながめてみれば、辛いのは嫌だけど、どうして辛いのか、や、辛いとどうなるのか、を考えるきっかけにちゃんとなってくれる。辛くても、死ぬまでは生きるようにできていると思う。

僕もすごい不安を感じてる(たぶん)。でも、未来像なんてまったくないけど、超絶に明るい未来がぼんやりいつもある。これは、僕が健康であることや、生きているってことがそう思わせてくれていて、こんな僕はほんとうに有難いことであるな、と思う。なので、ぼんやりと超絶がんばる。それで良いかな。

こういうことを書くとたまに勘違いをされるんだけど、日常的なこと、人生に深く関わる問題は僕にだって山のようにありますよ。大多数の人はそうでしょう。大多数がそうであることこそを問題視したい。少し変だから。

動機が勘違いであることは往々にしてある。それが良いこともあるけど、耳にした程度のことを動機にすると、まあろくなことにならない。動機に思い入れが見出せないなら、やめた方が良い。

テキトーな存在のテキトーな言動や行動を真に受けると痛い目にあう。大手参入、とか。

最近こういう話多すぎる気がするっていう、ある種の話がある。当然のことながら僕程度では当事者の気持ちには全く至らぬわけですが、動揺は大きい。

近くの人の大切さ みんながんばれこのやろう

運ってのはある。運命と言っても良いかもしれない。でも、ある運命が巡り合わせによって、このタイミングだけに起こるというような話はたぶん嘘だと思う。起こることは起こるし、繋がるものは繋がる。タイミングは要素の一つだけど、重要ではない。引き金を思い浮かべるからおかしなことになりやすいのだけど、そういう意味では引き金なんてとうに引いている。僕らはもう、ある地点に向っている。が、ある地点は決まってるようなもんじゃない。

「何で生きているんだろう?いつ死んでも、もうどうだっていいや。生きる意味なんてないよ」と誰かから言われたら、僕は「本当に殺しそうなほど憎い誰かがいるの?例えば僕を殺したい?」と聞きたい。

自分の生きる意味を僕に問うこと自体が、僕が生きていることの意味の無さを主張し、あなたの言う「僕の意味の無い生」は状況次第では奪っても平気、ということに近い。話しかけている僕に対して、殺してやりたいなどとは当然本人は思っていないだろうけど、あなたのそこにあるものも、僕のここにあるものも、状況や状態は違うけど大切なもので、軽々しく生きる意味なんて無い、とか言っちゃいけない。そう思っていることは、半ば殺人犯を応援しているように、僕には聞こえる。

とかいいつつも、生きる意味について、僕は無いと思っています。ただ、意味が無いからどうでもいいってことではなくて。意味が無いけどとても大切なもの(これは表現的に軽いしニュアンス違うけど)。

純粋なことしかネタ帳に書かなくなったような気がする。純粋なことっていうのは、僕にとって特に切実なこと。ここに書いてあるようなことは(悪いって意味はまるでないけど)不純なのかもと思った。

このタイミングで、僕のこの状況は有難くはある。が、反面、遠ざかっている感じもしている。こういう経験をともにできないのは、後に何かを起こすんだろうな。それはそれでしょうがないのだけど。とはいえ、進まないというわけにもいかず、進むだけなのだろうとは思う。

馬鹿なことは好きだけど、ブロッコリーは食べ物で、食べ物を粗末にしてはいけない。そういう感覚はないのかな。大量消費的にうまくいった実感は、こういうことをわからなくさせるんだろうか。平気で捨てるし、扱いはひどくなる一方だろう。どんなに捨てていても見直そうと思わない。お金の都合に振り回され過ぎ。もっと違った馬鹿なこと面白いことはできるだろう。あと、お金を中心にするから捨てるなんて方法が出てくるんじゃないのかな。

情報に差があるなんて普通のこと。格差なんていう表現に驚くことも、それに焦ることも、必要無いと思う。僕が気になったのはどちらかというと、刑務所では見せないものを子に見せていることの自覚について。駄目ゼッタイとは思わないけど、引っかかるものがある。

木ゝ 〇一

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3ヶ月くらい前、木で木をつくろうと思いました。

毎日少しずつ 朝のラジオ体操のように繰り返し 製材された木の直方体を思うまま もくもくと 削り続けました。

経緯を書くと、まず木を買って、しばらくして切り出し小刀を買い、またしばらくして彫刻刀を買い、またまたしばらくしてからようやく何をつくるかが決まりました。

まず木を買って、に至るまでのことも色々あるのですが、一番古いところを言えば、僕が幼稚園に行く前。うちに納屋を建てるため大工さんが通っていました。そのとき、木の端材をもらい、マイナスドライバーを石で打ち、大工さんの真似をしていました。

途中は長いのでごっそり端折りまして、一番近いところ(今の気持ち)から言うと、電気からできるだけ離れたところ、僕エネルギーで成り立てるところで、今の僕ができる表現でありたい、と思いました。

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削っている最中には、色んなことを思いました。この小刀はどうやって作られてるのだろうか、とか。この栗の木は製材されるまでに、植えられ、生き、育ち、倒され、運ばれ、乾燥させられ、運ばれ、切られ、運ばれ、運ばれ、値札を貼られ、棚に置かれ、僕の手に渡ったのだろう、とか。栗の実ってやっぱり栗の木に似てるんだな、とか。僕の手は随分固くなってしまっているな、とか。いろいろと。

電気無くして、僕はこの木を持てなかった。でも、それでも、そこからやれることをやってみたかったのです。本当を言うと、昔話で和尚さんがやるような、水で石を削るようなものをつくりたかった。もう少し詳しく言えば、なでて形をつくるようなものをつくりたかった。でも、今の僕にできることではないと思った。さらに、今の僕に必要なのは、決めることだとも思いました。なので、やることを決め、形をつくろうとやってみた、という次第です。

これは僕にとって、とても大きな発見でした。これは、続けてやっていきたいと思いました。

これから色んな形をつくっていくことが楽しみです。

この話は、また違う形でも広げていく予定なので、またの機会にご紹介したいと思います。

自由と人参

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前に一度、自由について書いた事があります。みんなが自由という言葉をどう使っているか、というような話だったのですが、また少し考えられると良い気がしていて、小林秀雄さんの話の中の、人参のことから自由について書いてみます。

小林さんがその当時のタケダ製薬の研究所の所長さんから、ニンジンについて聞いた話。昔の人はお腹が痛くなるとニンジンという薬を飲んでいたというのです。このニンジンは高麗人参や朝鮮人参、オタネニンジンと呼ばれる、漢方で扱われるニンジンです。ニンジンの効能は「主として五臓を補い精神を安んじ、魂魄を定め、驚悸を止め、邪風を除き、目を明らかにし、心を開き、智を益す。久しく服すれば身を軽くし、天年を延ばす。(古典における高麗人参の効果)」という、まあ薬膳的な表現ですが、薬剤の効能として聞くと大げさだと思ってしまうような内容です。

このニンジンから、お腹の病気に関する薬が2つつくられたそうです。一つは下痢を止める薬、もう一つはお腹を下す薬。ニンジンにはこの2つの効果を持った成分が含まれていたのです。(それ以外にもあるんだと思いますが。)

この発見のおかげで、今では、お腹を下そうと思えば下剤を、下痢を止めたいと思えば下痢止めを飲みます。

では、この2つの薬ができる前はどうだったんでしょうか。お医者さんにかかるとニンジンが処方され、下痢の人は下痢が止まり、お腹を下したい人はお腹が下った。漠然と結果だけを想像するとこういうことなのですが、それほど簡単な話ではありませんね。

お腹が痛いとき、お腹を下した方が良いか、下痢を止めた方が良いか、どちらが良いかは、お医者さんにも確かなことはわからなかった。でも、当時わからなかったはずなのに、お医者さんはニンジンを処方した。その結果、患者さんの体調は良くなったと。

どちらが良いかわからないのにどうして治るのか、というところに人間の智慧というか経験というか、そういうことが現れています。どうして治るかと言えば、自分の体が飲んだ薬を受け入れ、状態が良くなるように作用をしてくれるからです。そういうものだった。そういうことを人間は積み重ねてきた経験から知っていた。ということです。

この話から、今の僕らのことを思ってみます。下痢をしたとき、下痢を止める薬を飲みますよね。それでも止まらないとき、違う病気かなとかお医者にかかろうかなとか考える訳ですが、仮に、下痢を止めたいのに下痢止め薬を選んで飲むことができない場合、僕らはよく、不自由なことだと思います。自由であるおかげで、薬を選び買い、飲むことができると思っているのです。でも、この気持ちによって、自由が向う結果へちゃんとたどり着いているんだろうか。自分の気持ちや権利みたいなものだけを尊重し、飲んでも利かなかったという悪い状況を招くこともあるわけです。もちろん昔の人がニンジンを飲んで必ず良くなったかはわかりません、というか絶対治るなんてことは無いと思うのですが、薬を飲んだからかもういいやとか、全然利かないからヤブ医者だとか、普段よくあるこういう気持ちを抱く状況の、どのあたりが良さなのか、と考えると本当によくわからないなと思ってしまいます。

少し難しい表現ですが、僕は、ニンジンを飲んでお腹が治るっていう結果にたどり着くような状況をきちんと持てていることこそ、自由なんだろうと思っています(願いが叶うという意味じゃないです。治らない事もあるわけだから)。このとき、人は何を信じるかといえば、ニンジンを信じています。ニンジンを分析した結果の効能を信じているわけじゃないのです。言葉で追求して行けば効能を信じる事になりますが、それはニンジンを信じていない。ニンジンがお腹に良いという昔からの経験を信じずに、どこに自由を思うのでしょうか。(ちなみに、前にも考えた事があるのですが、この経験の集まりは僕らの心だと言えると思います。)

色んなことを明らかにしようと思う気持ちは、とても良いことだと思います。ただ、全てのことに意味らしい意味とか、理由らしい理由をつけてみても、どうやっても完全にはわからないのです。(とはいえ、僕らが話をするとき、意味や理由は大切なことの1つです。ちなみに、わからないんならやらないってのは、意味に捕われすぎていると思えます。)

わからなくても僕らはそれらと付き合っていく事ができるし、それを掴む事だってできる。そういう僕らのご先祖が今まで培ってくれていたことがたくさんあって、それを知ったり思ったり信じたりすることがどのぐらい大切か。もう少し個人的な範囲の小さな実感で言うと、歩ける事、物を持てる事、字を書ける事、自転車に乗れる事、もっとたくさんありますが、こういうことができるのは、練習したからできるようになったわけじゃなくて、僕らは僕らの体の性質を掴んで、それを行うことができるようになっているのです。この感覚は、とても大切だと思うのです。こういうのはとても難しいことだけど、人生の中でなるべく多くの事に対して、そういう意識ができるように生きていけるなら、そんなに面白い事はないと、僕は思っています。

学生さんエネルギー

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原発を使わない方向へ進むための、代わりのエネルギーを色々考えていました。

僕は以前から学生さんが社会へスムーズに合流することについて気になっていて、大学に行く前にどこかで働くっていうやり方が主流にならないものかと思っていました。2年ぐらい働いてみれば、その後の大学生活ももっと幅がでるというか、何か良さそうって思っていたのです。学費も稼ぎやすかったり。

この話から繋がって、学生さんのそういう行為からエネルギー(的なもの)をつくれないかと思い当たりました。端的に言うと、彼らにも働いてもらおうという話です。

社会勉強的な課外授業を取り入れている学校は、今やたくさんあると思います。でも、色んな授業は今まで通りやるのが良さそうと思うので、授業でそういうことを増やすんじゃなく、部活動の時間に組み込めないかと思いました。

すごく単純なところだと、彼らの筋トレを発電に使えないかとかもありますが、もっと電気からも離れて考えられると良いと思っています。携帯を使った文字入力内職みたいな仕組みで計算勉強を経理に使えないかとか、パンの生地をこねるとか、店内掃除するとか、酒瓶を運ぶとか、リハビリ手伝うとか、荷下ろしするとか、お店を盛り上げるとか、うどん打つとか、車洗うとか、ビスの仕分けとか、まあ何でも良いです。仕事はたくさんあるのです。ポイントは、電気を使って便利にやれてることを学生さんエネルギーを使って手で行うっていうところ。それと、より良さそうなのは、本業(サッカー部ならサッカー)は変わらずやれる範囲で、基本的にはチームワークを養えるような物事が良いかなと思っています。最低でも2人チームぐらいで取り組むような。あと、手伝う内容は選べない。給料はないけど、現物支給はする。なるべく定期的に関われる。そんな感じを想像しています。

少し話が飛びますが、よく、魅力ある地域をつくろう!って言って、皆がどこかにいってしまわないように考えまくっていたり、地域の魅力を集めまくってる人たちがいますが、自分の知り合いで想像するとちょっとおかしい気がするって思います。例えば、いっつも自分が中心になることを考えている友達がいるとして、彼が「皆にここにいてほしいから、皆とどうやって関わっていくかを考えてるんだ。お金は用意したし、場所もある。」、なんていうようなことを皆に話しかけていたら、どうでしょうか。そんなことしてたら逆効果じゃない?せめて頭の中で考えなよ、って言いたくなります。むしろ言います。

僕は、自分が面白くやれること、できれば楽しくやれることをやっている人がいる場所をどうやってつくっていくかが真ん中へんにあると良いと思っています。そういう人をみて、あの人みたいになりたいなんて思わなくて良くて(良くてというか、思わない方が良いのかも)、身近にいれば吸い寄せられて、その中で何かに触れることができるのだと思います。そういう経験が若い時にできるとしたら、すごい良いなと思うのです。

社会との繋がり方で大切なのは、繋がり(接点との関係性とでもいうかな。家業だとか、友達のお店だとか)と思い入れと手応えだと思います。繋がりや思い入れは、普通に暮らしていれば色んな活動を通して実感できる事が多いのですが、手応えというのはとても難しい。でも、良いのも悪いのも、それがあれば自分が進んでいけるきっかけになります。パン屋さんの手伝いをやっていて、うまくいっている実感を持てた子がいれば、その子は家でパンを焼くようになるかもしれない、またパン屋さんを手伝うかもしれない、自分でパン屋をやるかもしれない。もちろん、その手応えだけを頼りに、それそのままを感じられる方向で生きていかなくても良い。手応えがあったかなかった、その経験だけで十分な経験なのです。

この話、競争や強制とは少し違うと思っています。でもある面でふるいではあり、そういう意味では競争ではありますが、そのぐらいの、何というかな、決まっているけど決まっていないみたいな感じで良いんじゃないかなって思うわけです。

こんなことやると、大人の僕らの仕事が減っちゃいますかね。難しいもんですが、追いやられないようにがんばればいいんだと思ったり。無理かな。どうかな。

 

あと、学生さんのことから話は膨らみますが、色んな人の感性に訴えるようなことを生業にしている方が、地元で活動できるような仕組み、もっと言うと、地元でしか活動できないような仕組みに変えちゃうのはありかもと思いました。音楽も絵描きも詩人も美術家も料理人もすべて。人の集まっているところへ、彼らが出ていく仕組みになっていますが、逆になるよう努力する。昔の環境だとたぶん無理だったと思います。でも、今の便利さと組み合わせると、割と上手くはまりそうな気が何となく。スピッツを聞きたければ、静岡とか福岡に行けば良い。観光をむりくり成立させようとするよりは、その方がよっぽど良い気がしました。

 

で、いきなりですが放射線量のお話を少し。避ける事を生活の大前提にする場合、数字の多寡はもはや関係無いと思っているんですが、東京で暮らす事を前提にされてる方は結構数字を追っかけていると思います。なのですが、ちょっと誤解してる気がして。僕が色々見た中で総合的に考えるとこんな感じじゃないかと思う(なので、予測というか仮定というか、まあ想像です)っていうのを書いておきます。

日本平均放射線量は1.5mSv/年って言われてる。でも環境中の線量の過去実測を見るとそんなにいってなかった。ぱっと見0.3mSv/年ぐらい。0.3mSv/年の内訳は大地・空気・宇宙の3つ。とすると、それ以外の1.2mSv/年は飲食から受けているってことなんだと思う。つまり、今みんなが測ってる数値と、参考にしてる平均放射線量は内訳が違うっていうことです。平均値の方は飲食した分も含まれているはずです。

世界の平均値は2.4mSv/年らしいのですが、実は日本でも2.1mSv/年ぐらいなんじゃないかっていう平均値もあるそうです。あと、僕が参考にした図とは違うけど、このページにも似たような数字がありました。僕の見た実測とは食い違うけど、こういうのもありました。(こっちを信じるなら、僕の書いてる数字はあまり参考になりません。)

ちなみに、0.3mSv/年は0.03μSv/時です。東京でもそういうところはまだ多い。でも、今月に入ってから杉並とか三鷹みたいに、0.1μSv/時を超える所もあります。世田谷なんか0.2μSv/時を超えてたりした。杉並三鷹世田谷でこれだから、僕らが食べる食物の多くを作っている北東方向の地域を思うと、以前の数値だった飲食分1.2mSv/年がどんだけ増えるんだと思っている。

ここからはさらにかなり憶測の値だけど、普通の環境にある0.3mSv/年のうち、食物に関連しそうな線量は0.1〜0.2mSv/年。あまり考えず間をとって0.15mSv/年で考えるとすると、0.15mSv/年の線量が1.2mSv/年を生じさせる元と仮に考えると、すごく単純にいえば、0.05μSv/時×365日×24時間に、1.2÷0.15=8をかける。0.05μSv/時の地域の食物を食べてても、3.504mSv/年っていう数値になります。0.2μSv/時の地域の食物だと4倍なので14mSv/年。0.5μSv/時の地域の食物だと10倍なので35mSv/年。この比率や数値が正しいかどうかは相当怪しいとは思います。そもそも影響があるのかどうかも医学的には誰にもわかりません。ただ、以前は0.3だったものが今や2倍3倍10倍20倍になっている場所があるってことを、個人個人がどう評価するかっていう状態だということは考えても良いと思います。

なお、世界には10mSv/年っていう地域もあるそうです。そのうち、どのぐらいが内部被曝なのかは定かじゃないですけどね・・・。でも、そこで生活してるってことはある安定が土地と人の間にあるということなので、そこが特別なのであって、10mSv/年は誰でも大丈夫っていう考えはだいぶ怪しいと思います。

あと、こういう怖いっぽい数字に対して、僕は必要な限り食べようと思っているのでアレなんですが、輸出する食品から国内の食品と同等の数値が出たら、それはもう大変な事になる気がします。ものすごい厳しい決まりと罰則が待ってそうな・・・。それを食い止めたいのですが、国内ですら、偽装に似たようなことが起こりそうで止めようもないのに、どうすりゃいいんだろか・・・。

 

最後に電気のこと。一般家庭が1日で使う電力を、人力発電(自転車の前灯タイプ)で賄うには、自転車を525時間こぐ必要があるそうです。消費電力を1/500にするのはすごい難しそうだから、例えば一般家庭の範囲を5倍に増やす(つまり5家族共同で使う)とどのぐらい節約できるんだろう。仮に半分ですむなら、250時間分。節電でまた半分にできるなら125時間分。5人でこげば徹夜でこいで賄えます。徹夜は難しいけど、そんな方向に向う暮らし方もあって良い気がしました。あとは、何でつくるにせよ、本当の電気の値段はもっと高いものなのかもしれません。色々やった結果、今ある値段よりは随分高いという結果もありえるのだろうなと思いました。

電気を作る仕事をつくる

 

食べる 食べない 飲む 飲まない と、また雑感

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この前、友達と話をしていて気がつきました。自分を変えず細かく気にしながら生きるか、なるべく気にしないでいられるよう変わる努力をするか、のどちらかをやっていくしかないのかもなと思いました。

僕は後者でやっていきます。まず僕の立場を考えました。成人男性。健康です。妻子はありません。進んでやるというわけじゃないけど、こういう傾向で過ごしていこうと思っていることがあります。

僕は、東の地方で作られたものを飲みますし食べます。

僕は、西の地方で作られたものを飲みませんし食べません。

これは放射能のことを思うと逆行していますが、そうしないと成り立てない社会があると思って、こういうことを考えています。

悲しいこと辛いこと、今回は色々省いて、生活のことに焦点を当てます。日本は多くのお金を失いました。その上、放射能の影響で、これからお金を稼ぐ手段は以前よりも限られてくるのでしょう。外国に物を売ることの難しさは相当なものになるんじゃないかと想像しています。物が売れないなら、海外で仕事を完結させて儲けるか、技術や知識、データなんかを売るしかないのですが、みんながそれに従事できる訳も無く、売るしかない人の物は僕らが買わないとやっていけないんでしょう。そこで、極力危険の無いかたちで物を売ってもらうには、ごまかさせないことが必要です。買わない要らないって言っていると、伝言ゲームをきっかけにしたごまかし(勘違いもある)が必ず起こります。それを如何に起こさせないか、正直にやっていってもらうかというのは、買う側が一歩前に出て、買うからちゃんと話をしようという姿勢がとても大切だと思います。それでもだます人はいると思いますが、そういう人ばかりじゃない。それもまた間違いないです。

ごまかしが起こるとどうなるかについて想像してみます。加工食品で全国流通している製品ってたくさんあります。どこで作られたかによって健康に害をなすかどうかが決まってくるという話もあるので、今までもあったような、つくられたのは東だけど詰めたのは西で、それが東に運ばれて西の物として売られるような状態になるかもしれない。売れるためならそういう手段もあり得るんでしょう。まともな判断だと東で物がつくれないという。企業は全部難しい課題を負うことになります。特に大きい企業は、たくさんのものを効率よく動かす能力があるので、せっぱつまればそういう選択を選んでしまいがちだと思います。

また、一概には言えないことなのだけど、地元を遠く離れて暮らしたことの無い方が実感していないことがあります。採れた地域から遠く離れられない食べ物があるということ。これは、逆に言うと、近くの物を食べているということ。この流れから逃れることはなかなかに難しい。東にいれば東の物を、西にいれば西の物を食べる機会は多いのです。

 

ここからはもっと雑多なお話です。昔に書いたことから膨らんだこと、この頃思った脈略がありそうななさそうなこと、つらつらと。

少し、ぼんやりした気持ちの話をします。僕は、確率の話を%の大小のみで判断しないことが必要だと思っています。10%発ガンする可能性がある、というのはあるってこと。まあ、発ガンするもんだと思うのです。でももちろん、無いってこともある。

無いからいいやとか、あるから怖い逃げなきゃとか思うのはちょっと違っていて、あるから怖いけど無いこともある、少なくとも僕自身の立場を考えれば、無いことの方が大きい。そう思えるのなら、危険性の高い人よりは僕のような立場の人が吸収していくのが良い。そういう立場であると思っています。そんな風に考えれば、難しいことが一つ減るのです。

こういう話は、本当は面と向って色んな方と話をしたい。でも、あまり動揺させるのも好きじゃないし、僕の意見がマイノリティとか、おせっかいだと強く感じられる方もいらっしゃると思います。僕のこのおせっかい、みんなの賛成反対はどちらでも構わないけど、どうやったらみんなの中にしっかり入って、考えてもらえるのだろうかと考えたとき、なるべく冷静に見られるであろう環境は、文字にして置いておくことだと思ってここに書いています。

続けて、もう少し僕の個人的な今の判断を書いておきます。

僕は関東では子育てをしないつもりです。僕は、必要性があるなら、自分の子と暮らせなくても良いと思っています。一緒にいられるならいた方が良いのは間違いないです。放棄するような意味合いでもありません。ただ自分の子を守りたいとはやっぱり思います。僕や僕の家族の事情で、僕が関東にいる状態だとしても、その事情のせいで自分の子が危険な状況になるのは、やっぱり嫌だ。どのぐらいの影響があるかはもちろんわかりません。変な徒労になるかもしれない。それでも、数字を根拠に何もしないで、問題があったらどうしましょうか。どうもできないんですよね。僕と暮らすがために、その子が死んでしまうなんて、僕は嫌です。

結婚さえしていない僕が言っても、当事者感が無いと思われるかもですが、親とそれほど長い時間を暮らしていない子であったという、逆の実感が僕にはあり(そのときどうだったかはあんまり覚えていませんが)、こんな風に考えるのかもしれません。

結婚して子ができる、っていう幸運なことが、これから僕の人生にあるかどうかはわかりませんが、あると良いなと思いながら。まあ、状況次第だし、奥さんになる人に説得されれば、あっさり変わるかもしれませんが。笑

福島の方々が放射能の対応を国に求めています。基準値もそうだけど、やり方も、それにかかるお金も。これをみて、求めていない人みんなが受け止めることだよなと思った。だって、国が対処するということは、国の税金で賄うってことでしょ。当然そうするしかないと思う。

のだけども、一方で、国が福島周辺全ての人が害無く暮らせるよう手段をとるためのお金を持っているとは思えない。これは税金が無い、つまり僕らにそんなお金は無いんじゃないかというところから思っている。

東京電力を潰してしまえという話も似たような話で、潰すことで何が起るかというと、価値のあった紙に価値がなくなるという事態になるってことじゃないのかな・・・。それは、持っていた50兆円を35兆円にしようってことだと思う。税金が無いのに加え、あったはずのものを無かったことにするのは、やっぱり厳しい。本当を言えば、先送った価値を手元に寄せて、未来の僕らと綱引きをしているだけなのだから、厳しくなるのが真っ当なのだとは思う。なのだけど、お金は無いし、状況も悪い。こんなときに悪かったことを一掃するように無かったことに戻すと何が起るかといえば、細かくは全くわからないけど、日本全国で困る人がたくさんでるんでしょう。僕もきっと生活には困ることになるのだと思う。

上のような状況を考えると、福島の方々はふるさとから離れることを前提に話を進めないと、放射能の影響は受けなくなったのに、最低限ですら生活が成り立たないという状況もあり得るのだと思う。ここで僕が思う最低限の生活というのは、税金で整備する教育は受けられるがそれ以上は独学をもってやる以外にない、ぐらいの生活を思い描いている。娯楽はもっと身近でやっていき、観光を促しそれを受けないと食べていけない社会の構造も変えないとぐらいに思っている。旅行って良いものだと思うけど、やっぱり無理が大きいと思うのです。エネルギーの問題以上に、それに頼る人が出てくるから。そうして流行り廃りで一喜一憂することを基盤にした生活は、どうも困ることが多いように思うのです。

家族同士の喧嘩、基本的には甘えなのだと思う。赤の他人には言わないことで怒ることが多い。甘えられるから怒れる。怒っている方は甘えないように考えてみれば良いのにと思う。その怒りをぶつけている相手はあなたにとって間違いなく、とても大切な人ですよ。

先生に責任取れる?と聞いちゃう子がいるそうです。先生が責任取れるように行動されることで自分がどうなるかの想像も覚悟も無いだろうに。他人にそこまで甘えてはいけない。その発言が甘えと思えないのなら、その言葉はまずせめてご両親に言いなさい。それとあと、この子らの言葉は、先生に向けた言葉ではない。みんなで受け止めないと。

→ 甘えてはいけない、のか / Don’t Rely…?

使わせない方針よりも、僕は断然、使わない方針が良いと思っている。抑制と成長はぶつかりやすい。律することをして進んでいきたい。それがないと、また困ることがあると思います。

→ 律す / Governing Myself

朝鮮人参は収穫まで7年かかり、その後、同じ畑では7年とか15年とか50年とか色々な話がありますが、まあ長期間作ることができないそうです。これは、人参の生長する安定した7年間のうちに、呼ばれた何かとか変化した何か(微生物とか湿気とか)が土地に影響をしているのでしょうね。同じようなことで、完全な想像かつ唐突ですが、花粉症は桜が影響しているような気がしています。ポジティブに捉えられている、ここ50年とか100年で異様に増えた身の回りのもの、というものとして目についたのです。桜のコントラストはなかなか無く、綺麗なものだと思っていましたが、ちょっと派手過ぎるとも。年齢のせいなのかな。笑

ここのところのインターネットの活躍がすごいなと思う。それにつられてゴシップ誌の信頼度もいつのまにか高まっている。全国区の新聞などと比べると、圧力を受けながらも自由に発言しているのがうりだ。でも、印刷されれば数字が正しくなるわけじゃない。ゴシップ誌って何だろうか。自由な発言は本当のこともたくさんある。色んな人もいる。でも、多くの記者は自分の生活のために書いている。中には、良い思いをしたことが忘れられない人もいたりしそう。そこらへんを思い返してみれば、その発言が率直ではあるが足りなかったりすることも想像ができる。この、何が本当かがとてもわかりにくい状況にあって、自分の意見に近い情報をまとめてくれる相手の発見はとても嬉しい。僕は相変わらず鵜呑みにはできないでいる。僕の意見が間違っていることを想定しているせいもあるけど、言葉の使い方は、信頼感をとても左右する要素の一つ。インターネットも同じだけど、個人がやってる方がまだ信頼できることが多い気がする。

不平等や不公平さを生む理不尽さを無くすためには、理不尽でないための理由が必要で、それを見出せるようになるため、人生のケースというかパターンを絞ってきたのかな。

1・2Fにコンクリートの柱がいくつも立っているような建物。

全国に全種類が行き渡らない物っていうのを考えてみれる気がした。岡山県はトースターがなくて、広島県はスリッパがないの。そういう感じ。あったら少し良いなっていうものに対して、無い状態を受け入れる必要がある気がする。

最後に、途中経過を。具体的な数値をキリキリ気にしているわけじゃない僕ですが、全体感というか傾向的なものを把握したいので、いくつかの数値は追っています。GWあたりから毎日見ていますが、ここでは徐々に上がっています。ここだと、松戸・柏・金町とかは高いまま。あと、これも。測り方の間違いとか、何かしらの偶然の結果であれば良いですが、間違えることが少ないと思う全体感から言えば、やっぱり増えていて、流れてきて溜まっているものがあることと一致はしています。

雑感 一生忘れないこと

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ゴールデンウィークに岡山へ帰省した。漠然と心配をかけていた、両親と会い、祖母と会い、兄と会った。僕の家族、それはそれで当たり前に色んなことを抱えていて、そのあたりのことを改めて突きつけられたのもあるけれど、それ以外の僕らの生活、僕の人生、そういうことを向こうにいる間、東京へ戻ってくるときも、ずっと色々と考えた。一つはっきり気づいたことは、遠くに行くとずいぶん緩むということ。行ける人は行った方が良い。本当に。

遠くに行ったとしても、日本の東と西程度。自分の関連するエリアじゃないだけで他人事のように思うのは、やはり気持ちが遠くにいる。情報というものが細かくなったせいもある。東日本としてやばいなと思っていても、まだまだ狭いと僕は思う。あと本題とは話がずれるけど、頭の中で、地震津波のことと、原発のことが混ざるのには少し困った。影響はもちろんあるが、そこを繋げて考えることと、繋げて考えちゃいけないことがあると思った。

本題の、一生忘れないこと、について。

誰かのことを他の誰かがやる、そういう支えあっている状態、その中でそれぞれ皆が何かの役割を持つことはとても大切だと思う。でも、役割さえあってそれをやりさえすれば良いということはない。誰かが嫌だと思うことが生じることを考慮せず、便利さを追求するのはどうにも性に合わない。原発の話で、はじめから僕が一番気になっているのはそこのこと。廃棄物をどこにやるか、これはとても大きな問題だけど、それすら遠い。今です。今。今、みんなが嫌なものに対峙している人たちがたくさんいる。福島以外でも。そのことについて、健康を保つための基準値を設けて、そこまでは働いていてくださいだなんて話は、どうにもおかしい。引退した方々が若い人にはさせられない、そんな活動を見て、勇敢だとかあり難いと思うだけじゃやっぱり遠いまま。老い先短いから命が軽いなんてことを平然と受け止めては駄目だ。僕はそういうことを人に頼みたいと思わない。都合が良いことは誠実さの真反対にあって、誠実であれば自分にとっては都合が悪いことなんだと思う。僕は誠実にありたいと思うから、僕の都合が悪くても一向に構わない。

このあたりから話は難しくなるのだけど、じゃあ、今すぐ行けば何か解決するのか。仮に僕が行って現地で働くことになっても、親族から仕送りをもらえるようなバックボーンがあるわけでは無い。世界では戦争があるからといって、僕が出かけて行くなんてこともないし、できない。誰かの辛い日常を目にし、それに対して辛い気持ちを感じたとしても、直接やれることは少なくて、やはり距離や関係が近いものに携わっていくしか無い。みんなそれぞれが近い物事に対して、ある健全なスタンスで接して行くから全体が変わってくるようなものだと思う。色々うねって繋がって、役に立つ存在であり行けるようになるなら行きたいとは思う。

どういう結果があるかはわからないが、僕がやれる、身近なことについて色々考えた。とても身近な話で目につく範囲で気になることはたくさんある。下水、汚水を処理する人がいる。生活の雑排水は川に流している。牛や魚、野菜を殺して売るための商品を作る人がいる。男性は男性用じゃないトイレを立って使う。道路を掃除している人がいる。使った食器は誰かが洗う。ゴミを集める。他にももっとあるんだと思う。

34歳の僕が言うセリフかは微妙だけど、大人になってやっと、自分の生活がどういう成り立ちをしているのかがわかりはじめてきた。自分の清潔を保つために洗濯機を使いシャワーを浴び洗い物をする、その後ろ側で誰かにその汚いものを押し付けて、それを仕事だと言っている。そんなの変でしょう。トイレなら、お母さんが掃除をしてくれるかもしれない。それは本当に感謝すべきことで、本当に有難い。でも、下水や排水は何がどうなっているのか。肉や野菜はどうなっているのか。色々全部スルーして、何もかもをお金で交換していくことの無理。この無理を押し込める正当性は、やっぱり正しくないよなと思う。

仮に、汚いものを処理している役割の人に対して、それはその人の役割だろう。とか思ってる方がいたら、改めて考えてみてほしい。どうしても人の手を入れないとだめなことはあると思う。トイレの掃除はやはり誰かがやらなくちゃいけない。でも、汚れにくい便器をつくることは僕らにはできると思う。それは効率的に水が集まる形状のことなんかではなく、使い方の問題の方が大きいと思う。排水だって、今更全部を作り直す難しさはわかっているけど、自然に優しい洗剤を使うことなんかに頼らないで、何かやれることはあると思う。

少しずれる話だけど、帰省したときにみた、ホームセンターの中。幅広い品揃え。でも、ボールペンはただ積み重なり、モップはただぶら下がり、化粧品はただ並んでいるだけ。どれもがどれも、がんばって誰かが作った物。僕は作り手だけど、自分が作った物の扱いがこんなのはやっぱり嫌だなと思ってしまう。もちろん、作る以上は売れることが必須なのはわかっている。でも、あれが売れるっていう状態だとも思えない。つくっている人は、もっと自分で売れるようになることも大切なんだろうなと思った。

これから、見直していかないといけないことはたくさんある。見直すときの考え方は、効率的かどうかだけを見ていても駄目だなんだろう。唐突に例えるけど、例えばLED。寿命が長くて光への交換効率が良い。悪さは全然見当たらないし、どう考えても、白熱球よりは良いのでしょう。でも、紫外線や赤外線という、自然光に当たり前に存在するものを削ぎ落とした光の成り立ちをしている。それを日常で使い暮らすと何が起るのか。そんなことを考えもしないのは、やっぱりおかしい。一歩前の、明るくあることが必要かどうか。ここらへんに考えるべきことがあり、それを踏まえて、どうするかということをやっていかないと、とにかく増えていくしかなくて、大きなエネルギーにまた困ることがあると思う。

僕にとっての唯一の救いは、たまに昔の記事なんかを読んで確かめているのだけど、こんな状況にあっても変わらず考えていこうつくっていこうと思い続けられていること。僕は死ぬまで生きるだけなので、引退などありはしない。引退するまでに60年を使い、引退してから30年を生きるなんてことをやっていては、生きたなと思える人生からはほど遠い気がする。あと、仕事や役割については、一つではないことも思う。僕の仕事はこれです、だからそれ以外はやりませんとかで成り立つのは難しいと思う。役割については特に、大きくみて人間という生き物が世界と繋がって支えあう役割を意識していければ良いなと思う。

という感じで、バラバラと書いてみた。大げさかな? がんばろう。

お金が無いとできないこと

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僕は個人で活動をしていて、社会の中で特にお金の面で言えば、相当に小さな存在です。そんな僕は、基本的には僕の扱える金額の範囲内でできそうなことを考えることが多いです。つまりは、お金が無くてもできることを考えているに近い。

そんな僕ですが、やりたいことがあって、何とかできる方法は無いものかと考えていたのですが、やはりお金が無いとなかなかに難しい(まあ、難しくても諦めませんが)。とはいえ、状況が状況ということもあり、自分の中でもやもやさせておくだけよりも考え方をシェアしてみようと思い、お金が無いとできないこと、という形で一旦まとめました。募金や義援金とは少し違う使い方ですが、良いお金の使い方なんじゃないかと思った次第です。

 

社会勉強的に、何年か前から入札案件をちょいちょい見るようになっていたのですが、今回の震災後、現状を回避する手だての次、もしくはその次ぐらいの展開に関連する(と思われる)入札がちょいちょい見受けられるようになりました。

入札というのは、要件を満たした上で金額が安ければ安いほど受注できるという仕組みです。そこで、例えばですが500万円の仕事を100万円で受注するというやり方はどうだろうかと思いました。もし受注しても400万円の赤字です。でも、その赤字を募金というか国への投資だと思える企業が受けるなら、その企業はとても良い仕事をされるんじゃないかと思いました。

ソフトバンクの孫さんのように、研究機関をつくるのもとても良いと思うのですが、こういう直接響くことをやるためにお金を使うというのも、良いことなんじゃないかと思います。企業として幅広い能力があり、かつ体力が無いと実現は難しいでしょうし、通常はシンクタンクのような企業がやってたりするのかもとか思うと、今までやったことの無い人が無理にやる必要性はわかりません。ただ、現場感のあるやり方というのはなかなかやっていないようにも思うので、余裕と名案があるのなら、プロジェクトに関わる業界が一丸となってやってみるとか、なんか良い形でやれるんじゃないかなと思いました。

入札自体は割とたくさんありますが、関連しそうな入札をいくつかピックアップしてみます(期限が切れそうなものもあります)。

以下、引用。

東日本大震災により訪日旅行需要に生じた悪影響を早急に克服するために緊急に実施する海外向け情報発信及び現地旅行会社等訪日旅行販売側面支援の展開に係る業務(観光庁)

公示予定:平成23年度 都市と農村の連係による持続可能な国土管理の推進に関する調査(国土計画局)

公示予定:平成23年度 長期的リスクを踏まえた国土の選択的管理に関する調査(国土計画局)

公示予定:平成23年度 国内外の中枢管理機能の障害事例の実態把握とその回避方策等に関する調査(仮称)(国土計画局)

公示予定:平成23年度 長期的な展望を踏まえた集落の多様な生活・コミュニティ確保方策に関する調査(国土計画局)

平成23年度 無電柱化推進方策に関する検討業務(国土交通省)

訪日外国人旅行者の受入環境整備に係る外客受入地方拠点整備事業(観光庁)

海外有力メディア・旅行会社招請のための手配業務(単価契約)(観光庁)

電力需給対策を契機とした、長期休暇を有意義に過ごすライフスタイルの確立に向けた国民運動の展開に関する戦略の立案等に関する調査(観光庁)

公示予定:東日本大震災による被災現況調査業務(宮城1)(都市・地域整備局)

公示予定:東日本大震災の被災状況に対応した市街地復興パターン概略検討業務(その1)〜(30)(都市・地域整備局)

想像力 / Imagination

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何を見ても電気に見えてきました。

ものすごく怖い原発、止められると本当に良いですよね。無くしちゃえたらもっと良い。新しいエネルギーが原発の代わりになってくれるのも、とても良いと思います。

でも、ふつーーの感覚で考えて、原発の代わりにすっぽりとはまる代替エネルギーが、運良く、素晴らしい閃きから即座に生まれてくると、僕にはあまり思えない。そんなハッピーなことがあったら、それはもう幸運すぎて、なんでしょう、もう良いです。ほんとグッドです。

だからといってなるようにしかならないから何しても無駄だとか、現状のままで問題ないとか、そういう風には全く思わないので、色々考えてつくり出していかなくちゃいけないのですが、それはそれとして、別にやらなくてはいけないことがあります。僕らが今まで、どのぐらい背伸びをしていたかということを見直すこと。これ無しに、電気の作り方だけを考えても、解決する気が全くしません。

この見直し方というのは、こうしていた僕が悪かった、ああしていた僕が悪かったとわかりやすく悪そうなことを思い直すことなんかよりも、もっと身近に潜んでいて、僕らの生活そのものが、電気を作らずにはいられない性質のものという認識を持たなくてはと思っています。

色んな言い方ができそうですが、一つ流れを書いてみると、みんなの暮らしでは毎日必ずお金を使います。それはどんどん物ができては消費されている状態を意味しています(個人が買い物するかどうかだけの問題ではありません)。そして、何かをつくるには電気が必要なのです。だから、電気もどんどんつくってきたわけです。みんなが制限無く自由に生きられるよう、際限なく物を扱えるよう、どんどんつくってきたわけです。

また、原発については、完璧で無いと知ってはいたものの、極端に、必ずいつか壊れるものをつくってやろうなんて思ってた人はいなかったと思います。そんな人たちに向って、責任感無いのか!と怒ってみても駄目で、多くの関係者は、不安を感じながらも何となく大丈夫なんじゃないかと思って、みんなの暮らしの集まりから生まれる需要に答えるという正しさを思い(まあ裏側にはお金のこともあったと思うけど)、責任を全うしただけです。だから、今ここで、みんなの暮らしがこの事態を生んだということから、目を反らしてはいけないんじゃないかと思っています。

わかりやすく目に見える話に限っても、自分の暮らしで考えて、電気がなくて作られている物なんてあるでしょうか。テレビとか、ドライヤーとか、洗濯機とか、いわゆる家電製品は無くても生活できるんじゃないかという思いはあるのかもしれません。でも、それって、本当に目を反らさず具体的に想像できているのでしょうか。

いかにも電気っぽくない木でできた家具でさえ、電動のこぎりを使って作っています。野菜でさえ、電気のある暮らしをしている方々ががんばって作っています。そう考えれば、みんなの暮らしの集まりで、原発ができている。僕はそうとしか思えません。これはもう、個人でも法人でも国でも何でも良いですが、誰かが責任をとって解決できるようなことではないのです。

見える範囲で問題があるだろうと僕が思うのは、自分たちの手で作れないものがあまりにも多すぎるということです。だから色んな物事に対してサポート的な存在がある。その存在へ文句が言えるっていうのはそういうことです。どの程度なのかはわかりませんが、部分的にでもそういう作り方をやめるようなことは考えていかないと、仮にクリーン、かつ大きな事故は起こらないだろうエネルギーができたとしても、いつかまたおかしなことを呼び起こしかねないと思います。大きなエネルギーというのは、そもそも大きいものなのですから、作用反作用という必ず生じるもののことを思えば、大きなマイナスがあるのです。言葉で表現するなら、ものすごく強く大きなエネルギーで豊かな暮らしをするよりも、ちょっと少ないけどものすごく柔らかいエネルギーで豊かな暮らしをする方が、僕は良いと思っています。この表現から言えば、今ままでは、大きければ大きいほど良いという暮らしと言えるんじゃないかと思います。そこを見直せたら良いのにと思うばかりですが・・・。

 

瓦と屋根

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今回は屋根について考えてみました。オチは特にありませんが、少しまとめました。

住宅の屋根には色々な材料が使われています。住宅で多いのは瓦や金属を葺いたものです。地方によって傾向がありそうですが、人口の割合から、日本では瓦葺きが多いのかなと思います。本瓦葺きは荘厳な印象があってすごいとは思うのですが、特に住宅で言えば、僕は茅葺きや板葺きの方がなんか好きですね。

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その日本古来の様式である、茅葺き、藁葺き、板葺きもまだまだちゃんと残っています。ただ、経済的に維持するのがすごく大変という話を聞いたことがあります。3年ほどで葺き替えるとか、確かにそれは大変そうです。

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雨を避けるための工夫である屋根は、土着の文化もありますし、地方ごとに色んな発展をしています。たまたま行った山梨では、兜づくりという茅葺きの屋根がありました。これは、生活にあわせた変化を持っている形で、従来の茅葺きよりも大きな屋根になっていて、屋根の中に2〜4層の空間を持っています。風通しが良かったり、季節にあわせた室温調整もできるそうです。ただ、茅葺き自体のコストが高すぎたため、茅葺きが朽ちない工夫として、トタンなどの板を上から覆いかぶせてあるのが写真に写っている家屋の屋根です。

長い期間、雨が入ってこないようにする工夫は、とても難しいことです。雨は上から下に降るものですが、細かく見ると、水が色々な方向から吹き込んできたり流れてきたりと、そのすべてに対応する必要があります。瓦にしろ茅にしろ、結構細かいものをたくさん集めて、促す方向というか流れをつくっているように感じます。伝統的な技術ですから相当に優秀なものだと思いますが、違う方向でも考えられそうだし、同じような方向で考えるとしても、屋根の工夫はまだ考えられんじゃないかと思いました。

 

冷戦思考

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近頃、僕が考えるときによく気になっていることの一つに、冷戦思考という考え方というか、捉え方があります。この捉え方を知ったとき、ちょっと驚きました。そのぐらい日本とか社会とかに前提として馴染んでいたから。

冷戦思考というのは、絶望的な手段の一つ「核を使う」っていう可能性があることを日本においての前提として、ソ連とアメリカの関係にあったような、いわゆる冷戦の関係を色々な国に対する信頼感の評価の一部に組み込んでいるような、そんな考え方です。(と思います。)

簡単に言えば、あの国は日本に核を使って侵略してくる可能性を持つ、つまり、そのぐらいこちらのことは考えないというような感じです。確かに、アメリカや中国、北朝鮮という強い国、激しい国に対して、僕らは核の可能性を感じてしまいます。僕らが核を使うイメージを持っている相手に対しては、些細なことであっても、どうもこちらに被害が出るようなことを平気でやってくるような感じを抱いてしまいます。

これは、社会の歴史に出てくるような史実に基づいた印象から生まれる感情なのだと思いますが、例えば、あるアメリカの方と話をするときに、ここまでの危険を感じることはあまりありません。漠然と、全体で捉えるときにこの思考は生じやすいと感じます。あってないようなものだとも思えたり。

もう一つ例えてみると、アメリカから大量の食料を輸入していることについては、「どうやって作っているか、わかったもんじゃない。国産の方が良いに決まっている。」というような気持ちを抱いてしまう方も多いように思います。

でも、この考え方も随分と安穏としているというか、国産なら大丈夫かと言われれば、それぞれの生活を守るためにそれぞれがやっている仕事の結果が、多くの人の生活をきちんと守れているわけではないという現状も、普通にある話で、このあたりは責任の取り方にまつわる問題も含んでいます。

というあたりまで書いたのが去年。そして、今。

原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~NHK_1」をみつつ、共産主義派と民主主義派の戦いかーなどと思いました。でも僕的には、柴田秀利さん(日本テレビをつくった人)の判断が良く無かった気がします。昔の事だし、戦争敗北直後でもまだあわよくばというか、隙あらばやったるで的な思考があったのかもと思ったり。まあ、なっちゃった事はしょうがないんですけどね。

この話は別に隠されていたわけではなさそうです。ただ、これを知って、ああ、こっちは違うんだなって思えない人が多すぎたのかもしれません。そこから膨らんだであろう、集団での正当化ってのは本当に怖い。

少し話が飛びますが、もしかして、軍事利用を動機につくられたものに、ろくなものはないのかもしれない、というようにも思いました。ジャーナリズムもおかしいのかも。(ジャーナリストがおかしいっていう意味ではないです。)仮に、早さと正確さが重要なのが報道だとすると、報道の性質は自ずから決まってきます。報道でも情報でも同じ事で、ここについて少し考えてみようと思いました。

 

あと、今の社会について。世界の中での日本の立場を考えると、ある制限が生まれるかもしれないなと思いました。平和を願う気持ちがあった日本だとしても、問題を起こしてしまったことから考えて、他国に対する説得力が持てるとは思えません。これを日常的な話に置き換えてみると、みんなで共同生活をしてきたのだけど、ある一人の人がボヤを起こしてしまった。家は残っているけど、焼けこげた範囲は広い。元には戻らないけど、みんなで何とか直した。その後、原因となった人の心情、行動、周囲からの評価、そういうのを少し考えてみると、挽回したいというような良い心情になることは想像できますが、台所は使わせてもらえないとか、一人で留守番はさせられないとか、ストーブ禁止とか、なんらかルールがでてきそうなことも想像できます。これはできてしまえば避け難く、でもできたならきちんと守って、真面目にやっていくしか無いですよね。

プルトニウムやらセシウムやら、何でも良いのですが、半減期が経過してもまだ半分で、安定?するのはその10倍?ですか。僕らの命全部使ってもナシにできない。こんなの普通の人は近づかない以外どうしようもありません。それはそれで方法を考えるしかないですが、別の努力もちゃんとできるかどうかはとても大切です。今でも、どんどん増えているナシにできないものたち。どうしていくか。あくまで、何とかみんなが生きる方向で、どうやっていけるんでしょうか。

自分が正しいという実感を持てている方は、その正しさをもう一歩反省するのが良いと思います。正しさが嫌いな人は、目の前にあるあなたが思っている大切なことを信じれば良いような気がします。みんなで大きく動く前に、個々で考えてほしいと思う。苦しさから主張をして、何かを押し倒すことだけは避けないと。それってすごく遠回りだったり、傷つく人が多かったりすることもあると思うので。  

自動ドア

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自動ドアって怠惰だなぁと思いました。

だからやめましょうっていきなり思う訳じゃないんですが、なんか出たり入ったりって、もう少し考えられるかもしれません。活動のリズムみたいなものを考えてみると、他にも変えられる事ってありそうです。

政治

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都知事選があります。ようやっと政見放送を見終えたので、そこから、気になる方は少し突っ込んで調べて、どなたに投票するか決めました。(本当は二人のうちで迷い中。)

こんなときに、やらなきゃいいのにと思ってしまうのと同時に、そういう成り立ち方をしているのかもしれないとも思いました。トップが変わっても組織の大勢に影響が出ないような、そういう成り立ち方。企業もそういう成り立ち方をしていますし、集団として機能するものはそういう感じのことが多いです。とても都合が良いですよね。そう、都合が良いのです。

あと逆に言えば、大きな方向転換をしようとしても、すぐには転換が難しい成り立ちとも言えます。政治のやり方って、これで良いのかと思ってしまいました。この仕組み、僕らにあってるんだろうか。年々連なっていく、流れのような仕組みはできないんでしょうか。自民党に代わって民主党がぐっと出てきたときにも同じようなことを思ったんですが、ああいうときでも、前任者が後任者にきちんと繋がって何かが手渡しされていく印象は無かったように思います。

選挙にしても、順位を決めるのって必要と思いますが、誰か一人に決まった時、他の人は次回に当選する方法を探るんじゃなくて、当選者をリーダーとして自分が気になる問題を解決しようと努力する事ってあるのでしょうか。「派が違い、志向が違うから、私が思い描くみんなの幸せは描けない。だから次の機会で。」仮にこうだとしたら、なんか、もうちょっと協力できるような仕組みにならないものかな。

僕の今回の投票は、今の東日本の緊急事態から抜け出す努力を惜しまない、かつ比較的有効に機能させることができるだろう方にいれたいと思っています。選挙があるからには投票しないってわけにもいきません。でも、選挙とか政治とか、そういうことももう少し考えてみてほしいです。

僕が仕組みに対して思うのは、誰かがずるをしないかどうかを見張るための仕組みであって、何かを実現するための仕組みになっているようにはあんまり思えないということです。そんな仕組みだからそんな人が集まるんじゃないのと思ったり。状況によっては、確かに有効だと思いますが、見直せる気がします。

政治絡みで、つい先日、永田秀次郎さん「市民諸君に告ぐ」の抜粋を読み、語った方、受け止め動いただろう方々を思い、すごいことだなぁと思いました。この関東大震災から10数年で東京大空襲。それでも、いま東京がこうしてある。本当にすごいことです。

ここからはさらに難しい話なんですが、大打撃が無いと、みんなで決める事はできないんでしょうか。今回で言えば、放射能で何万人もの方が亡くなるとか、そういう事態が無いと変わらないんでしょうか。チェルノブイリで鉄砲玉のように亡くなってしまった3名をしても、ウクライナというか旧ソ連の地域では、原子力発電所をやめたりはしていないと聞き、社会はどうすれば変わるのかと思いました。

今、Yahooのトップページをみて、よし電気使ってないなと思う方と、毎日電気をたくさん作ってるなぁと思う方がいると思います。今のタイミングで電気についてはこれまたとても難しいのですが、Yahooの人が50%以下の切り捨て表示を思い直すような社会の動きが生まれると良いのに。よくある日常で言えば小さな事、緊急のときには大きな事が、何かに乗らなくても良い方向に流れていくことはできないのかな。複雑過ぎるか。うーん。でも、なんか、なぁ、と思います。

 

海のちかく / Near the Sea

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津波の高さの限度があるのかどうかわかりませんが、堤防を30mにしてみても越えてくるんでしょう。30mの堤防ともなると高さがある分、幅が増え、さらにそれを耐震にするとなると、どんな大きさだろうと思いました。それでもまだ、そうある想定ではないですが、25mの津波がきて、地盤が5m落ちれば合計で30m。まあ、地盤が落ちる事は埋め立て地なら、より十分あり得る話な気がします。

今回の大津波を踏まえ、大きな堤防と、消波のためにテトラポッドを置きまくるというような方向にいくのかもしれませんが、完全に津波を抑えようと思うより、津波はある程度流れてくるとしても、そこの人たちが避難できるとか線が切れないというようなことを考えた方が良いと思いました。

そこで、電柱が少し大きくなるというのはどうかと思いました。最近は地下に埋まっちゃう事が多い電柱。これが太くて中に空間が少しあって、倒れなくって水が入ってこなければ良いんじゃないかという話です。電柱全部がそうじゃなくても良いんです。海際5km範囲ぐらいに150m間隔ぐらいでつくれれば良いんじゃないかと。

あと、僕としては、なるべくなら生まれた場所で住める事が良いと思っているのですが、それだけにこだわりすぎるのも難しい局面を迎えるのかもしれないと思いました。お金が原因で、そこで暮らせなくなる可能性が出てくるっていうことがあり得る、と思ったのです。お金ってすごいわ、と思いました。まあ、背伸びしてるかどうかが大きく絡むんですが。

これ、今回のケースで言えば、誰かのためにリスクを背負って電気をつくることをはじめ、それが駄目になると経済的に立ち行かなくなってしまう、ことがあるということです。誰かの役に立ってる!という手応えは人生にとってとても大切だと思うのだけど、短い時間でできたものは瞬時に無くなることがある。それを思ってがんばるしかないですよね。

 

また、消波や風車は、動物たちに及ぼす影響もあるということで、難しいものだなと思いました。これは少し例え方を変えると、住宅地が欲しいから池を埋め森を削るのと同じようなことです。空や水は何となく目に見えにくいので、意外と抵抗が無いというのも危ないことですよね。都度調べて、住むのに適した場所を限定するような発想は、アリなのかな・・・。

ちなみに、大きな水の通り道をつくるために、大きく斜めに整地して、避難地区を設けるっていうのは割と良いかもとも思いました。

 

「原発がどんなものか知ってほしい」のこと

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こういう記事の作り方はあまり好きではないのですが、全肯定をしているので、さすがにアレだなと思って、補足の記事を書きます。

この前書いた記事の中で紹介しました「原発がどんなものか知ってほしい」の反論の記事を見かけたため、少し読みました。

あの文章は平井さんの純粋な文章ではなく素人の寄せ集め文で、情報のほとんどがでたらめだという切り口から、色んな指摘をしています。すごく長いので、すぐに全部は読めないのですが、気になる所を少し読んでみたところ、主張はわからなくもないけど、まあどっちもどっち的な感じかな、と思いました。僕は、現実にそれっぽい問題が発生しているのを僕的に捉えようとしているだけで、そもそも数値がどのぐらいで安全かどうかとか、仕組みがしっかりしてて安全かどうかとか、そういうことをそんなに気にしているわけじゃないので、僕の意志は変わりません。

いくつかの事態や事故をみれば、どっちがどうかというか、安全であるなんて無理っていう気がします。廃炉後10年程度経過して期限間近に解体を3年延期した東海原発、2009年に廃炉予定を取りやめて運転続行の敦賀1号機、高速増殖炉もんじゅの取れない直せない問題、遠距離から海水を掛けざるを得なかったことを含めた今回の福島原発。こういうのを並べると後出しじゃんけんみたいで申し訳ないのですが、まあ反論の方が説得力は薄く感じます。(これは完全に個人的なアレですが、論調も何となく・・・)

あと、反論の中で「『放射能でロボットが狂う』なんて言うはず無い」って書いてあるのですが、表現は違うにしても、実用的なロボットは何となく難しい気がします。金属とか潤滑油とかが放射線で変わっちゃうなら、歯車動かすのもしんどそう。で、もし変わらない金属やセラミックスを使ってロボットをつくりきれたり、金属が変わらない工夫ができるなら、それをそのまま使えば、ロボットじゃなくて人が安全に入れそうな気がします。アメリカの人とか80kmも離れないで良さそうだし。

あと反論とはあんまり関係ないですが、もう一つ先週みてた映像。編集してあるので大げさだったり、上手い事やってたりするかもなんですが、そう遠く無いことが現実にある気がします。参考までに。

隠された被曝労働〜日本の原発労働者〜 樋口健二

最後に、反論の中で僕が気になって読んだ所を抜粋しておきます。

→抜粋

NIHON COMES RIGHT

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がんばりましょう。

がんばります。

 

あと、一つ言いたい。悪さをせめて、仮に、というか結果的に自殺においやってしまったとしたら、その後で、正義の誰かが代わりをやり、それで丸く収まるのだろうか。僕はそんなの嫌だ。死んじゃえだなんて、やっぱり全く思えない。

友達とやりとりしていたメールを載せます。僕は、みんなでがんばるのがいい。

 

どうがんばっても大切にできなくて、それで辛いこともあると思うけど、生きてるってそんなことの連なりでしょう。それでもやめないでいるのが、ものすごく良いよ。と僕は思うよ。

気持ちはまあわかるんだけど、今はみんな、痛いからって避け過ぎだと思うかな。 痛いからってやめてたって、誰かが代わりにずっと痛いだけだからね。

やれることは山のよう。

でも、やれることはすごく限られてる。

この間を埋めるのは、避けずにやめないっていう気持ちだと思うんだ。

ボランティアもちょっとしたことでしかないかもだけど、すごく大事とも思う。なんだけど、やってる人側の、その場しのぎでしかないのはちょっと違うよねぇ。

本当は、みんな経済的な仕事なんて一斉にやめて、すぐにやれることを、行ってつくって配って励まして泣いて一緒に頑張っていくっていう、すごくシンプルな事をすぐにやるのが一番良いよね。でも、そういう方針を今すぐにたてられるのは、残念なことに国とか政治でしかなくてさ、そういう国ではなくなっていることは、僕らの生活の集まりがそうさせているっていうのも事実だと思う。

とにかく、今はこの緊急事態を脱することをある範囲の中でやるしかないけど、そっからあと、僕らは大きく方向を変えて進んでいきたい。じゃないと、本当に無くなっちゃうなって思ったよ。

だって、経済的に豊かで安全で良いなーって思うところがあれば、個々の思うがままにそっちに行っちゃうんでしょ。

そんなものは国でもなんでもないなって思っちゃう。

人間はそんなもんじゃないだろう。

生きててほしいって思うだろう。

それが国だろうって思うんだ。

国って属してるとか生まれついたとか、そういう理由みたいなものでできてるんじゃなくて、よくはわからないけど、国っていう、そういう形が生まれるっていうのが、人なんじゃないの、と思うのです。

 

とまあ、みんなとは言えない存在があるかもしれない可能性も鑑みつつ。難しいもんだ。

 

電気の負荷

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産業規模が大きいってことは、世の中での動きが多い、つまり色んな負荷が大きいってことだと思うので、その規模を低下させつつ負荷を減らしながら、最小限の機能を持つ代わりの仕組みに変換するようなことが必要になると思っています。負荷と書きましたが、これはそのまま電気と思っても差し支えないと思い、考えました。

まあ、まずは携帯電話でしょう、と思っています。

これはつい先日に思ったことなんですが、友達とご飯を食べながら話の流れの思いつきで、これから電気代が増えるだろうから、その分、携帯電話はやめないとね、と軽く話をしていました。そのときはお財布事情の話だったのですが、少し時間が経って自分で振り返ってみて、これ結構あたってるかもと思いました。

色々端折っていきなり話を進めますが、電話っていう機能というか仕組みを、素の状態から今の状況・技術でつくるとしたら、今ある電話のかたちにはならない気がしました。大きくは、個別にナンバーを振った専用の端末を持つという形。ダイレクトな感じがして一瞬良さそうなんですが、連絡をとるために必要な形では無いと思えます。

例えば、街の色んな所に電話機能を持ったベースを点在させて、僕らは小さな固有の情報を持っただけのチップを持ち歩き、チップを持ってベースに近づくと、連絡が入る時は名前が出て教えてくれるとか、そういう連絡の取り方で成り立つんじゃないかと。

連絡手段としての即時性はありません。でも、即時性を維持するには、ビッシリ巡らせる事、常時発信する事、常時受信する事が必要です。そんなコストはいらないでしょうという考えです。

まあ、無くさなくても良いんです。ヘリコプターみたいな、私有するには高額で、緊急時にきちんと使えるようなものになれば良いと思います。

あと、僕の気持ちを書いてみます。コストとか負荷のこと以前に、携帯電話って使うのも使っているのを見るのも、昔からそんなに好きじゃないんです。いつだか書きましたが、乳母車を押しながら携帯電話を見ている人はどういう気持ちがしているのだろうという話。もちろん気持ちはわかりますし、悪いことではないと思っています。これは、一回性の話の中で一例として取り上げたのですが、携帯電話って、欲求を何となく吸収してくれる道具というか、おもちゃと似てるんだと思っています。おもちゃはとても良いものだけど、何となく正当なものとしてしまったこういうものってたくさんある。テレビとかPCだってそうかもだし。こういう発散は、悪く無いけど良くも無いと思え、今何か削るならこういうことだろうなという感じです。

あと、電気の作り方の話の前に、使い方の話を書いているのは、日本は世界の内にある、ということからきています。どんなに辛いときであっても、叶わない事はあって、でもそれで終わりかというとそういうもんじゃないです。じわじわ進まないと、国は越えないと思うし、僕たちにとって良く無い。一気にいくのなら、国丸ごとで、グリーンピースに合流するとかでしょうか。そういうんじゃないなと思います。

最後に、電気の話だと原発のことがやっぱり気になります。良いか悪いか効率的かどうか意味あるかどうか、で評価することはできます。やっぱりあなたが悪かったとか、ほらこっちの方が効果あるじゃんとか。でも、原発の話は、前段の世界の話もありますがさらにその前に、今のものをどうするかをさきに考えないとと思っています。代替エネルギーとか、電気無くてどうやって暮らせば良いのかとか、そういうことより、今、たくさんある放射能を持つ物体をどうするのか、を考えて決めないと。これが一番大変なことで、みんながやりたく無い事でしょう。でもこれが、今までに時間をかけてみんなでつくってしまったものです。今より先の人には直接は関係ない。後回しにしてると、決められないような気もするし。ただ、これは極端に難しいことだとも思っています。こんなこと、どうやって決めたらいいんでしょうね。

中日新聞(2011年3月13日付朝刊)

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これは、中日新聞(3月13日付朝刊)のある一面です。

昨晩、友達から電話がありました。その友達はインターネットに詳しく無く、どこかにどうにかして載せたいものがあるという話で、僕に相談をくれました。こんな場所でアレなんですが、協力できたら、と思い、掲載します。

 

友達の言葉。

静岡県で発行している中日新聞(3月13日付朝刊)に、こんな紙面がありました。 この新聞紙1枚が、誰か一人の心にでも希望の火を灯すことができますように。 私からも、ささやかながら、募金と、応援と、祈りを、被災地の皆さんに送ります。

 

気の持ち方を改める 2 / Changing Us

今回の地震、多くの方が犠牲になり、多くの方が未だ避難をされていたり、救助の努力をされていたり、言葉では表せないような状況になってしまっています。亡くなられた方々、関係する方々、本当にお悔やみを申し上げます。そして、常に危険と隣り合わせで活動をされている方々全てに、本当に申し訳なく思います。

この情けなさ、ふがいなさ。僕は、特に公では甘えるべきではない、と思っているのですが、今回は申し訳なく、さらに立場も顧みずも、甘えて書き留めておこうと思います。

 

こういう状況にきて、色々な方の考え方や思いを目にする状況が多くなっていますが、ちょっとよくわからなくなってきました。僕が偏っているのだろうか。

2009年ごろから、僕の中で徐々に明確になりはじめたことなのですが、大きく二つあります。一つは電気のこと。もう一つはお金のこと。どちらについても、ちょっとした記事をまとめたことがありましたが、それを書いたとき、ここまでの確信はありませんでした。

それは、僕らが生きていくのに何を大切にするのか、ということです。

僕たちが死んでしまう確率をとにかく低くしようとすることは、多くの行為・活動の動機や正当性になっていると思います。でも、まさにその下に、自分ではない少数の誰かが死に向っている状況を良しとするのは、やっぱりおかしいですよ。

こういう考え方は、原発に不安を抱いていたり、ドイツやなんかで原発を止めたっていうニュースを聞いた今、そう思うと思う方が多いのだと思います。でもね、ただ単に止めるのは簡単なんです、たぶん。それでも止めないのは、まあ当たり前ですが影響を考えているからだと思います。3000万人の不安で止めた電気で、1000人の方が亡くなったり、100万人の方が困ったりするのであれば、止めないでしょう。

話の方向的に、僕がまるで社会とか経済を心配して、止めちゃ駄目みたいな発言をしているのかなと思われているかもしれませんが、大丈夫です。そんなことは全く考えていません。お金は大事です。でも、それは真ん中ではない。

今まで踏み込めなかった、電気をつくるのをやめること。これは、今までの無理がたたっていることも鑑みているような気がします。電気を作るのをやめて安心というものでは無いようですよ。僕は平井憲夫さんの「原発がどんなものか知ってほしい」をきっちり読んだだけで、専門的に詳しくはわかりませんが、僕の今までの放射能の知識の範囲(すごく狭いと思いますが)と、合致する点が多く、信頼に足る情報だと思っています。この筆者の方は、随分前に亡くなられていますが、読まれた事の無い方は読んでみると良いと思います。

このページの中でフォーカスされるのは今すぐ(その当時)の直接的なことが大部分だと思います。健康の事も差別の事も、とても憂うべき問題です。でも、専門性なんかとは何の関係もない、将来の事こそがとても大切だと思っています。

僕たちの直接の事からはなれ、五十年・百年・二百年と経ったとき。仮にこの電気の仕組みが止まっていても、もう電気を生んでいたことすら覚えられていないかもしれないような、単に危ない放射能エリア(今でいうところとの原子力発電所です)を、そのとき誰かが、まだあと何年も見張らなければならない。こんな事態になる可能性があるのです。誰にも何ももたらさないのに、ですよ。

こんな事態が来るかもしれない未来を、緊急だから危ないから今すぐ選べだなんて、絶対におかしいですよ。

今は緊急で後で何でもするから。科学が進めば、技術が進めば、解決されて安全になるかもしれないから。そう思う方もいるかもしれません。でも、すでに順番が逆になっているのです。逆になったうえでの、この考えは僕はおかしいと思うのです。これはお金のことも同じなんですが、予定予想をもとにした先送りでしかない。そんな気持ちで、原発を止めて心を入れ替えていつか技術が進んでたぶん生活が豊か、だなんて、あほかと思います。

もう既にあるものや使ってきたもの、やってきたことは無かった事にはできませんし、したくありませんから、危ないし何ももたらさない、そんなものを抱えていても、これからも日本をやっていくっていう気の持ち方が、僕はとても大切だと思うのです。この気の持ち方に、意味なんてありません。意味なんかないまんま、僕はこれを信じます。僕は日本人ですよ。当たり前です。血のつながりが変わらないことと同じです。

そして、このぐらい信じきるような決めごとを、僕らはもう一つぐらいは決めなくてはいけない気がしています。この覚悟の想像は、2009年に思った「戦争をするときの覚悟」からはじまっています。体験の無い僕の想像ではありますが、戦時中に思うそういうような覚悟を、即時的な命の危険がない今の状態ですることぐらい、なんてことないんです。僕が思いつく程度のことなので、これが絶対に良いやり方かわかりませんが、兵役みたいなもので、管理役をとにかく全員で持ち回るような感じが良いんじゃないかと思います。県とか地方とか、関係なくです。

このやり方をベースに、もう一つ突っ込んでみると、兵役と聞いて自由は無いのか、と思う方もいるかもしれません。そう、あなたの思うそんな自由はありません。それが不自由だと思うなら、原発を止めたいと思わない方が良い。そういう話を書いているつもりです。

ちょっと鼻息荒い感じで書きました。すみません。

僕として、直接何かに働きかけたい思いはとても強いのだけど、事が大きすぎて望めないとも、そういう立場にいられていないとも思え、無力感が大きいです。

そんな僕が決心できる事は、周囲に何となく漂っている日本を脱出しようみたいな空気を感じながらも、止まったままの電気を生まない危ない原子力発電所っていうのが、いくつもある日本になってしまっても、僕は日本を離れないっていうことを決めました。もとより、日本が拠点でなければ僕ではなくなってしまうような気持ちも大きいのですが。

重大な問題に対して、よくあるような、伝言ゲームみたいな安易な行動はもう無しにしたい。そういう行動って、つまるところ気の持ち方なのだと思うのです。いやいや、プライベートな時間は大切だよ。そう。それがプライベートでない気の持ち方で、重大な事に望んではいけないのだと思うのです。そんなこと意識すらしない、そういう自然さが必要なのです。

僕は一生涯、大切なことを大切にしたい。でも、僕の社会的立場はそれを許しません。このサイトだって、電気でできています。こうして書いた以上、無くして良いのか躊躇ったり、無くしたい気持ちで一杯だったりしますが、小さな僕に限られた、どこかに投げかけられる場所は今のところここにしかありません。この現状を何としても乗越え、僕は僕が大切にしたいことを大切にします。

誰も見ていないかもしれませんし、見たとしても限られた人だけだと思いますが、何かを思うきっかけになればと思います。

 

電気の話が多くなりすぎましたが、もう一度地震のことを交えてお金のことを少し。

本当に辛いのは、何もかもが無くなった地域の人たち、危険と隣り合わせの人たち、避難や物資支援が必要なぐらいの地域の人たちです。

今のところ、東京にいる僕らは、食べる物はあるし、水もある。雨風だってしのげる。とはいえ、日本の東の方は被災地だ、と思った方が良い気がしています。県や地域で区切って、僕は東京だからなんて安心している場合じゃないです。援助に向うのは難しいし邪魔だろうけど、追い詰まっていない地域の僕らが、少し追い詰まるぐらいの判断はあっても良いと思うのです。日本だけの問題を超えてるような大きな問題だし、政府の判断を待つしかないのだけど、大切なものが何なのかと、少しでも思う人がいるのなら、そういう判断をとってもらいたいと思います。

そして、お金のこと。今、局所的に大きなお金が必要な状況だと思います。でも、ただ集めよう!集まったー!だけじゃやっぱり駄目だと思います。大きな動きをしている募金というのは、税金の優先的な使い道でしかないんじゃないかと思っています(詳しい方、違っていたらごめんなさい)。優先的に使うことは、この一大事においてはとても有効だと思います。でも、現実の先送りでしかないお金の、さらに先送りでしかないのだとも思います。先送りは価値ではない。このスパイラルをいつかどうにか脱したい。そんな違和感からはじめて、先送りの無い大切なものを見つけられたらと考えています。今すぐで言えば、先送りじゃないことを見つける必死さがここから先、とても必要なのだと思います。

表現 いや、偶現

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(あ、そうか、で、タイトルに追記)

これも1年ぐらい考えてた。最近だいたいそんなペース。

表現と描写は違うこと。

美術は技術かもしれないこと。

このあたりのことが、ずーっと気になってるのだけど、非常に難しい。表現は、すごく広く、それはもう全部を含んでいる。物事のあじわい、ということだと思う。

 

あじわいということについて少し加えてみる。言葉のような記号を用い交換できる情報として扱える定義のようなこと、ではないことで、その物自体の存在を感じさせるアレだと思う。少しだけずれるけど、(言葉があることを前提に)ある物がそれだとわかることも、これに基づいている気がする。

もし定義という軸で、あじわいを探そうとすれば、その物や人の特徴を全部書き出し、その書き出せたこと以外に表れているようなものじゃないか。書き出せたことの集まりの持つ、その傾向に何かしら表れることもあるのだが、それも特徴のうちと言えそうで、さらにそれ以外にもあじわいは潜んでいると思う。そして、こういう特徴を全部書き出すなんていう想定は、想像を出られない。僕らにとってそれはやっぱり、知覚はできているけど、明確ではないことなんだと思う。

そんなものをどうやって人と共有するのかと言えば、それは、名前を言うだけで、それだとわかる、その流れみたいなものを暗に交換するという感じだと思う。こういうことは僕たちは当然のように行っている。石を見て石だとわかるような、自分の中でも同じようにやっている。

 

あじわいの話から離れ、主題の表現について。表現は表すこともあるが、現れるものでもあって、僕は現れるものの方が好きみたい。表すというのは、描写が近い。で、現れるものというのは、前述のあじわいだと思う。それで、それがわかる、のが僕らの能力なんだろう。

ここらで、美術のことが気になった。美術により表現されているものは、描写されているものが多い。そういう美術により現れているものは、他人に示していることよりも、自分に示していることの方が大切で、そういう意味で、美術ってすごいなと思う。

逆に、そのまま現れる美術、というものも無くなるようなものではない。こういうことは、(能力の有無じゃなく)やれる人にしかやれないことだと思うけど、現れたものにはやはり気持ちが動く。他人に示されていることとして、僕らにとってはとても大切なことだと思う。

そこに、技術のことが絡んでくるのだが、ペンが無い時代、紙が無い時代、言葉が無い時代、それぞれの時代を乗越える瞬間、技術は進む。その、無かったことができたという表現というのは、美術だと言えるのかなと思った。そういう意味で美術は技術なんだろう。技術レベルというような言葉が当てはまる技術は美術ではないんだろう。レベルというような切り口から、現れることはないんだろう。

この、何かが現れる技術、というようなものを探してみようと思っている。

違い / The Difference

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差があること、違うこと。

このときから考えはじめて以来、途中ながらも考えてきたことをまとめてみる。

違うことの表れとして、貧困や差別は多くの人にとても意識されている。僕も生活をする中で、そういう違いを感じることはある。ただ、平均を目指してきた日本であるとしても、同じ生活水準を生きているとしても、僕は貧困や差別以上に、信じていることの違いの方をより感じている。「人と人は違うのだ。」読む人によってこの一文を読んだときの意識の仕方が違うように、同じだということの方が難しい。

僕は、その違うことを尊重するのが良いと思っている。お金を信じるのか、家族を信じるのか、自分を信じるのか、科学を信じるのか、山を信じるのか、像を信じるのか、神を信じるのか。そこが違えば、日本の社会が目指してきた平均値の上下というか多寡というか違いなんて、どうでも良いことだと思う。

でも、平均を目指した社会だからなのか、他人が信じる事は自分のものとは違うかもしれないと全く考えない人もいる。それは社会を信じているということなのかもしれないが、実は数を信じているだけなのかもしれないと思ってしまった。彼らはそれが示す上下を気にして、なんだか、ある後ろめたさみたいなことを感じていると、さらに言えば、自分で自分が信じていることを忘れようとしている、と感じる事もある。

 

少し話がそれはじめているので、話を戻して進める。違いについて。

例えば、日本のコンビニが1店舗、ある瞬間にまるごと、南アフリカの貧しい村に移動するとする。維持・継続はもちろんできないが、助かったと思う人は確実にいる。でも、そのせいでおかしなことがおこったりもする。不平不満とか、怠惰とか、アダムとイヴじゃないけど、知ってしまうとそれを求めるというか。

その体験がもし文化をつくっていくような刺激になるのなら、良いことなのだろうと若干は思える(そもそもあまり好きじゃないけど)のだけど、何となく、作為的なそういう行為は、到底文化などつくれないと思えてしまう。飛躍の方向も度合いも不自然な感じがする。こういう影響を考えるなら、そこに骨を埋めるぐらいの心持ちや愛着が無いとやれないんだろう、自分にとって違和感の無い場所じゃないとやれないんだろう。そして、狙ってそういうことを行うのは非常に難しい。

この難しさはどこから来ているのか。信じていることが違う、ということなんじゃないかと思った。つまり、アフリカでの生活を見た日本の人が、改善すべきと思うことというのは、あることを信じた結果それが正しいと思った日本の人の観点であり、アフリカの人の信じていることから始まっているはずの行為を、その信じていること抜きに、非合理的だ非効率的だ非科学的だと、信じられていることが何なのか、を信じてみることが大きく欠けたまま評価されていることが多いような気がする。

というように書くと、僕が科学は全く駄目だと言っているようだが、そういうわけではない。僕も十分に科学を信じている。誰が作ったのかもわからない食べ物を、何の警戒も無く食べるのだ。エレベーターにだって、電車にだって乗れる。携帯電話を見ながら道路も歩ける。

ただ、自分が接する、自分が信じることを無意識に信じてしまっていては、他国が独自に信じていることがあるだなんて考え方はできにくくなってしまう。これが、前段の難しさを隠してしまう。難しさが隠れてしまうから、アフリカの人に、これが正しいと主張できてしまうのだ。

ここまでくると何となく連想できると思うけど、この話は国の差だけのことではない。僕とあなたが信じていることが違うというのは、このぐらいの影響力があり、難しさを含んでいる。難しいけれど、仮に、この違うということを頂点においてみれば、差別というのはまっとうなことかもしれない。でも、これを頂点に掲げても駄目な気がする。掲げるようなものはもう機能しない。機能しないというか、機能するための無理は日本ではしばらくはできないんだろうし、やらない方が良いと思った。

 

もう一つ例えてみる。

ある男性が言う。

「私はこの村で魚をとってくらすほか無いのだ。」

こう話しているのを聞いて、差別に似たような感覚を抱いてしまうのは、少しおかしいのだろう。今は、こんなに楽な仕事があるし、あなたの年齢ならこのぐらいの年収が得られるはずだ、というようにその人を評価をするようなことではない。彼が、魚をとってくらすほか無い、ときちんと信じている限り、それはそうなのだ。

この違いというものが、自然に受け止められないと、いつまでもどこにもいけないと思った。それは、富や地位があってもなくても、生きている事に対する実感を感じられていないと言えるかもしれない。

この生きている実感というものは、すごく儚くて、なんかずっと持てているような顔をして、さらーっといなくなってしまう。だから、ずっと思っていないと、すぐよくわからなくなってしまうことに思える。

違うということは、とても難しい。でも、それが面白いとも思う。

 

電気を作る仕事をつくる / Making Job Anybody Can Make Electricity

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近頃、興味がある方向で、考えている企画をひとつ。

これ自体を思いついたのは結構前で、思いついた当時面白そうだとは思ったんですが、それほど深く考えていませんでした。が、少し前に書いた紙の話を考えていたときに繋がりが深かったので、この手のプロジェクトは良いかもと思い、いくつか思いついた内の初めの、これからまとめてみました。

この企画は、ビル単位での電気に関することです。そんなに複雑な話ではありません。ビルでは人が住んだり働いたりしています。とにかく色んな人にビルは使われています。そして、その中では必ず電気を使っています。そこで、そのビルに関わる幾人かの人で、その電気をまかなうことはできないだろうか、と思いました。で、上の絵の様に、屋上(じゃなくても良いですが)に自転車(じゃなくても良いですが)が置いてあって、それをこいで自家発電です。そのために人を雇うってのも良いです。

紙の作り方についての、木や紙の移動を少なくすることに軸を置いた作り方と同じ発想で、電気もその場で作れるなら、それが一番良いと思ったのです。エネルギーを作る行為としては、確かに効率的ではないかもしれません。でも、エネルギーを作ることにまつわる社会の流れに、より良い循環を生む可能性は大いにあると思っています。それはそのまま、使い方にも影響がある。膨れ上がった物事がシェイプされていくこともあるでしょう。

今、僕たちが接している技術には、便利なものがたくさんあります。誰かしかできなかったこと、ものすごく手間のかかっていたことを、とても効率的にやれるようになっている。そんな、今ようやく手にすることができた技術をもって、今まで軸になっていた効率性を別の良さに変換できれば、色んなことがぱっと明るくなるんじゃないかと思っています。

何においても、動かすためだけに使うエネルギーというのは、色々と差し引くと結局無駄が多かったり健全さが欠けているような気がします。集めて一気に作って各地へ届けることより、使う場所でそれぞれが作り賄うことを大切にする。この手のプロジェクトと書いたのは、こういう方向性で、社会の中でやれることがあるという括りのことです。やれそうなことは、とてもたくさんあるだろう、と思います。

白を求める / Want A White

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これは、具体的ではありますが、一つの例えのようなお話です。

白さを目指す気持ち、というものについて考えていました。今まで受け継がれてきたその気持ちは、生活の色んなところにちゃんとあって、しかも僕たちみんなのそれぞれが大切にしている価値観の底にも、きちんと残っています。

なぜ目指すのか、は、また考えるとして、白を求める気持ちというものが芯にあるのに、アレコレしているうちに色んなものがくっついていてきて、いつからか大切にしていた芯を大切にできなくなってしまっているような状況もたくさんあるように思います。こういう状況になってしまっていることに気付くこと、なってしまった後どうすることができるのだろうかと考えること。こういうことはとても大切なんだろうなと思います。

と、このまま面倒な複雑な話にいかずとも、シンプルなことが一つあります。忘れてはいけないことは、例えになってしまいますが、おまんじゅうを白くつくることの難しさと、それをお供えしたいと思う気持ちなのだと思います。それがあれば、これからも変わらず白を求めても、決して悪いことにはならないと思いました。

この白に対して求める気持ちについてアレコレ考えていると、根本は宗教にあるようにも思えたのですが、そうではないのだと思います。倫理というと難しいですが、それに近いようなものじゃないかと思っています。ミラン・クンデラの本に出てくる「神を信心していなくても、ある侮辱的な思考が神に対する冒涜だと思える」ことに似たようなものなんじゃないかと思いました。(この話はそんな気がするという程度で、もうちょっとこのまま考えようと思います)

そして、この気持ちの根本は、命の安定を目指してきたこれまでのこと全部、そういうことと何かしらの相関関係を持っているような気がしています。なぜ目指すのでしょうね。人によって、地方によって、国によって、多少の差はあれど。不思議なことです。

あと、惑わされるのは、今の世界には単に色が白いだけのものが圧倒的に増えたこと。色については技術的にそれが容易になっているんですが、難しいことを乗越えて得る白という感じ必要なんでしょうし、そもそも数値が表す「白」という色だけのことではないように思います。今で言うと、白は何もしていない状態を指すことも多いですが、そういうのも、色んなものがくっついた結果なんですよね。そこに惑わされず、色の問題やシンプルかどうか、ということではなく、白を目指したいなと思いました。

人 紙 森 山

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少し前からFSC(Forest Stewardship Council)森林認証紙を仕事で使おうかなと考えはじめていたところ、タイミング良くFSCフォーラム2010というものがあり、話を聴きに行ってきました。話題としては紙に限らず、建築や家具に使うような木材も多く扱われていて(椎茸の原木なんてのもありました)、色々な業界の、大きなことをやっている方たちのお話で、ためになるお話も多かったように思います。

FSCを簡単に説明すると、どこで育ち伐採された木を材料につくられた物かを明らかにできるような仕組みで、その過程を明確にするため、木の育て方や山の管理の仕方から審査をして、例えばこの山で伐採された木材でつくられたものならFSCマークを付けても良いですよ、ということを認証するような制度です。つまり、FSCマークがついた物は、山をきちんと管理する人が作ったものだから、その人たちが続けてがんばれば、自然はちゃんと維持されるはずである、という感じでしょうかね。

今回のフォーラムを聴かせて頂いて、FSCがリサイクルマークと同じような、とりあえず付けておけば良いという程度のものとして広がると良くないだろうなーと思いました。リサイクルマーク自体を否定するような気持ちは無いのですが、存在が軽くなればなるほど、偽証偽装などの問題が出てくる可能性は高くなるはずです。

現状でどんな実態なのか詳しくはわかっていませんが、FSCというものがあることで、世の中がどう変わるのかをきちんと意識した上で皆が接していけるなら、良い形に向かっていくような気がします。その過程できっと、世間にもちゃんと受け入れられるようになるんじゃないですかね。

ちなみに僕の今のところの捉え方は、FSCが森や山との付き合い方について考え続けるための機関になると良いと思っています。利用者、というか世間が支持することにより生まれるFSCに絡む事業者の売り上げの一部を使い、森や山との付き合い方を考える原動力となったり、実際に動く仕組みになったりするような変化が起こる、そういう機関というか仕組みがFSCだというような捉え方ができると良いということです。

また、現時点でFSCを踏まえた具体的な動きとしては、紙の使い方よりも、紙のつくり方に注目していければ良いのではと思いました。今の紙は最終的な役割を果たすときまでに移動を繰り返していて、もしその移動を最小限に抑えられるような紙のつくり方ができれば、使用しているエネルギーは今よりもかなり減らすことができると思います。

簡単なところでは、使い方によって、つくり方を変えるようなことはできるんじゃないかと思いました。学習用・家庭用の紙に、製品用・広告用の紙のシビアさは必要ないでしょうから。むしろ、手元にあるものは味がある方が良いとも思えます。成長の過程で育まれる、馴染みのある紙に対する思い入れは、人生の色んな転機において、良い気持ちを生むかもしれない。違う土地で暮らすとき、ああ、僕はあの紙が好きなんだなと思うかもしれない。そういうものが、森や山との付き合い方を考える過程で生まれるなら、そんなに素晴らしいことは無いだろうと思います。

そして、こういう捉え方や想像は僕がそう思うというだけで、人によって違って良いのだと思います。違った捉え方でも、きちんと考えて支持をして、それがフィードバックされて、全体がある方向に向かうことが大切なんじゃないかと思いました。

FSCのウェブサイト

ちなみに、MFCというものもありました。魚の形のロゴだったので、Marineなんでしょうね。魚の認証は難しそうだけど・・・。

で、調べたところ、やっぱり魚でした。MFCのウェブサイト。イクラが具合悪そう・・・苦笑

記憶の仕方 / How to Memorize

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2007年5月3日に書いていた記事を公開します。2年半前か。こういう書きかけの記事とか記事にできていないのって、溜まって行く一方で・・・。今までは翻訳する時間が見つけられずにお蔵入りってのがパターンですが、最近は翻訳できない事を開き直りつつあったり。まあ何にしろ時間が経つのは早いものです。光陰矢の如し。

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PCを使う事で人間が失った事

PCを使う時、ほぼ間違いなく文字入力をします。
この文字入力っていう仕組み、慣れすぎるとワープロ病と呼ばれるようなものをもたらすとも言われるんですが、なんかひとごとみたいに感じていました。ワープロ病というよりも、この入力するという行為は、PC相手じゃなければ言葉を発する事とほぼ同じなんだと気がつきました。とすると、IM(インプッドメソッド)と言われる仕組みが、その言葉を発する部分をサポートしている形になります。無意識に、この仕組みを自分の思考に混ぜているんじゃないかと思ったんです。とすると、なんか失ってそうだなぁ・・・と思いました。まあ、実際に言葉を発するときにどういう経緯で言葉が発されているのかを、具体的には知らないので、なんとなくなんですけどね。でも、気がつかないうちに、僕らは機械の体(というか頭)になっているとも言えますね。
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ということです。この話、この当時から改善されていないなぁと思いました。単純に言えば、漢字変換のとき、よく使われる候補が5個ぐらい出てくるじゃないですか。あれって、効率の良い文字の入力と思えば当然あれで良いのですが、僕らが字を書く時に使っている頭の使い方とは全く違うなと思います。(これについてはまた書こうかなと思っていますが、よく言われる「直感的」というのが、それって本当にそうなの?ってことに近い感じのことです。)これは、僕らの記憶の仕方が変わった事に起因しています。

記憶の仕方が変わったことについては、このときに思う事があったのですが、その方法としては、あそこのあれをこう辿ればこの情報にたどり着く、という覚え方になっているのだと思います。それって、ちょっと前の情報の壁のところでも触れていますが、情報を構造化してインデックスとかキーワードで覚えているようなものなんだと思います。構造化して覚えるのが良いこともたくさんあると思うんですが、例えばこの「文字を書く」についてはその方向ってかなり怪しいなと思います。

記憶の仕方って、成り立ちなどを解釈して覚えるというやり方と、反復して覚えるというやり方があると思うんですが(偶発的には他にもあると思いますけど)、反復の場合、覚えられる理由とか効率とか、そういうことに関係なく、因果律に従って反復すると覚えるものだ、というものなんだと思います。逆に言えば、反復しないと覚えられないこともたくさんあります。解釈して覚える手法が効率的で最上だという考え方でいると、反復する事に意味を見出せないがために止めてしまうということもあるというわけです。例えば料理なんかも、ある材料にこの栄養素があるから、科学的にこう混ぜて摂取すれば、ほら健康に良いでしょ、なんて考えて接していると、それはもう大変な事になりますね。僕は学校で学ぶ事の多くについて、それほど肯定的ではないですが、この反復がもたらす記憶というものは、いくつかある学校で学ぶ事ができる大切なことの一つだと思います。

話は続きますが、最近はメールを書くにしても、スタンダードなIM以上の機能が付加され、パターン別のひな形とか、便利な予測変換とか、Googleが発表した多くの人が使う表現を呼び出してくれるような機能とか、そういうものが多くて、ますます反復が非推奨されているように感じます。

メールをもらったとき、ひな形とか予測変換とかって、使ってるのわかるときがありますよね。当然誰も見ていないので、便利なら使ってしまえば良いんですけど。ちなみに僕は使いません。あ、嘘。携帯で予測変換は使ってるかも。笑 全体としては、徐々に相手に対するメッセージの責任というのは薄くなり始めているのかもしれません。自分の都合は大切なのもわかるんですが、もう一歩下がって付き合えないものかなと思います。まあ、楽をしているっていうわけじゃなく、他のこと(レスポンスの早さとか、メールに表現力が無いと思っていることとか)を大切にした方が良いと思いすぎているせいなのかもしれませんが。

あ、記憶の仕方、じゃない話になってますね・・・苦笑

一回性 / The Only Once

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僕らの時間の使い方は、ここ数十年で大きく変わったように思います。

都合の良いタイミングで望むことができること。

これは、従来1アクションでやならければならなかったことを、中断・再開ができるように細かく分け、可能であれば巻き戻すこともできるようなものを目指してきた結果、こういうものを良しとする社会があるのだと感じます。

基本的には悪いことではないのですが、例えば、植物の生長や動物の成長のような速度で行われる行為は、安定しているが不可逆で、一方、人の生活の中ではそういう速度を用いないで、擬似的に可逆な状態を作っている現状があると思いました。

この話、冷静に言ってしまえば、一回性の貴重さを思い、逃したくない、失敗したくない気持ちになってしまったがために、はじめから一回性を失うことに繋がってしまっているように思います。文化だって思想だって常識だって、今でも間違いなく不可逆に動いているのです。

僕が感じるに、ですが、この、欲してきた一回性は珍しさのことで、失ってしまっている一回性とは全くの別物だと思えます。その失ってしまった一回性は、自由とか思いとかなんじゃないかと思いました。可逆を意識するよりも、不可逆を許容する方が自然なことだと思いました。

この話を少し膨らませると、子と一緒にいる親が携帯電話を使って、誰か、もしくは何かと繋がっているとき、どういう気持ちなのだろうということを考えるきっかけになり得ます。色々と大変なこともあるので、その気持ちも何となくは理解できるのですが、こういった少しおかしい風景が、身の回りに多くあるような気がしました。

情報の壁 / Limits of Information

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僕らが生きている世界には、情報の壁というものがあるなぁと、ここ数年感じています。

これは、簡単に言うと、僕が生きている中で知らないことは山のようにあるという、至極当たり前なことです。つまりは、どんな人でも一生触れることができない情報があるということです。

この壁というのは、完全に人間の能力を超えたもので、抗い難いものです。すごく極端な状況を想像すれば、間違いなくそうなんですが、そこまで極端じゃなくても、例えば、僕の中で最大限な、幸せに生きて死ぬための情報の全てに触れることはできるんじゃないかと思えたりもします。

でも、実際は「これを知っていれば」ということがたくさんある状態で、みんな生きています。だから失敗もするし、成功を喜べるという状態もあるんでしょう。全体としては、「知っていれば」を極力無くそうとしていますが、これはなかなかできることではありませんし、失敗と成功という考え方からすれば、無くなると困るものでもあるかもしれません。

で、この話のまま続けると情報の壁と違う話になってしまうので、話を少し現実的なところに移します。僕が感じている壁というのは、何故生じているのかを考えました。

とても身近に、「なんで、僕はこれを知らなかったのか」とか「なんで、あの人はこれを知らないのか」ということってたくさんありますよね。これについて思ったことがあります。

この壁というのは、結論から言うと、個々人の個性や価値観に因っています。これは、ある意思をもって即時にその壁を克服できないことを意味していて、流れていくしかないような流れがあると思えます。

ここまでは、僕がそう感じたというだけなのですが、今の情報という捉え方は非常にもろいものなんじゃないかと思ったことから、この考えははじまりました。

情報についてまず思ったことは、情報には構造があるという点です。それは、ある事柄について、何から発生して何を示しているか、どういう影響があるかなどを、わかるように成立させるための組み立て方です。この情報の構造という考え方が、怪しいんじゃないかと思いました。

勘以外で、なぜそう思うかというと、構造化すると消去法という考え方ができてしまうからです。消去法というのは僕も良く使っているのだと思うのですが、一歩下がって考えると、消去する時の僕は、違うであろうという気持ちでしか消去ができないのです。欲するものを探すにあたって、その欲するものを知らないのに、これは違うという判断はおかしいんじゃないかと思いました。

漠然と情報と言っているとわかりにくいかもしれないので、Google検索で考えてみてください。検索する時に、ある言葉で探そうとしますよね。そのときに、たくさん言葉が思い浮かぶと思うんですが、思い浮かんだ言葉の中から、必要ないだろうという言葉を消去していると思います。もちろんこの話は普通のことなんですが、知らないのに知っていることになっているのって不思議ですよね。もちろん、この不思議がいわゆる「勘」というようなものとして、状況を好転する(欲しい情報にたどり着く)こともあると思うのですが、本当に欲しい情報に辿り着いたかどうかは定かではありません。ここに、情報の壁ができる要因があると思ったのです。そして、この気持ちを導いているのはその人の個性なのだと思いました。

まあ壁があると駄目なのかというとそうでもないのですが、あれこれ思ううちに、今の情報という考え方は少し怪しいと思えたのです。そして、情報よりも体験の方がより僕らにとって大切なものであるとも思えました。わからないことなんて、山のようにあるのです。それは情報があるだけではどうしようもないことなんじゃないかと思いました。また一方で、情報がもっと良い形に変化することもできるようにも思いました。

世界の価値 / The Value of The World

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たぶん、お金の話の延長上だと思うのだけど、先々月ぐらいから、ちょっとわからないことがある。僕が大切にしたいこととは違う(これがあっての大切なこととも思うのだが)し、相当に無理矢理な感じで考えているのだけど、僕が生活しているこの世界全ての計測できる価値というものについて、考えていた。発端は、その価値の総計は一定ではなく、膨らむ一方であるはずだと思ったこと。

資源は価値を生むことから、資源自体にも価値がある。資源が変化した後それ自体の価値を減らすこともあるが、違う価値を創出することも、それ自体の価値が転換され増えることもある。ただ形を変えた後の価値の増減は色々なので、仮に、資源の価値と、ある変化があった後の資源の価値とそれが生んだ価値を合わせたものを、同等だとする。

いわゆる資源というと石油とか鉄とかが思い浮かぶが、生命も資源だとする。上述と同様に、生命自体に価値があり、活動により創出される価値もある。

ということは、生命が生まれて死んで生まれるほどに、世界の価値は膨らんでいくと想像ができる。簡単に例えるなら、歴史の教科書に沿って測った価値と、それを半分ちぎって測った価値では前者の方が多いと言える。

では、価値というものが、膨らみ続けるものならば、そこに大切さはあるんだろうかと思った。これは、価値あるはずのものに価値が無いと言いたいわけではなく、価値あるものも大切で、価値が無くても大切で、価値自体に大切さは無いということを思ったのだ。

ここで、はじめの資源についての仮定を変えてみる。「同等だとする。」を同等ではないというか、資源とそれが生み出したものの価値が下がるものと仮定すると、生命の活動による価値の増加を考えると、全体としては、均衡を保つか、減少することになる。

まず、減少するとすると、あったものが無くなることになるわけだけど、そんなことがあり得るのだろうか。僕はやっぱり減ることは無いと思う。そうなると、均衡を保つことになるのだけど、減りも増えもしないものと、生命の活動により増え続けるもので考えると、やはりどんどん増えていくことになる。

ここでさらに、「生命の活動により増え続ける」という仮定を考えてみる。生命の活動により、減るか、減りもしないという変化があるとして、減る場合、活動の価値を上回るマイナスの何かがあることになる。減りもしない場合、活動の価値を帳消しにするマイナスがある。

こうなると、死ぬこととは、生きていた生命の価値がそのままそっくり以上無くなることに繋がりそうだ。普通に考えて、そんな訳は無い。となると、生きながらにして、価値を減少し続けることが思い浮かぶ。

そこから考えると、ある形状になってから時間が経過すると、資源や生命から価値が減るということだろうか?なんか、だんだんと気にするような話題じゃ無い気がしてきた。

そこをもう一歩突っ込んで、生命ではない資源について、資源自体とそれが生み出した価値は、減っているということを認めるとする。それはつまりどういうことか?人間に限らず、生命が資源を使って活動した結果は、価値が減っているということになる。

あとは、生命と生命でない資源のバランスで考えていたが、その両者が均衡がとれるようなものでは無い、つまりどちらかが高価値で、どちらかが低価値なことも想像できる。

ここまでくると、今回は、自分でも本当によくわからないです。でも、気になるのは何でだろうか。うーん・・・意味不明ですよね・・・すいません。

塩尻市考察 / Thinking About Shiojiri City

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今年の前半、長野県の塩尻市について色々調べていました。一旦、内容をまとめようと思い、記事にします。

塩尻市の人口は7万人ほど。松本市の隣であり、諏訪湖も程近く、ワインの製造が盛んなところです。また、名古屋・新潟・東京の3方向から伸びた鉄道と道路が交わる場所でもあります。(Wikipediaに色々としっかり書いてあります。)


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塩尻駅近辺には、大門商店街という商店街があります。主には、この商店街を中心に、何ができるだろうかを考えていました。

最近はどの地域でも似たような現象が起きていますが、大門商店街も例に漏れず閑散さが目につくような、いわゆるシャッター商店街に近い状態になっています。ただ、朝晩の車通りが比較的多そうなことや、市役所が近いという点においては、本当に寂しくなってしまった場所と比較するとましなのかもしれません。イトーヨーカ堂もあります。(と思ったら、閉店しています。中日新聞:土地建物の購入申し入れ 塩尻店閉店でイトーヨーカ堂:長野(CHUNICHI Web)。その少し前には西友も撤退しています。)

20〜30年ほど前、大門商店街は活気があったそうです。それは、今の商店街の姿とは少し違っていて、区画整理される前のごちゃっとした、賑やかな商店街がそこにありました。塩尻駅の場所も今とは少し違うところにあり、駅の移転から始まり、周辺が整理され今に至っています。

そして来年にはえんぱーくという、図書館機能を備えた市民交流センターが完成します。これを機に、活性化したいとみなさんがんばっています。

色々とやれることというのはあると思うんですが、ここでは僕が感じたこと(具体性はあまり無いです)を書いてみようと思います。

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僕は塩尻のことを調べるにあたって、まず市役所のウェブサイトに載っているような情報を見ました。次に、主に昼の時間を使って、現地を4〜5回歩きまわりました。本当は少し生活してみることができると良かったんですけどね。歩いた後に、今度は歴史のことを少し調べました。その歴史を見ていて、なるほどと思ったことがありました。

江戸時代に整備された中山道という、京都と東京日本橋をつなぐ道が塩尻を通っています(今も道路があります)。この道は、東山道という道が整備されたもののようですが、その往来により、塩尻の周辺は徐々に栄え始めたんじゃないかと思います。中山道に沿って、休みたいという皆の思いが集まって、休憩できるところができ、その場を提供する人が暮らし始め、様々な需要が生まれ栄えて宿場町ができました。

(今も、奈良井宿という場所は観光地的にというか、普通に暮らしている方が結構いるようです。とても良いところでしたよ。鳥居峠も越えましたが、普段、山登りをしないようなコンバースの僕でも、3〜4時間ほどで越えられるので、観光のついでに散策すると良いと思います。ただ熊対策で鈴は付けてました。前に書きましたが、クマではなくカモシカに会いました。僕は会いませんでしたが、やっぱり熊が出没してる(2009.10.17)みたいです。)

現在の塩尻駅は、各宿場町とは少し離れているのですが、3方向からの道がぶつかっている塩尻という場所について思い当たったのは、「この土地は多くの人に歩かれてきた」という実績を持っているんだなということです。そして、今みたいに道路や線路が通る前、そこに住む人たちは、その需要供給の渦がある状況を含めて、多くの人が歩いていくことに慣れていたのだと思います。それが生活の仕方(見知らぬ人と接することとか、自分たちの生活にもたらすものを組み込むこととか)にも影響を与えていたんじゃないかと思いました。

この話、見知らぬ昔の話じゃないと思うんです。今ならまだ、その影響はそこでの生活の中に残っているんじゃないかと思いました。車の社会になったのなんて、ここ数十年の話です。今、僕たちは、車のある社会の前の社会を生きていた、70〜90歳以上(ぐらいじゃないかと)の方々と接することができるわけですから、塩尻の心を感じることができるはずです。

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こういうような話は塩尻に限った話ではないと思います。完全に想像ですが、20〜30年ほど前の活気のあった時代、日本各地でこの「心」は特に感じにくくなってしまったんじゃないかと思いました。その後の今ですから、その古き良き時代を思い出して、それを再現できるようにがんばるのも良いのですが、僕はそれよりも前にあった心から思い出し始める必要があるんじゃないかと感じています。この20〜30年というのは、社会全体が酔っぱらっていたようなもので、完全に良いものだと信じきるには少し無理があるんじゃないでしょうか。これは誰が悪かったとかって他人の話じゃなく、僕らも生きていたこの20〜30年を、個人的なとても小さなことも含めた事実や経験を信じ込むんじゃなく、さらに昔の流れから今に至るまでをきちんと反省(ごめんなさいってことじゃないですよ)する必要があるんだと思います。

逸れ始めたので、塩尻の話に戻りますが、塩尻が発展したそもそもの理由というか、塩尻の個性というものの真ん中には、やはり各地から交わっているということがあるのだと思いました。この場所の特性を切り口に、やれることを考えると良いように思いました。

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いきなりフランスみたいに、ワインの醸造所が試飲を動機に、食事とか宿泊の提供をはじめる、なんてのは難しいかもしれませんが、人を集めるのに、真ん中にあるのは都合が良いことなのですから、小さくても動き始めることが、いつしか流れをつくるんじゃないかと思いました。単純に、仲の良い3人組がいるとして、3人で遊ぶなら、中間地点の家で遊ぶ可能性が大きい訳です。この動機は単純すぎて、話だけ見るとそれだけで??って思ってしまうぐらい中心の動機と思うには弱いことですが、僕は自然なことだと思いますし、自然なことって、特に遠くから見れば弱くみえるんだと思います。

最後に塩尻の町の写真はまとめてここで見れます。平出の泉がすごく綺麗でした。

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正義とか矛盾とか / Justice, Absurdity...

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随分前から、正義というのは随分と範囲が狭いなぁと思っていました。

正義の反対は悪。悪はちょこっと良いことをしてもやっぱり悪だと言われますよね。でも、正義は少しでも悪いことをした瞬間に正義ではなくなります。正義と悪、反対の意味として捉えるには、ちょっと性質が違いすぎると思いました。

でも、善悪というぐらい、正義(善)と悪は昔から対照的に使われています。ということは、正義の反対が悪かどうかということを疑う前に、悪の反対としての正義の捉え方が違うのかもしれないと思いました。

つまり、これこれが正義であるというのは、何かの理由にはならない可能性があるということです。この実感は、僕たちの中に間違いなくあるように思います。が、逆にそれに従えず、その正義の理由付けに従っている現状もあります。

これは、正しいと誤りの間にも言えそうですね。正しいからというのは、正義と同様に理由にはならないのかもしれません。

では、正義とか正しいというものは、どういうことを言うんでしょうね。多くの人が良いと思うことかな。なんか違う気がする。あと、理由としては何がふさわしいんでしょうか。

わからないことは少し置いておいて、矛盾という言葉について考えます。矛盾って、これとあれが合致しないという状態を言うのですが、その話は矛盾しているという感覚は、ずれてしまった正しさを軸にした時、それは誤っているから正しくないじゃないかという感覚に因っているような気がしました。それって、前述の話を踏まえたとき、絶対的なものではなくなります。

そして、矛盾という言葉も昔からあります。つまりは、僕たちが捉えている意味が違っているんじゃないかと思いました。本当の矛盾って何だったんでしょうか。

最強の矛と無敵の盾。貫けない訳にはいきませんし、壊れる訳にもいきません。この話はこんな風に語られることが多いし、僕らの頭の中でもこの状況は想像できます。でも、ちょっと現実的に想像すると、矛と盾がぶつかったとき、何も結果がないわけがないですよね。貫けなくとも、壊れなくとも、現実的な可能性としては、どちらかが少しは傷つく、もしくはどちらとも全く傷つかないことが考えられます。で、これをもっと厳密に想像すると、水が石に穴をあけるように、傷がつかないはずがないんです。衝突は、何もないようでいて、きちんと影響があるものです。その影響がどちらに優位に作用するかは、時の運とまでは言いませんが、そのときの状況がそれを決めています。

ここから僕が想像できる、矛盾という言葉は、どちらに転ぶかわからないね、ぐらいの意味に近いと思います。その話、矛盾しているね。つまり、どちらかに可能性があるわけですから、矛盾という言葉で、その正誤を決めることは良くないのかもしれないと思いました。

矛盾しているけど、もしもやってみるのが良いと思うなら、やってみる。これが一番素直だと思います。あとは、矛盾しているからそれは駄目だよという考え方や決断は、やめた方が良いのかもしれません。

何かの時にも書きましたが、良いかどうかを感じることを思い出すことが、僕は第一歩だと思います。良いかどうかというのは、自分のことじゃなくて、自分を含めたその状況が良いかどうかを感じようとすることに近いんでしょうね。ちなみに、こういうことが許されない状況というのは、やっぱり少しおかしいと言えそうですね。

前回の話に引き続き、最近気になる、変わってしまったのかもしれない言葉の話でした。

心と気持ち / Heart And Mind

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気持ちと心は別のものなのかもしれない。

僕は小林秀雄さんの本を本当にゆっくりだけど少しずつ、何年か前から読んでいる。小林さんの大和心の話を聞いて、初めてそんな風に思った。心というものを、いつから気持ちだと思うようになったのだろう。

気持ちとは、僕やあなたが(頭の中ででも)日常的に具体化できるもので、各々の価値観に基づいてつくられることが多い。わかりやすいところで、コレいいなとか、アレいやだとかも気持ちである。

心は、全ての存在という存在に備わっている。人の心。世の心。花の心。犬の心。水の心。雲の心。宇宙の心。という具合に。

これらの心というものは、気持ちとは別にあり、気持ちのきっかけになるようなもので、自分の中にあるものだが、いわゆる自分のものというわけではなく、大きく言えば、一つであるとも言えるのだと思った。

少し前に、タコの足は、頭の命令を受けて動いているわけではないという研究をみかけた。そのことだけは研究してわかったようだが、その複雑な繋がりは解析が難しいらしい。タコは頭で考えて生きようとも思っているが、体全体の各部位でその意識を共有している。それらは心と言えるんじゃないかと思った。

これは、タコだけにあるものの話ではなく、僕らも同様に持っている。どうしても僕は、心は間違いなく大切なものだと思えるのだけど、多くの気持ちはそうでもない気がしている。感じたという感覚から思いをやった結果を気持ちだとすると、感じること自体は芯になる大切なもので、思いをやるのは時々で違うのだから余り信じすぎない方が良いのかもしれない。もちろん、無駄なものなんかではないが、そこに強く意識を置きすぎることは、信じることを難しくしてしまっているのかもと思った。歯止めがどんどん利かなくなる方向なんじゃないかと。

経験上で思い出してみると、気持ちや感情を抑えるとはよく言う表現だが、心を抑えるは違和感を感じる。これは、心が抑えられるものではないという認識が、僕らの中にまだ残っているからじゃないかと思った。

心も自由と同様に、都合良く解釈をしてしまった言葉で、それを僕らの「ここ」にあるものと思い込み、それを正当化して辛いことを回避しているだけなのかもしれない。よく気がつく、「ここ」にあるものは気持ちであって、それは個々人にとってはとても大切な、個性に繋がるようなものなのだけど、少し離れてみて自分を含むそこらへんを考えた時に、必ず重視するべきだとは言えないと思える。むしろ心とは逆行していることもあると思った。

というのも、僕らは何かを我慢ができるじゃないかと思ったのだ(さらに言えば、ポジティブな意味で、僕らは直接的に何かをどうにかできることは無いってことも手伝っていると思う)。それをネガティブな「我慢する」と捉えているのは僕たちで、それがまさに自由に繋がっていると意識することもできると思う。因果応報だって、輪廻転生だって、そういうことなんじゃないかと思った。

となると、流行は心かもしれない。そうなのかなぁ・・・。どうなんでしょうね。あと、加えて一つ思うのは、自分以外の気持ちと自分の気持ちを同様に捉えてはいけないということ。強く意識を置きすぎることをしない方が良いのは、自分の気持ちだけで、人の気持ちにはちゃんと意識を持っていたいと思いました。

過食論 / Effect of Overeating

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主に外食での話ですが、食べる量が多すぎるのかもしれない、と最近よく思います。僕が、というよりか、ほとんどのお店で提供される食事の量が多いんじゃないかと。僕は2/3ぐらいにしても問題ないし、半分ぐらいでも結構平気な気がします。結果の一つを取り上げて言うと、肥満人口は増え続けているという実績をつくった社会があると言えます。

食事の量を決めているのは誰なんだろうと思いました。まあ端的に言えば、作っている人たちになります。ただ、彼らは、彼らの望む生活水準(以上)を満たすための経営をするにあたって、コストとサービスのバランスを決めています。その中で、売りたい量、つまり食べてほしい量が決まる訳です。コストパフォーマンスの高いものを提供している人もいたり、逆の人もいたりしつつ、個々の営業努力や経営方針によって色んなことが絡み合っているので、ボリュームの大小だけ取り出して考えるには、少し無理がありますが、それでも、それら全てをひっくるめても、ある生活水準を守るために必要なボリュームというのはあるのかもしれません。(お金持ちの趣味的なところは別で。)

では、提供する人の生活水準を守りながら、食べる量を減らそうとするとどうなるでしょう。食料の価値を上げるか、食料になる前の食材(とそれに付随するもの)の価値を下げるしかないのかな。食料の価値は上げたくないし、食材の価値が下がるのも困るなら、価値の転嫁を行うか、純粋に水準を守らないという手段になります。でも、なんというか、方向としては複雑になるしかないんでしょうかね。何かの代わりにどうとかこうとか、絡まることが良いことにも思えないんですよね。

ちょっとシンプルに考えてみます。の前に、何故、外食産業があるのか。これを考えてみます。簡単な話だと、僕なんかより料理人さんの方が食材に詳しくて、美味しい料理が作れる。しかも、僕が作る手間が省ける。さらに、複数人が食べることが前提なので、原料やエネルギーが効率的。この辺が、わかりやすい外食産業の良さですね。

では、その良さを上手く保ちながら、現状を変えて、肥満人口を減らすためにはどうすれば良いのでしょうか。(あ、肥満人口を減らしたいと言っているのは、その数字が変わると、色んな問題が解決される可能性があるからですよ)

今までの話の中で足りないことは、食べる人のことですね。このぐらい食べると良いという点。食べると良いというのは、成人した男子ならこのぐらいというような、あまり大雑把じゃない基準みたいなのがあると良いですよね。もう少し個々人によった基準。ただ、ストレス発散の食というものもあって、そのあたりが関わると、また複雑さが顔を出し始めてきます。

どっちにいっても、なかなかに難しい。でも、例えばですが、家庭内のお母さんのような、「あなた、このぐらい食べなさい」とか、「こんな時間に食べちゃだめよ」的な発言に沿うような食べ方って無いもんでしょうか。母の愛が成せる業なのかな。

と思いつつも、これは自分で決めるしかないんじゃないですかね。何をどのぐらい食べたのかは、誰も把握してくれないので。逆に言うと、自分で決めるしかないものが個人から社会に立ち表れた結果が、肥満増加な現状なのかとも思いました。それを助長するような、売れるから売るっていう仕組みになりすぎているのが駄目なのかもしれません。

これに乗って、自粛のゆるみの行き先を想像すると、まず食べる量が増えたとします。そうすると少しとばして、食材をたくさん運ばなければならない。運ぶなら、たくさん作らなければならない。作りきれないなら、輸入しなければならない。少しそらすと、食べる頻度が増えるなら、食事を提供する時間・場所を増やさなければならない。そして、これらのことをやろうと思うと、人手がたくさん(エネルギーも)必要になる。人手には、食べ物は必要だ。となると、食べる物をたくさん用意する。という具合に、ぐるっと回りました。スパイラル的に増える方向しかないのかもしれません。であれば、どこかでこの流れを断ち切らないと、食料が尽きる(ことがありえるかどうか、定かじゃないですが)まで、太り続けるしかないですね。それはちょっと怖いなぁ。最近だと、肥満対策に薬をつくるという動きが盛んになりつつあるのだそうで、それはまたスパイラルを強化してるなぁと思ったりしました。まあ、死にたくない気持ちはわかるんですが、難しいですねぇ。

というところで、個々人が少し歯止めをきかせることを考えるはじめる必要があるのかもと思いました。あとは、食べてほしい(売りたい)から売れるという仕組みを、売れるから売るっていう仕組みと明確に区別すると影響が結構あるかもとも思いました。局所的にはそういうお店もあるんだと思いますが、何しろ食べる人にとっては、人生の1食分の関わりでしかないので、その局所で影響を生み出すのは、今でも無くはないですし僕はそういうの大好きですが、それだけだと少し遠いのかもしれません。

そういえば、公的機関による飲食店格付けみたいな計画があったけど、どうなったんだろ。基準が曖昧になりすぎてぽしゃったのかな。

自転車と信号 / Bicycle and Signal

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最近、自転車に乗ってる人ふえたなーって思います。僕の回りにも、もともと好きだった人も、もともとじゃないけど乗り始めたって人も、いろいろ結構たくさんいます。何より、歩いていて見かける人数が多いです。

歩行者の信号無視については、随分昔に書いたことがありました(ちなみに、まだ続けています)が、歩いていてよく思うのですが、信号を無視する歩行者と同じ感覚で、自転車に乗っても信号を無視している人が多いように感じます。

よりスピードが出るから、より思うように進みたくなるのはわかります。僕も高校への通学でそんな感じだったのを思い出しました。でも、より早く進めるのだから、緩急というか、止まるところは止まる心がけがあると良いですよね。あと、人が多いんですよね、東京は。なので、みんな気をつけるといいなーって思いました。

あんまり関係ないですが、自転車に対する感想。地球環境に優しいことかどうかは、けっこう微妙な気がします。車よりは良いですが、(バスが無くならないものならば)バスの方が良い気もするし。良い運動にはなりますね。でも、排ガスには要注意。

律す / Governing Myself

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政治にしても、食にしても、観光にしても、車にしても、律するということが大切なだけなのかもなぁと思いました。日本には良い言葉がありますね。この言葉は、まだ僕らの中にきちんと存在しています。でも、この言葉はきっと、はっきり思い出すことをしないと、忘れられ消えてしまう言葉なんじゃないかと思いました。

自分の都合だけを考えていると、もうちょっと言うといわゆる「自由」であろうとすると、律するという発想は生まれません。自分の都合って何だろうと考えてみると良いだけなのかもしれません。それは、価値観とも言えそうです。でも、価値観という切り口から見るよりも、自分の中にある、律するということを心底信じ、それがある自分を真正面から見てみれば、今の自分と何が違うかなんて、みんな感じていることなんじゃないかと思います。でも、こういうのって難しいですよね。とても。

自民党が守っていたこと / What LDP upholded

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もうしばらく経ちましたが、政治に大きな動きがありましたね。何が変わるんでしょうか。

ニュースを見たり、人の話を聞いたりして、よく耳にしたのは、「今度から○○になる」という話がほとんどでした。国として価値の置き所が変わったことがもたらすことは、○○になるということも当然たくさんあると思いますが、今までの生活と違うこと、■■じゃなくなるということの方が注目するべきだと僕は思ってしまいます。そういうことって、そんなに無いんでしょうか?そんなはずはないですよね。

民主党の台頭により、自民党は守れないことがたくさん出てくると思います(それらがそもそも国民のためだったかどうかはわかりませんが)。その結果をどのぐらいの国民が拒否するかを、民主党は知らないといけないんだと思います。つまり、自分たちが目指す全体像の下地には自民党の今までがあるのです。それを踏まえないと、駄目なんじゃないかと思いました。素人集団なんて言われていますが、そりゃそうでしょう。今まで、色々言われながらもしっかり(?)やってきた人たちから、真っ当な連携無しに切り替わるというのは、普通に考えればおかしいですもんね。そういう連携まで含めてお願いできないもんですかね。

痛みを伴うとか、中途半端な言い方はせず、何が無くなるのか明確にした方が良いと思いました。きっと、かなりわかってるはずです。
まあ、大きな変化を起こさないようにがんばるんだとは思いますが、あの中途半端な物言いがちょっと怖い感じもします。今まで、当たり前にできていたことが、色々とできなくなるんでしょうね。

それと、「自民党は今まで駄目だったから民主党がんばってください」としか言わなかった僕たちが、公約が守れないじゃないか!って民主党を責めるのはちょっと変です。いったい何をお願いした気になってるんでしょうか?できそうかなと思って、投票しただけですよ(僕はしなかったけど)。政治にまでサービスと同様のことを求めると、本当におかしなことになっちゃいます。まあ、それに甘んじるような政治家なら、どんどん責め立てた方が良いですけど。本当に何か言いたいなら、ちゃんと自分なりに動いて結果を伝える努力をしないと、ただただ、駄目だとか、信用してたのに!って言ってると、自民党の今までと結局同じことになっちゃうと思います。そういう努力が、民主主義ってやつなんじゃないですかね。遠くで話すのは、もういいんじゃないかと思いました。

東京 / TOKYO

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この前書いた都市と地方の話から、次に思ったことは、東京について。

東京でも野菜やお肉がつくられているから、地産地消でやっていけるという話を目にしました。新宿とか渋谷とか六本木の真ん中に立ってみれば、そんなことできそうにも無いと感じます。その強い印象を考えれば、地産地消できることに対して、それはすごいね!ってなるのは、まあ何となくわかります。が、それが改めて凄いことなのかどうか、ちょっとおかしなことになっていると思いました。

凄いとか凄くないとかじゃなくて、それを価値の真ん中付近に持てるかどうかを考えることを、地方とか東京というような地域に限らず、自分の周囲で(とか自分の中で)考えてみることが大切だと僕は思います。それが、真ん中付近に持てるなら、それを大切に生きていけば良いのだと思うのです。どっちもほしいと思った人は、もっと考え続けた方が良いと思います。ちなみに、僕はそうです(苦笑)

で、地方にばかり目がいきがちな今だからという訳じゃないのですが、そんな流れをみて何となく、上の話とは逆なんですが、ある地域によったこと、つまり僕が住んでいる東京について考えてみようと思いました。

東京ってやっぱり、かなり変ですよ。ある箱の中にいると、やりつくした感が満載という感じがするのですが、まだまだやってないことがたくさんあります。道路をつくるのをやめて、壊すことを考えるだけでも、畑をつくるとかじゃなく、ぐわっとやれることが増えます。もともとあるものに乗っかり過ぎな気がします。もともとと言っても、そう昔のことじゃないと思うのです。もっと流れによって育まれた、個性を大切に扱えると良いと思います。結果として、東京に日本らしさはなくなるかもしれませんが、もし万が一なくなるなら、それは既にそうなんじゃないかと思います。

生活する場で感じる日本らしさって何でしょうね。僕らの日常で感じる、違和感が無い状態がそれなんでしょうか。前提が何も無いに等しいので、時間かかりそうだな・・・。

もりそば、と、ざるそば / Mori-soba & Zaru-soba

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暖簾をくぐり、
がやがやした蕎麦屋に入る。

空いた席に座り
「もりそばをください」
と言う。
お店の人は愛想良く
「はいよー」
と答えた。

出てきた蕎麦を食べ、
「ごちそうさま」
と言い、店を出る。


その風景を見て思う。
あの人が食べたのは、ざるそばだ。


唐突ですが、この話の裏側はとても面白いなぁと思いました。ざるそばともりそばは違う物であるという前提で、少し想像してみてください。食べる人、注文を聞いて届けた人、つくった人、それぞれの気持ちが交錯します。そして、それを見ていた自分(僕やあなた)はどう思うのか。

普段の暮らしの中で、こういった思いを感じる場面はたくさんあると思います。この話を手がかりに、そういう場面のことも色々考えてみると、自分がどういう風な思考を持って生きている(た)かに気がつけるかもと思いました。自分のことが気になるけど、僕と同様、よくわからないって方には面白いんじゃないかと思います。少しだけ。

漠然と政治・車 / Nebulous Politics and Car

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まず政治について思いました。

もっと、それぞれが違うということを意識すると良いのかもしれない。

国籍や人種というもので分類されている僕たちですが、もっと細分化されていると意識できると良いんじゃないかと思いました。友達になれる人なれない人、好きな人好きじゃない人、そういう越え難い壁みたいなものを、明確ではないが必ず持っている僕らが、地域の違いに因るルールのみでやっていくことは難しいと思うのです。

ちょっと荒っぽいかもしれませんが、人生で大切にしたいことに因った分類を10個ぐらいつくって、それぞれでルールを考える。これを大切にしたい、と思い、それが自分の人生にきちんと働きかけるような、手応えみたいなものをきちんと感じられるようになるなら、とても良いと思うんです。お金の交換の中では無くなってしまっていることが、蘇るんじゃないかと思いました。相当に複雑になるでしょうが、意外と上手くいきそうな気が、漠然としました。

でも、漠然と思ったこれを反芻していると、やっぱり無理かもと思ったり。でもでも、そんなに遠くないような、そうでもないような。


次に、前にエコカーについて考えましたが、また車について思いました。

車に大きく名前を表示するっていうのはどうでしょう。仕組みはあんまり考えていませんが、所有者とそのときの運転手の名前が大きくどーんと。暴走族(今は、珍走団とかダサイ族って言うんですよね。)みたいですかね。

前にもほんの一文書いたのですが、車も自分証明ができると良いと思った物の一つです。事故とか、スピード違反とか、盗難とか、ひき逃げとか、車に関する問題や犯罪はとても多いですよね。車の持つ瞬間的な匿名性を無くすような仕組みがあると、とても良いと思ったんです。白黒はっきりしすぎでしょうか。でも、車のことって相当に大きいと思うんですよ。それがすっかり野放しで、免許にしても誰でも取れるようなものになっていたりするのって、僕はそれってどうなんだろうと思う訳です。

ちなみに、運転がいつまでも下手な人っていないんですか?僕はきっと下手です。下手というか、致命的なんじゃないかと思ってます。文字通り。

と書きながら、渋滞についてはその限りではないかもしれないという研究もあるそうです。何割かの違反者がいた方が、渋滞は解消の方向に向かうそうで。つまり、白黒はっきりさせて違反者が減ったとしても車に乗る人が減らないと、渋滞を促進しかねないっぽいです。なんか、複雑だ。

まあ、政治のことも車のことも、漠然と、なんで。言いっぱなしですんません。

観光・旅行 / Tourism And Trip

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観光や旅行について考えました。唐突に観光について考えたというよりは、前回までに書いたような地方のことを考える延長上に、随分と観光という産業(?)は大事なものとして扱われているなぁと思ったのがきっかけです。

観光と一口にいっても、色んな捉え方ができます。まず、自分視点でどういうことなのかを考えてみます。旅行ってたまに行きたくなる人が多いですね。僕はそこまで唐突に行きたい!ってならない、あまり旅行慣れしていない人です。初めての海外旅行も今年の1月でした。帰省などの移動はちょくちょくしてますけど。一般的には現実逃避的に逃げる人もいれば、似てるかもですがリフレッシュのために行く人もいます。普段触れることの無いようなものに触れたり、好奇心の向かう先に出会ったり、基本的には非日常を求めてっていう感じなんでしょうか。そういうものを体験・体感するために場所やものや出来事を求めて行ったり来たりしています。

仮に、それによってみんなの心のバランスが保たれて、社会は円滑に流動していると考えます。娯楽というか余暇というか、そういう個人にフィードバックされたものが社会へのフィードバックに繋がるような意味合いがあると言えます。

でも、僕はよく考えるんですが、地方に行って、こんなものや習慣があるんだなぁとか、当たり前じゃないことのように思うことがたくさんありますが、それを思った直後ぐらいに、それを当たり前のことに生活している人の気持ちを考えます。そこから翻って、今の生活を見たとき、結構すごいなと思うんですよね。ここからさらに突っ込みますが、それっていつも目にしているものの、その裏側にもとてもたくさんの驚きがあるということです。普通に使ったり食べたりしていますが、相当に特殊なことです。ただ、そういう逆の立場になったときの方が、その逆にあるもの(というのは自分の身の回りのもの)を見て、そこに個性があると言って良いのかはためらいますが、違うということはよりはっきり意識できます。

次にもっと漠然と考えてみました。この話を考えはじめた実感から考えてみると、お金が移動しているようなものかなと感じました。お金がたくさんあるところからあまり無いところへ移動する率が高いように思います。まあ、これは一概にはそうも言えないので、とりあえずは有る無いは関係なく移動しているわけです。その結果、どこかに溜まったり、どこかにはまったく溜まらなかったり、あるところでは消えちゃう(?)ようなところもあるんでしょうね。

この話をもう少し良く言うと、植物の種が動物の体を使って広がるように、人を使って知識とか文化とか感情とかが広がっているのだと思います。ある地域の当たり前が、色んな所からやってきたものの影響で変わったり、逆に色んな所に影響を及ぼしたりするわけです。今の社会で大切なものの一つのお金は、こういうものと一緒に動いてしまうので、結果としてお金が動いていると感じたのだと思います。

で、この二つの視点で考えた後に、観光って僕らにとってどうだろうと思ったときに、僕は少し無駄遣いしているのかもと思いました。自分視点のところで少し盛り上がりかけましたが、非日常かどうか、当たり前じゃないかどうかなんて、大体のことは日常的で当たり前なものなんだと思います。それらのある違う状況を含めた体験のために、僕らはとても大きな力を使っています。少し力が入り過ぎじゃないかと思いました。

かといって、無くして良いものでもないように思うので、何かちょっとした努力でその力加減が和らがないものかなと思いました。例えば、随分前に明治神宮の初詣に行ったとき、初詣のように無くなることがほぼないような流れの中の、こんなに多くの人の足踏みが何かに変わるのなら、それはすごいことかもしれない。その当時の僕は(今も)安直なので、みんなが踏んでいる石畳の下にめっちゃ大きな風船みたいなのがあって、上から踏むことで、その口から風がぶおーって出て、その力が電気に変わったり、動力に変わったりすると良いのになぁと思いました。

ゴミの話でも考えていましたが、無くならないものは無くならないもののために上手く使えるととても良いのにと、観光についても思ったのです。そういう影響力を持てれば、僕が感じた力加減は和らいで感じるんじゃないかなぁと思いました。

ちなみに、観光という無くならないものを、ちょっと前の山の話につなげて、山との折り合い方なんかを考えてみると良いなと思いました。効果の期待値が未知数過ぎるのであんまり現実的じゃないですが、山に入った人は少しでよいから間伐してから出て行くような決まりなんかがあると良いんじゃないかと思うんです。この話はもっと考えようがあると思うので、もう少し時間をおいたり調べたりして考えてみます。

汲むこと / Having And Considering Everything

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最近は、地域というものを地方と都市という大きな二つで捉え、その地方というものを見直そうという動きが盛んですね。内側の動きとしては地産地消とか地域ブランディングとか銀座あたりのサテライトショップ運営とか、外側の動きとしてはお土産や特産品を集めてどうこうみたいな企画とか雑誌なんかがよくあります。こういう、今までに見出されていなかったものを新しいものとして、より多くの人が知る機会をつくるようなことをもって、今まで培ってきた地方の良さを見直すというやり方が盛んなわけです。

これに対して、僕はあまり良い実感を持っていません。というのも、なんというか、今までは情報が集まっている場所において珍しいものを探していたのだけど、情報が集まっていない場所にそもそも珍しいものがあるじゃないか、っていうだけの話な感じがするのです。
この話の背景には、今までの広い方向性の視野だけじゃなく、もっと深い方向にも目を向けようというような流れを感じます。それはそれで良いようにも思うんですが、珍しいものを探すんじゃなくて、もっと違うやり方があるんじゃないかと思いました。珍しいものを探すような考え方では、そこの土地に住んでいる人の気持ちはわからないし、ただ知らないだけで珍しくもなかったということもあるんじゃないかと思うのです。思い入れとか動機とか主体性とか、そういうものがごっそり無くなってるように思えるのです。

昨年後半あたりから、地方ブランディング的なことを考える機会が続いています。僕がそれについて考えはじめてから、はじめに思い当たったことは今も変わらず大きなお題目として、僕の中で掲げられています。僕が思い当たったことは、「そこに住んできた人たちが得意なことをやりやすい状況をつくること」でした。

得意なことというのは、社会科の教科書に載っているような、桃が名産ですとか、い草がたくさん穫れますとか、そういったある価値観に沿ってある瞬間を切り取ったような数値が示していることではなく、もっと広く漠然とその地域においての今までの流れを、その時々の生活にまで思いを馳せ、積み重ねて考えていったとき、どういう種類のことが得意と言えるかということを捉えようと考えました。

そしてそれの足がかりとして色々と調べたり考えたりするうちに、その地域に住んでいない僕じゃなく、住んでいる誰かがどんな風に思いどういう動きをしていけば、その得意なことがよりやりやすくなるのだろうかという問いも出てきました。

そこで僕が思い付いたのが、「汲む」ということです。主に人に対して人ができる行動を思い起こしたときに、与えるとか教えるとか繋ぐとか伝えるとか届けるとか育てるとか助けるとか救うとか、そういう言葉のどれかを中心に考えようとすると、どうにも行動が限定的に感じられ、今の、都市部にあるようなサービス的なものでしかないように感じてしまいました。「やりやすい状況」というものは、状況よりも前に、既にやっていることがあるのです。それを限定的な行動を起こすことで、関係を醸成したりとか、連鎖を生んだりというようなことはできないんじゃないかと思いました。そんな中、汲むというのは、人に対して思いやるというような意味合いも大きく含みながら、何らかの行為とそれで何かに丁寧に接することを前提としている言葉だなと思ったのです。人の意を汲んだり、時代の流れを汲んだりすることを基盤に活動できるなら、それは素晴らしいことだと思いました。

加えて大切なことは、そこで生活している人の心持ちだと思います。その動機が無い限り、何かが続くことは難しいと思えます。

こういうことの先に、どういうことができるようになるのか。まだまだ考えていこうと思っています。

自らに由る / I can't translate the title.

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よく耳にもするし口にもする、自由という言葉について考えました。

自由でありたい。自由に生きたい。自由になりたい。自由にする。自由にさせて。自由を欲する。

少し前に調べものをしていたとき、今の自由という概念は福沢諭吉によって決められたという話を見かけました。(それ以前からも自由という言葉はあったようです。)福沢諭吉は、アメリカで大切にされていたFreedomやLibertyというものに出会い、日本人もそういうように生きた方が良いと思ったんだと思います。その言葉を自由という言葉に翻訳し、それが定着したのが現在です。

ここで、現在使われている自由という言葉の意味を、逆にFreedomやLibertyに戻せるものかな(当てはめられるかな)と思いました。アメリカが無法地帯だというなら別ですが、なんか無理な気がする・・・って思います。このずれは、今の僕らの自由という言葉が、それを訳した福沢諭吉の気持ちとは違うということを示しているように思います。

自由の国、アメリカ。という表現があります。今もアメリカではFreedomやLibertyを大切にしているのでしょう。できたばかりのアメリカで考えると、この自由というのは、好き勝手になんでもやって良いよということではなく、人の生命というものを大切にするとか、誇りを大切にするとか、そういうような意味だったんじゃないかと思います(本当に大切にされていたかどうか、いるかどうかは、不勉強&未体験の僕にはわかりませんが)。そのように感じた福沢さんは、そういうのって自ずからに由ることだなぁ、というわけで、Freedomを自由としよう!と思ったんじゃないかと思えました。でも、アメリカ的なやり方が、奔放というか横暴とも言えるようなものに見えてしまった日本人にとって、自由というものが、(極端に書くと)反省の無い自分が望む満足のために好き勝手にやって良いというようなことに繋がってしまったのではないかと思いました。

自らに由ることを真ん中に置いて生きていくのは、とても辛いことだと思います。でも、その覚悟をもって善く生きようとするのは、とても健全なことだと思います。縛られた生真面目な人生なんかではなく、ダイレクトに(この生きている)世界と繋がり、泳ぐように生きていけるなら、そんな素晴らしい人生は無いだろうと思います。僕はそう生きていきたいなぁ。って、まあ僕のことは良いのですが・・・。

少し話をずらして、アメリカ的なやり方は日本には合わないという表現もたまに聞きます。この考え方も同意できる部分もあるのですが、自由ということに関しては少し違っているようにも思えます。(完全に僕の想像ですが)アメリカにあったFreedomは、誇りのようなものを動機に、家族が生きていけることこそ最上なことであるというように、生きていく上で必要な芯として扱われたのだと思います。このFreedomを、最上とすることも含めて解釈したとすると、それは日本にフィットするはずがありません。このFreedomという言葉は、その最上とすることを、国に、というより地域や家族や個人にまで求めている言葉だと思います。そして、それが自らに由るということだと思う訳です。

ちなみに、そこまで剥き出しの、自由というものを個々が考えないでも、いわゆる今の自由であることの共感や納得ができる側面ももっとあって良いようにも思うのですが、それが国を越えるのは難しかったというのが現実な気がします。アメリカの自由が特に日本に合わなかった理由は、それぞれの国の状況が違ったということなんじゃないかと思いました。その頃のアメリカでは、未知なものに対する可能性や生存することを叶える努力などを大切にしていたと思いますし、日本では、畏怖してきた存在と積み重ねてきたことを大切にしてきたように思います。そんな両者のFreedomは違って当然です。

言葉の解釈は、できた瞬間からひとときも一定にはならないものだと思います。ただ、人間にはそれを一定にしたい気持ちも強く、大勢の人が共有しやすい意味合いで統一されていくものだと思います。その経緯で、共感がもてず使われなくなる言葉もあったり、自由のように意味が変わりながらも根付くものもあるのでしょう。自由という言葉は僕らにとって、良い意味でも悪い意味でも、とても良いものなのだと思います。ただ、自らに由ることと、好き勝手にするというようなことを同一と考えるのは、やはりちょっと問題があると思います。

で、最後にひとつ。対価があれば水やエネルギーをいくらでも使って良い仕組みになってしまっていますが、それを制限することを考えてみても良いのではないかと思いました。そういうものを自由に使える状況というのは、おかしいんじゃないかと思えました。これは、つまり「自由」がおかしいせいじゃないかと思ったのです。


今回の話はいつもにも増して難しかったです。なんというか、表現が難しいというか。自由についてはまだまだ渦巻いているものがあるんですが、今回はこんなところで。

食育 / The Dietary Education

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最近よく、食育のことを考えています。

何年か前、国の政策として、食育基本法が公布されました。さらっと読んでみて、「食育バランスガイド」とか「健全な食生活を実践することができる人間を育てる」なんて言葉を見かけて、少しげんなりしました。ちゃんとした安全なものを、栄養価を考えてバランス良く食べる。というようなことが食育だと考えられているように感じますが、そういう考え方だけで、食べない方が良い食べ物が減ったり、食が生活の基盤という位置づけを持てるような方向に進むんでしょうか。

少し前に気がついたのですが、手間をかけて調理される料理というもののほとんどは、もともと生活の豊かな人のものだったのかもしれないと思いました。生活すること自体に懸命な人は、料理に手間をかける時間で、生活していくためのことをやっていたんじゃないかと。

そう思うと、料理研究家による、ちゃんとした食材を用いた、時間をかけてつくられる食事を常にみんなが目指すことが、最高に良いことだな、とは思えませんでした。

ここ数十年の全ての人の努力により、僕たちの生活においては、以前に比べ格段に死ぬ確率は低くなっています。でも、全体として死ぬ確率は低くなっているとしても、生活することに懸命な人もたくさんいます。

本当は、この生きやすさを上手く活かして、豊かな生活を送ることもできるんだと思います。色んな原因が考えられそうですが、現状に慣れてしまっていることが、その生きやすさを感じにくくさせているのだと思います。料理に限らず、身の回りのものともっとナチュラルに接した方が良いのかもと思いました。

で、食育のことに話を戻しますが、僕は今の食の問題とは、食べるものに対峙する時間が短いことが原因なんじゃないかと思っています。食べるものに対峙する時間を伸ばすために食材を育てる、なんてことが誰にでもできることだとは思いませんが、食材になる前の状態を知ることや、その食材がどういう変化をするものなのかを日常で感じるだけでも随分違うように思います。僕らが食に対してそういう取り組みをするだけじゃなくて、そういう生活の組み立て方をみんなでやれないとちょっと辛そうだなぁと感じているのですが、それはそれでとても難しいでしょうね。プライバシーとか、独占とか、サービスとか、色々問題のある言葉にぶつかりそうです。何がやれるのかな・・・。

一つ思うのは、大きく何かを決めるというよりは、小さい範囲でできることをやっていく方が良いように思います。例えば、周辺の人たちと一緒に食事をとれる関係をつくるとか。これは他力本願すぎるか。自分の食事を自分でつくることが第一歩なのか・・・苦笑。でも、それだけでもしょうがないのが現状のようにも思います。誰かと食をともにすることで、その関係が深められるような形が必要な気がしています。

時間 / The Time

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時間というものは、人の都合でしかないのかもしれない。

僕らが体感している、この流れは、永遠の昔から永遠の未来まで続いているものだと思う。だとしても、永遠に続くということを、僕らの都合にはめてみて、僕らが生きていることと関連づけることには無理があるように思えた。

少し前に書いた「人間の尊厳」から気がついたこと。例えばこのある日常の一場面が、僕の生の中で同一に繰り返されると想像したとき、尊厳を失いそうな感覚が生まれる。それはつまり、ある行動を、直接的では無いにしても、時間という単位へ半ば自動的に置き換え、僕らの都合でつくった時間という流れの捉え方の中で、何度繰り返すのかを想像するとき、限られた生の中で、最後の最後まで繰り返されるその行動に対して、気が遠くなるのと同時に永遠的な虚無感のような感覚を感じることから、自分の尊厳が消失してまうような感覚に陥る。その陥ってしまった感覚に対する感情を過剰な言葉で表現すると、僕の人生はもっと変化に富んで意味のある、素晴らしいものであるはずだ、というようなことだと思う。その人生は言葉で表現するならば、そうなのだろう。でも、それが具体的にどんなものなのかをあまり気にしないで、ただ生きることの方が、そうなっていくものなんじゃないかと思った。


他人と何かを共有するために、時間という単位ができたとすると、それはやはり人の都合であって、それがそのまま、この世というものにあてはまるものではない。都合とは言いながらも、確かに60秒が60回すぎれば1時間が経ち、それが24回繰り返せば1日が経ち、太陽はぐるっと一周回って戻ってくる。だから正しいのか?というとそういうことではない。正しいから、例えば太陽すら自分の範疇にあると言えるのだろうか。

少し極端に言うと、僕は、体感した事の全てが説明可能な言葉にできるような世界は、自分の意識の中にしかないと思っている。周りにはもちろん、自分の無意識の中にさえ、これほどのものが潜んでいる事を感じる事をせずに、時間から連想する尊厳の喪失なんて考えてもしょうがない。


他に、よく目にする「ゆとりのある暮らし」という言葉を考えてみると、その言葉からはじめたその暮らしは、時間という都合でできてしまうんじゃないかと思った。暮らしは、もっと自然なかたちの現れで、その現れ方により、ゆとりが生まれるのだと思う。ゆとりを持つために、意識的に何もしない時間をつくるということが不自然なのかもしれない。何もしない時間をつくるというのは、何かしている時間を短縮する行為とほぼ同じになりやすい。どちらかというと、時間を意識せずに何かをし続けると考えた方がより自然にそちらの方に向かっていくんじゃないかと思った。


尊厳の喪失や、理想的なゆとりの持ち方に繋がってしまうぐらい、時間の捉え方は、自然なものと認識してしまっていることが、良いのか悪いのかはわからないけど、尊厳やゆとりといったことを考える上では、時間の捉え方を変えないとわからないことがたくさんありそうだと思った。



写真は、つつじ。春なので。

祈り / The Praying

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辰巳芳子さんの本「食の位置づけ」を読んで、祝日や年中行事というものが単なるイベントではなく、生への感謝の現れだということを改めて思い出しました。いや、正確には知りました、かもしれません。

その昔、生きる事が今よりずっと難しくて、たくさんの悲しい思いが渦巻いていた中、あるうねりや積み重ねから生まれてきた行事がいくつもあります。七五三だって端午の節句だって、これらの存在がここまで深く根付いていることを思うと、当時の思いの強さが伺い知れますし、人が人として反応した結果であるようにも思えます。

辰巳さんは、行事のあるハレの日の食とは、いのちへの祈りであると言っていました。「なぜ人は食べ続けるのか」という自問に対し、食というものがこの世の全ての流れの動きの一つである。それをごく自然なものと捉え有難く思い、一品一品を、ただひたすら丁寧につくる。それをもって、子が生きてくれたことに対して喜び、これからも元気でいられるよう感謝する。それを節目節目で祝い、祈る。

ハレとケという分け方も、もともとあったというものではなく、毎日が同じように続いていく中で、前段のうねりや積み重ねがそれを導いたんじゃないかと思います。

そう思っていて、そこらへんで僕の中にあった違和感がはっきりとし始めてきました。

祈るというのは何を何に祈っているんだろう。祈るって何だろう。

僕たちの存在が、この世の流れの一つであり、少し科学的に表現するとしても原子レベルで少しずつ外から内へ、内から外へと繋がっていくようなものであるのは納得できます。そのための食という事もわかります。でも、食べたくても食べられない状況にあって、死んでしまう事は自然の流れなんじゃないか。もちろん、そんな風な割り切りを僕たちは持ち得ません。どうしても死にたくない、死んでほしくないと思うのです。それは、例え死んで当然だと思えるような状態であったとしても、自然の流れの死というものに対して、抗うような反対方向の祈りというものを感じてしまうのです。

この話、ごく普通の話のように思えるかもしれません。でも、この話を人生の中にいくつもある矛盾の一つとして捉えてしまい、死に対して抗うための祈りという認識をしてしまうことが、そもそもおかしいんじゃないかと思いました。この話は矛盾なんかではないのかもしれない。このことに気がついた時に自分の中で振り返ってみて、頭の真ん中より上のあたりにきゅーっと意識が集まってくる感覚を思い出しました。あれが祈りなのかもしれません。きっと、もっと動物的なもので、反射運動のようなものなんだと思いました。抓られて痛い!と思うぐらい。こうあってほしいというのは、その後からやってきてるような気がします。

今の時代、何かのために祈るということは望むということに近くて、本来的な祈るではないんじゃないかということです。祈っても越えられなかったこと変わらなかったことが、(人の欲望により)本来の祈りの必要性を失わせたのだろうと思います。祈ってもお腹はふくれませんしお金も稼げません。それは、笑うことも怒ることも同様です。祈りとは、わかりやすく何かのためになるものじゃないんだと思います。でも、備わっているものを抑えてしまう事の影響はきっと大きいはず。備わっているものは完全に消し去る事ができないものだとも思います。

文化というのは、この備わっているものが数えられないぐらい積み重なって、ようやく見えない形を成していくんじゃないかと思いました。行事はその見えない形の中にある、節のようなものなんだと思います。本来的な祈りをきちんと捉えていないと、文化は形を成さないのかもしれません。そして、これはそんなに難しいことではなく、その感覚を思い出し委ねるだけのことだと思います。

昔を思う / Thinking The Old Age

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昔のこと(想像含め)から色々考えていました。

まず、家のことから考え始めた。その昔、家は囲炉裏(もしくは竃)を中心に成り立っていた。囲炉裏の火は暖をとるため以外にも、煤が出ることで家が丈夫になるという役割も持っていた。囲炉裏の火を絶やさないよう、薪を絶やさない。そのために山に入る。結果、山にも人が入っていた。薪以外にも、水を汲みに行ったり食料をとりに行ったり道具の素材をとりに行ったりと、山に入ることは、生活をする上で欠かせなかったのだろう。こういう状況においては、家を保つために行動したというよりも、生活全体としてバランスが良かったのだと思う。きっと1000年近くはこういう生活だったんだと思うし。

第二次世界大戦後、GHQにより食品衛生法ができた。囲炉裏や竃、土間が無くなり、庭が変化した。ガスが通って、暖をとるという方向よりも、外気に影響を受けないようなつくり方に変わっていった。こうなってくると昔のバランスは保てない。山には人が入らなくなり、生活の場が山から都市へ移り、山が荒れる原因となった。

便利さを求めて、山から人がいなくなったとよく言われるが、それだけではないと思う。それは、例えば山間部の村の中でも、二極化を実感したせいじゃないかと思う。昔からの流れで、多くの村には大地主という人がいる。村の頂点みたいな人だ。その一方で、その価値軸で見ると一番下に位置する人もいる。上辺と底辺で二極化が起こっているようにきっと感じただろう。二極化を感じたとき、その価値軸が存在しないところへ行きたくなるのもわかる。良い土地も持てず、立派な家もない。逃げると言えば逃げるなのだけど、より生きやすい環境に移動する。移動先は他の村だったり、誰も住んでいない土地だったり、都市だったりと様々だ。そうして見いだした価値軸が今の便利さだったりするんじゃないか。さらに都市においては価値軸の持ち方が複雑で、二極化を実感しにくかったはずだ。でも今、便利さが崩壊したのか、都市部では二極化を実感し始めている人が増えているように思う。ここで思うのは、二極化を感じるところとしては、権力の強さなのかもしれないということ。でも、人生の真ん中に権力の影響を受けない人は、そうは思わないんだろう。そういう人はきっと誇りを持っている。

山のことに話を戻す。山が荒れたというのはどういう状況なのか。木が生えていない山が増えたことや、木はあるのだけど根がきちんとはっていないゆるい山が増えたことなどがある。針葉樹は生えたい放題にしておくと、山に日が入らない状態になり、地面に草が生えにくくなり、養分もなくなり、保水性も低くなるらしい。伐採や間伐というのは、そうならないために必要である。

でも、少し戻って考えてみると、そもそも広葉樹が多かった、バランスの取れた山に、経済的な必要性から針葉樹を植えたのは人間だ。それを忘れて山が荒れたなんておかしな話だ。でもでも、それが僕らには必要だったのだと思う。少なくとも、以前には必要だったのだ。そのおかげで今がある。そして、今から広葉樹を植えたからといって、すぐには元に戻るもんでもない。時間はかかる。

ここで、なんだかなぁと思い始めたのは、何か大規模なことをやるにあたって、このためにこれをしよう!というときに、“このため”がある地点まできた(ある変化が起きた)後、どうするかも考えておくことをなぜしなかったのか。もう少し言うと、始める前に想定することなんて行き届かないに決まっている。おかしな話かもしれないが失敗することを前提に、それを調整しフィットさせるためとか、全然違ったら違う方向を考えるとかの考え方もできるんじゃないか。そうすることで、はじめに何を思い、どういう経緯でその芯が変わっていったのかという知恵を蓄積できる。これが財産になり、次の動き(世代でも良い)につなげていけるように思う。そういう流れもきっとどこかにあったはず。どうして途切れてしまったんだろう。昔の知恵をそのまま使うんじゃなくて、その知恵が進む先を考えていくこと。そう見直せない限り、山が荒れた地球がおかしいと嘆いてみてもはじまらないのかもと思った。

誰だって失敗したくない気持ちはわかるのだけど、そことその裏側に原因は潜んでいると僕は思う。失敗しても、それを踏まえてやり直すことが大切だと思う。というか、考えたことが成功するなんて無いんじゃないか。失敗しても成立させる努力ができるかどうか、それは生きていく意気込みみたいなもんだと思う。それが持てないのは、やっている人だけの問題ではなく、やってもらっている僕らの気持ちがそれをさせない、今はそういう状況もあるんだと思う。関係する人や事がある規模をこえたとき、信頼を持つというのは距離が遠すぎて難しい。でも、意外とある側面に対して無関心になる(少し語弊があるかも)ことで為されることもあるのかもしれない。

って、こんな話になる予定だったわけじゃなかったんですが、こんなところで。苦笑

反対語 AとB / Antonym A and B

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明るい、暗い。新しい、古い。ゆるい、きつい。暖かい、寒い。優しい、厳しい。熱い、冷たい。

色んな反対語があります。この反対語という意味の持ち方は、とても危ういんじゃないかと思いました。

明るいから暗いまでに至る間に感じる感覚は、同じ軸に乗ったものじゃないという実感が僕にはあります。それは、照明の明るさを調節して得られるものだけで明るさが決まっている訳ではないということです。想像の中でもう少し突っ込むと、軽いの反対方向にあるのは重いものだけとは限らず、楽しいってことだってあるんじゃないかと思うのです。ただ、反対語はわかりやすい分、浸透していて、それだけを信じていると気がつかないことがたくさんある気がしました。特に、自分が嗜好する方向と反対の言葉に対して拒絶してしまうことが気になります。

この前段で気になっていたのは、アナログとデジタルについて。これに関しては、アナログ志向の人間だからデジタルなことは興味ないしわからないとか、デジタルっ子だからアナログなことは必要ないとか、そういう感覚に対して、気になることがありました。

例えば、デジタルなものの象徴としてパソコンというものがあって、デジタルとアナログの間には壁ができています。でも、デジタルなことというのは、いわゆる“デジタルなもの”にしかないように考えるのは違うと思えました。僕的に簡潔に書くと、僕らが頭の中で、何らかの理由付けをして捉えたものごとの全てはデジタルであり、それ以外の捉えきれないゾーンがアナログなんじゃないかと思うのです。

そのまま話を転がしてみると、人工と自然というものがあって、作られた物は人工的、海や山は自然という割り切りはどうでしょうか。そこの境目はどういうものなのか。

スタイリッシュなものは人工的で嫌いだという出発点から、たまに山へ行き、自然って最高だなぁと思う心は、本当に自然を愛せているのでしょうか。僕は、本当の山での暮らしをしたことがあるわけじゃないので、山が愛せているというのがどういう状態なのかはわかりませんが、少なくとも都市だろうと山だろうと、人工か自然かという理由をもって何かに接さないのはおかしいと思うのです。もっと言うと、人工だって自然だろうと思ったりもします。(さらにもしかすると、今見える自然は人工じゃないかとも・・・)

自然じゃないことが人工だという割り切りを持っていては、人工が自然の一部とは思えないんじゃないかと思うのです。それって、ちょっと危ないというか、人工に対しても自然に対してもキッチュな認識だなと思います。(ちなみに、キッチュが悪いことだとは思わないが、人生の真ん中あたりに関わることをキッチュなものとしてしまうのは良くないと思う)

ちょっと話がややこしくなってきましたが、何事も二極的ではないと思いつつ、反対語を便利な道具のようなものだと思って接していないと、価値観を見失うんじゃないかと思った次第です。特に、反対語による理由付けを自分の感覚だと思うことは、あらぬ方向に進んでいることがあるように思います。

お金 / The Money

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お金の価値について考えていました。昔から、その価値が上下を繰り返しながら、今に至ってもほぼ同様な価値を持ち続けるお金というものは、とても不思議なものだなと思ったのがきっかけです。いや、少し落ち着いて考えると、“ほぼ同様”というのはちょっと違っていて、昔よりも今の方が、お金に対してどん欲というか盲目的になっている分、人生の中でお金に重点を置いているように思います。これは一種の慣れのようなものなんじゃないかと思います。もちろん、今も昔も、お金は食べられないし、薬のように体を治せるようなものではないということは、理解できているのですが、今はそれが直結しているようにも思えます。これは、自分にとって信頼の足ると思える人が扱っているお金に対して、自ずから感じる評価を気にしないようにしているからだったり、経験則としてお金に対する気持ち上の負荷をどんどん大きくしてみても(例えば食べ物づくりを止め、お金をつくり出すことに専念することなど)自分の人生は成立可能だった結果なんじゃないかと思いました。

僕もお金のことをそれほど特別なものと考えたことは無かったのですが、価格としての価値というものがこれほどに変化をする、普遍的であるはずのお金というものを考えた時に、何かおかしいよなぁと気にかかるようになりました。

色々と考えてみたのですが、どうもお金というのは、ある文化圏(?)における究極の先送り法じゃないかと思えました。食べ物の物々交換で考えると、交換した時点で食べれば問題ないというか、腐る前に食べる必要があります。でも食べないとすると、腐るまでしか価値が残らない。お金は腐らないので、いつでも何かと交換可能なわけです。

でも、心はお金じゃ買えないんだよとか、本当に困る時には逆にお金があっても役に立たないことだって想像できるわけです。そうこう考えていると、価値を数値で表せることは便利ではあるけど、色んな意味で欠如している部分があるように思えました。その交換はなんのためなのか、交換によって得られた物に対する心持ちとか。

食料を奪い合うような時代においては、他者との間にあるお金の重みはより大きくなる(価値は下がるが)のかもしれませんが、逆に今の時代においては、重みは小さくなっていると思えます。その小さくなってしまった重みに対して、不信感を抱くのは当然です。でも、今のタイミングで、自分の小さな不信感ぐらいでは、信頼している社会に対して思い切れることはほぼ無いでしょうし、経験則を覆すことはできません。難しいもんです。

でも、既に経験として感じているところはあるはずです。湯水のように使ってしまったお金によって生まれてしまった先送りのしわ寄せが、至る所に感じられます。これはたった一個人の先送りであっても、それが直接的に個人に戻ってくるというものである以上に、地域に対して国に対して世界に対して、戻っていっているのだと思います。でも、これも難しいんですよね。必要不必要を誰かが測って決めていくことなんて、できませんもんね。

僕的には、お金の価値じゃなくて、お金の意味が変えられると良いのじゃないかと思っています。お金ができる前、さらに物々交換が行われるよりも以前、もっと言うと言葉すらなかった時代、他人によるある(親切な)行為の代わりに自分ができることをお返しするような関係があったと思うのですが、そのとき、両者で交わされた価値というものが、ほぼ無くなってしまっているやり取りはおかしいと思うのです。

ある一辺倒な価値基準以外に、それとは全く無関係にある価値基準をもち、それらを合わせて交換を行うような仕組みなんかがあると良いのかなぁとか思ったりしました。これも先送り法の一環かなぁ・・・。例えば、お金の現れである資産のようなものが、お金以外の価値軸でも持てたりすると良いのかなとか。でも、これもまた難しい。お金以外の価値軸って、いわゆる差別ってものに繋がりやすそうだし。でもでも、そう思うと、お金による社会性の差というものは差別なんじゃないかとも思えますね。うーん、とても難しい・・・。もう少し考えます。

甘えてはいけない、のか / Don't Rely...?

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甘えてはいけない。

本当に?

最近、このことについてずっと考えていました。これの返事が少しでもできるようになると、色んな辛い出来事が回避できそうな気がしました。

誰かに対して、「甘えてはいけないよ」と言いたくなるとき、言葉を止めることがよくある。なんで?と聞かれたときにどう答えて良いかはっきりとはわからない、ということもあるのだけど、それ以上に、「甘えてはいけないと言うこと」に対して、僕が甘えているように思えて言葉が出てこない。ただ、稀にうわっと出るときがある。それは肉親だったり、親友だったり、いわゆる僕が甘えてしまう人たち。それ以外にも、甘えてしまった人もいる。もうこの人とはあわないんじゃないかと思えるような人も、不意に甘えてしまう対象になっているように思う。

昔から、例えば殺人事件なんかの、加害者の気持ちが何となくわかる(あくまで、何となくです。実際はわからん。)ような気がしていた僕は、この感情の起伏(?)みたいなのを考えていて、そういうことなんだと思った。やっぱり、そういう人たちは、何かに甘えている。

で、ここではじめの話に戻すと、僕の考えたように何かに甘えているとしても、甘えてはいけないというものでもない。「どうだっていいんだよ」と言われればそれまで。そんなことを言う人には、やっぱり甘えるなと言いたくなる。ここから先は、ずっと平行線の話が続く想像ができる。

ちなみに、同じようなことで、「裏切られた」と言っている人にも、甘えるなと言いたくなる時がある。例え、どんなバックグラウンドがあろうとも、裏切られることなんて無いと、僕は思う。自分が何かの形で被害を受けたって、その次にどうするかの方が大切だと思うんですよ。って、話が逸れました(苦笑)

今の僕は、自分が生きていることに意味を求めてはいない。いや、自分がじゃない。人が、かな。何で生きてるの?って、生きてるから。生きている自分や他、全ての世界に対して、僕は絶大な興味を抱いている。

そんな僕が大切にしていることの一つは、僕が見たくないものを見ないこと。そのためには、色んなものを投げ打っても、それを回避できるよう努力をする。

「意味が無いと生きていられない」と「甘えてはいけない」は似ているような気がする。とすると、生きていることに意味を求めない僕は、甘えてはいけないと思っていないのか?でも実際は、誰かに対して甘えてはいけないと思うときがある。じゃあ、逆に生きることにはやっぱり意味があるのか?いや、無いと思うんだよなぁ。うーん。これ、難しい。

ちょっと話を変えてみる。

甘えている状態ってどんなだろうと考えてみる。犬がしっぽをふるときに感じる気持ちに似たものが感じられる状況で、その状況に身を任せることが甘えていると言えると思う。本当は特に悪いことではないのだけど、過剰な甘えは本当に良くないと思う。自分にとってもそうだけど、僕は甘える相手に対しての影響が一番気になる。与り知らないものに対して甘えることは、それを与り知っている人の努力なんかは考えない。与り知っていると思っている存在に対しても、例えば自分のこどもに対して甘えることは、人生とはそういうものかもしれないと、こどもに思わせてしまうかもしれない。こういうことをいつも気にして、一切しないことが良いとはもちろん全く思わなし、僕もすると思うが、過剰になると甘えるなと言いたくなる。甘えることは、依存しているとも言える。こどもに対して依存している親はたくさんいると思うし、僕ももしかするとそうなるかもしれないけど、ある線を越えてまで甘えてはいけないなと思えるようにはなりたいかも。

甘えているかどうかの線引きは、倫理観というか個々の価値観にあるんだろう。とすると、やっぱり甘えてはいけないと、他人に言うことは甘えていることなんだろうな。

では、なぜ僕が甘えてはいけないと思ってしまっているんだろうか。過剰に甘えることで、何かをごまかそうとしているのが嫌なのかもしれない。転嫁しているのを感じて、逃げているように思うのかもしれない。そうはいっても、逃げたって良いじゃないか。

あ、逃げ道はいくらでもあるってことかも。もっとやれるじゃんと思うのか。どうやら、そういうことのようです。つまり、僕が甘えるなと言いたくなるとき、もっとやれることがぼんやーりとあるかもと感じているってことのようです。

というわけで、甘えてはいけないってことはないけど、甘える前にやれることをやろうってことみたい。なんだ、シンプルだな。

メールとの距離感 / The Distance Between Us And Email

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最近、ようやくiPhoneに慣れてきました。でも、やっぱりバッテリーが不安で不安で・・・。まあ、そんな不安は置いておいて。iPhoneって基本的には覗くためのツールだなと思います。データを取得するという期待をしているとやられるように思います。そんなiPhoneを持って、メールとの距離感について思うことがありました。

普段のコミュニケーションの中で、声をかけることと、手紙をもらうことでは意味が違います。メールは、どっちの意味合いに近いんだろうかと考えました。若ければ若い人ほど声をかけることに似ていて、逆に年を重ねている人にとっては手紙に近いものだと思っているように感じます。
メールが電話の新しい形だとすると、若い人の感覚の方が正しいのでしょう。逆に、メールの語源から手紙の新しい形だとすると、若くない人の方が正しいのでしょう。うーん。年齢によって違う解釈を抱えているのは、何か気持ち悪いもんですね。

で、僕が気がついたのは、たぶん、どちらも違うということです。声と手紙の一番大きな違いは、目に映る明らかなものがあるかどうかです。あ、電話だって履歴が残るとか言わないように。電話は、今や声になることができています。手紙は紙ですよね。メールは、携帯電話などのデバイス上に存在する、他者からの投げかけです。これが実は少しおかしくて、僕もこれに気がつくまではメールがまるで僕の手の中にやってきているように捉えていました。メールは、本当を言うと手元にきていません。いや、デバイス上に確かにきてるんですけど、実は受け取った人は手元にあると思っていないのに、そう解釈をしていないと感じました。
僕が思うに、受け取る側の受け取る責任みたいなものが、都合に合わせて強弱するからなんじゃないかと思いました。だから、声か手紙のどちらかによって解釈しようと考えて、個々人によって捉え方が変わるんじゃないかなと思ったのです。

じゃあ、なんなのかというと、受け取るものというよりは、主体的に見るものなんです。つまり、主体的に見ないというものにもできるのです。これがメールの正体だとすると、なんとも曖昧なものですね。新聞とか雑誌、駅の掲示板でもよいですが、そういうものと同じようなものだということになりますね。まあ、実際の使われ方として、なるべくすぐに返事を返すという方法で使われているので、やっぱり電話や手紙に近いものになっているのですけどね。

で、この話、どこに落ち着くのかヒヤヒヤな僕ですが、これに気がついてメールが今までよりもはっきりと、自分から距離のある存在だと感じることができたのです。だから何か変わるのかとかはわからないですが、はっきりしてすっきりした、という話です。

あと、iPhoneについてもう一つ。

iPhone使ってて、腑に落ちないことが一つあります。それは、ブラウザが落ちまくること。いや、落ちまくるっていっても、落ちた事なんてない携帯サイトや、ほぼ落ちないPCでのブラウジングと比較するとこういう表現になるっていう程度の話なんですが。

でも、そこから僕の想像ははじまりました。これ、部分的にはわざとなんじゃなかろうか?わざとと言うと悪意があるように感じますが、悪意があるんじゃなくて、その問題を解決することの優先順位があがらないのではと思いました。

iPhoneを使い始めてそろそろ4ヶ月。落ちる傾向みたいなのがわかるようになった感じがします。バックグラウンドで色んなアプリが動いていると落ちやすいってのが大きいですけど、普通のブラウジングで落ちるときって、バナーが多いサイトを見ているときな気がしました。

わりと前からバナーって意義が薄くなってないかと疑問視している僕だからなのかもしれませんが、広告としては、ぶっちゃけちょっと色んな所で使われすぎてると思うんですよね。そこかしこで同じバナーを見たりもするし、とにかくたくさんありすぎです。上の話と少しかぶりますが、広告からの情報の得方も色々あって、広告があったおかげで知る事ができた!っていうポジティブなこともあると思いますが、ここまで膨らんでしまった状態ならむしろ、主体的に得ようとするときに得られるのが広告という形に押し込めた方がまだましだと思ったりします。

インターネット上に限らず広告全般に言えることで、インターネットが普及してから一番変わったのは、情報を得る手段が格段に広がったことで、その広がりにあわせて大量にばらまくのではなくて、その広がりや繋がりを上手く使ってピンポイントに広告をしていくことが大切なのだと思います。そういう傾向に戦略立てているところも多いですけど、バナー枠を用意する側はそうでもないですね。

ちなみに、GoogleやらYahooやらmixiがやっているターゲットを絞った広告表示はまだまだ早いと思います。見る人のそのときの気持ちも汲み取れるようになってからやるのが良いと思いますよ。せめて体調ぐらいは考慮できないと。機嫌の悪い奥さんが八百屋の前を通ったとき、いつも通りに声をかける八百屋さんはいませんよ。まあ、そんな伺ってくるようなウェブサイトって、今想像すると相当気持ち悪いですが(苦笑)。

エコロジーとものをつくること / Ecology and Designing

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ものをつくることとエコロジーについて考えていた。

限られた資源を有効に使おう!とか、リサイクル率95%以上の製品しか作りませんとか、色んな主張がされている。限られた資源を有効に使おうという投げかけは、普段の生活の中で自分たちがどのぐらい資源を使っているのか認識する人たちを増やすことができているんだろうか。また、リサイクル率95%を掲げれば、単純にものとして人生に必要か不必要かは関係なく、もっと何かのために努力できるのに、そのままで肯定されているような物もたくさんあるんだろう。

エコロジーであるかどうかを誰かが審査することは、人が自然を審査するようなものだと僕は思った。例えは悪いかもしれないが、この辺に道が欲しくて、この辺の山の中でこの山は綺麗じゃないからまあ無くしちゃっても良いよね、とかってときの無くしちゃう山を選ぶ感覚に似ている。普通に考えればそれで良いはずはなく、その前段に問題があるのに。

こういうことを趣味で考える分には、深く色々考えられて良いのだが、最近のエコロジーは、全体としてちゃんと考えられた主張であるかどうかは関係なく、とにかくある一面のみであっても効果あるんですって言えちゃえば、それが絶対の善として存在しようとするところが怖い。健康問題も教育問題も同じようなもんだと思う。ある部分を急に持ち上げることが、全体としてどういう影響をもたらすのか、はあまり考慮されない。

白洲次郎の影響か、ちょっと前にたくさんのニュースの中で電気の記事が目に入った。オール電化はそれほどエコロジーではない、という話。コンビニの袋のことだって、割り箸のことだって、オール電化に対するのと大差ないような否定ができるんだと思う。でも、社会がそれぞれの行為をエコだと言っていて、それを信じてエコだと思う人がいる。それだけで、その行為を行う自分が、自分の中で社会的に(この表現は少し難しい。ネガティブな意味ではないです)正当化されている状態になれる。今の時代にできた自己正当化のための新しい手法なんだと思う。(補足しておくと、悪い意味で正当化という言葉は使っていない。無自覚ながら、僕も含めみんな、それが良いと思って生きているものだと、僕は思っています。)人間が自己を正当化していたい、できない状態があまりに長いと死んでしまうということは、何となく理解できているのだが、この正当化のために失っていることをきちんと理解しないと駄目だと思う。
また、失うこと以前に、本当に正当化できることというのは、そんなに簡単な事じゃないんじゃないかと思う。それこそ、一生をかけてみて、ああ良かったと思えるかどうかぐらい先の長い、もしかすると、いわゆる人生の目標とも言い換える事ができるかもしれないようなものなんじゃないかと思う。

ものをつくることに話を戻す。

「贅沢や利便性なんかのために資源を使っているにも関わらず、ゴミになってしまうようなものをつくることは、絶対にしてはいけない。だから、人が生きる必要最低限のもの以外はつくらないほうが良いんじゃないか。」こういう心境に陥ってしまう状態は、上に書いたような新しい正当化が生み出していると思った。そのままそれは、エコロジーによってものをつくることは否定されている、と僕に感じさせている。

例えば、手を出される事に抵抗の無い正当化が目の前にあって、みんながそれに則して、便利さをせーので手放すなら、その正当化は意味を成すことに繋がるのだと思うけど、何か目に見える目標というものを掲げて、みんなが一斉に何かやるっていうことの難しさにはそろそろ気がついてきた。

こんな風に考えていると、目の前の正当化を感じながらも、それでもそこに依らずにものをつくることって大切なんだなと思った。もし、その正当化を受け止めて、結果ものをつくることを止めることになったとしたら、それは本末転倒じゃないかと思った。「いや、そんなことはない。ものをつくる人はいっぱいいるから減るのは大歓迎じゃないか。」と誰かは言うかもしれない。でも、僕がつくらないとしても、代わりに誰かが何かの形でつくってしまう。この流れはとても自然なことなのであって、であれば、僕は、手を出される事に抵抗の無い正当化に依らず、僕がつくろうと思うのだ。

自分を正当化するときの根拠(こういうのを信念というのかな)は、ものをつくるときは特に、自分がそうだと感じることの方が良い。自分や自分以外の人たちが、知って見て触れて何を思いどう感じるのかを考える事をするのが良い。例えば統計の甘い罠に頼り切ると、いつの日か色んなことがわからなくなり、色んなことがどうでもよくなるような気がした。


少し話が前後してしまうけど、最近のエコロジーってひどいのが多いなって思う。例えばカーボンオフセット。Yahoo!がやっているのをみて、それお金じゃんと思った。自分のやったことに責任をもつというのは、お金だけをどうこうしてもしょうがない。やってしまったことを何かに置き換えたんじゃ、また同じようなことを違う形でやっちゃうだろうし、何でもかんでもお金に変えられるってもんでもない。もうちょっと言うと、個々人の二酸化炭素の排出量を気にする前に、もっとあるだろうと思うし。でも、難しいのかな。

色々書いたけど、マイバッグとかマイ箸を使う事はとても良い事だと思います。僕は使っていませんが・・・。まあ、マイバッグを使うかどうかで善悪がどうこうっていうことじゃなく、エコロジーなのかどうか、自分を含め、誰かのためになっているのかどうか、を自分で考えてやれているなら、それで良いのだと思います。こういうみんなのことって省略したり簡略化する意味は無いし、反省があるから先に進むものなんじゃないですかね。ものをつくることも、同じだと思います。リサイクルできることも、それなりに大切ではありますが。

少し前からちょこちょこと書いていたので、文章が散漫だ・・・。そのうち書き直す・・・かな。とりあえず公開ってことで。

決めること。まもること。

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色んな決め事があります。人を殺してはいけないとか、盗んではいけないとか、そういう倫理観のど真ん中の揺れることもあるけど何となく守ってるような決まり事や、靴下は白でワンポイントまでOKとか、茶髪だめとか、そういうはっきりしてることのように思えるけど実はごく一部の価値観(例えば先生の。機嫌で変わるもの。)で決められてしまっているような決まり事なんかがあります。

ここ最近、色んな法律が変わったり、新しいルールができたり、今までに誰も口に出さなかったことがどんどん明言されていて、生きている社会の分野によって個人差はあるけど、まもらないといけないことがみんな増えたんじゃないかなって思います。

最近気になったのは、携帯電話とタバコについて。携帯電話については、小学生中学生は携帯電話持っちゃ駄目って、それをストレートに抑制して、どうなることを期待しているんだろうって思いました。タバコについては、タスポで買いましょうと言いつつ、深夜販売を再開させて、夜中に親のカードで買えばいいじゃんって思われるのは平気なんだろうかとか、携帯電話認証で割り切っちゃった方がまだ効果ありそうじゃないかとかって思いました。。まあ、決めたときの気持ちがよくわからんって感じです。

最近は、ルールのつくり方が良くないんじゃないかと思いました。何か、おかしな決まりだなぁと思う機会が多い気がします。まあ、そのぐらい複雑になっている社会があるってことなんだと思いますが、そうはいっても皆のことだから慎重にやるしかないと思うんですよね。恐らく、ポイントとしてはもう少し焦らずゆっくり考えて決めることなんじゃないかと思ったりしています。それが正しい(語弊あるかも)ことなのかどうか、少しでも考えてみる時間ができると良いんじゃないかなぁと思います。

少し話が戻ってずれますが、携帯電話について。随分前に僕もあーだこーだ考えてみましたが、最近話題のフィルタリングってやつです。どーも、納得いかないんですよね。危ないから守らないと!って言って色々考えるのはわかるんですが、何かやり方が違う気がして。ちょっと話題の「日本のインターネットが終了する日」でも触れられていますが、各端末のIDを無差別に送信するなんて、デメリットしか無いんじゃないの?どうしても突き止めたい時は、もう突き止められる仕組みはあるんじゃないの?って思いますし。

さらにちょっと話をずらして、例えば、海辺に住む人たちは、荒れた夜の海には近づかないじゃないですか。危ないからって、海を埋めたりしないですよね。同じようにはできないんですかねぇ。例えが自然だと大きすぎるかな。ああ、道路でも良いかも。自動車危ないから道路を無くそう!とはならないわけで。これも極端かな。うーん。良い例えが無いですが、とにかく危ないものに対して、危ないからという理由で、無くしたり覆ったりしないでも今までやってこれたのは、明示的にルールをつくったからじゃなくて、黙示的につくり上げたり、ときには感情的にそれを諭すというやり方でやってきたんじゃないかと思うのです。もちろん、死にたくはないので、できることは何でもやろうって気持ちも大きいですが、何でもやろうって気持ちだと逆行しているような気がするんですよね。5年スパンぐらいで考えると、良くなるのかもしれませんが、もっと長い目で見たときに、対峙した問題が痛くても、問題のまま抱えておく期間がなるべく長い方が、より長くより良くなるように思うんです。全体として、ちょっと痛がり過ぎなのかもしれません。情報が早くなった分、ちょっとでも痛いことに対して敏感になり過ぎているのかもしれません。まもり方(というか、まもる側かな)にも問題あるのかもですね。絡み合ってるなぁ。

最後。本当はきちんと記事にしようと思っていましたが、さらりと書いてみます。
最近、個人情報が痛みの中心にあることが多いですが、個人情報ってそんなに痛いことでしょうか?この世界で仕事をしているというのも大きいですが、僕なんて、公開しまくってる気がしますよ。スパムメールは嫌なのでちょっとした対策ぐらいはやっていますけどね。膨大な量になりそうですが、何が知られたらどう困るのかをちょっとまとめてみると良いかもしれませんね。そういうのって、誰か見てるのかな。

あと、なかなか文章にならず、僕の中で渦巻いていますが、身分証明ならぬ自分証明がきちんとできるようになると、かなり色んなことが解決できる予感があります。まだ、文章にならないんですけど・・・。

あとあと、いっせーのせで皆が手放すっていうことをもう少し考えてみた方が良いのかも。何かで一度でもできると、変わることがあるんじゃないかなぁ。やり方とやる対象がかなり難しいそうですけどね。

相変わらず、ぐだぐだな終わり方ですが、この辺で。

形のなまえ / Name of Shapes

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少し前に夢を見ました。

誰かに、「あなたが最高に良いと思う形の握り方をしてみて。」と言われる。
僕は、こうかな。いや、もう少し中指と小指だそう、親指の角度が・・・と試行錯誤。
「できた!」とこぶしを突き出して僕。
「その形をこなと言うよ。ちなみに、これがきな。んで、これでこなきな。」と誰か。
そういう風に名前のついた形が昔は15種類ぐらいあったんだとか。
で、起きた。寝ぼけつつ、なるほどなぁと思う。

今では、鍵の穴みたいな形状だと鍵穴型だとか、縦と横の割合が極端に違いすぎず両端が丸い形状だとカプセル型だとか、水滴のような形状だと水滴型だとか、そういう名前のつき方のものがあるのだけど、実存するものに頼った名前だから何となく純粋ではない気がした。四角とか三角とかは、もう少し純粋で、角が丸くても、少し歪んでても、大体は四角だと言われるので、広義な名前だなと思った。
純粋について少し補足しておくと、水滴型の方が自然に則したいわゆる元々あるもので純粋な感じもするのだけど、もともとあるものを型として名前を決めるって、何となく主体性がもの任せな感じがするし、例えば水滴のとんがったところが広がったところより極端に小さいと丸と言っても差し支えないから、広義な意味合いが強くなくって概念的には弱いから純粋じゃない感じがしていると思った次第です。

で、夢で見たような、形の名前がみんなの言語として共有できたら、何かの形について今より少し詳しく伝えることができるのかもなぁと思った。のだけど、共有したい形で、名前のつけようも無いものって、そもそも形状の概念として共有する意味があまり無いようにも思った。夢の中の話は精神論的で、自分のための、ある形の名前というニュアンスが強くって、それはそれで違和感無く聞いていたのだけど、よく考えてみると、それを他人と共有する意味なんて無い気がした。

しばらくアレコレ考えてみて思ったのだけど、三角とか四角という名前はすごい。それほど外さす共有できてしまう。でも誤解も多分に含んでしまうけど。他にも名前が有った方が良い形状って無いのかな。カドが角と丸で構成されている形状とか。四角に丸がくっ付いたものは古墳型って言われるのかな。三角と四角だと矢印か。四角が三つぐらい連なった形とか。まあ、よく見かける形状じゃないと名前をつけるメリットも少ないかな。そう言う意味では、角丸の四角はそろそろ名前をもらっても良い気がする。
あと、自分のための、ある形に名前があるっていうのは、必要になることがあるのだろうか。何か、あると少し心強いような気がするんだけど、認識が時々で変わっちゃうなら意味は無いしなぁ。ジンクスみたいな感じかな。

力加減 / Control of Power

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前に書いたインターネットにおける丁寧さの話の続き。

マウスやキーボードといったインターフェイスでは、力加減が実現し難いんだと思いました。重いと思うもの、軽いんだなと感じるもの、その時々でそれを動かすときの力加減は、丁寧さには欠かせないはずです。タッチディスプレイとか、速度や方向を感知するものとか、そういう新しいインターフェイスも良いのですが、物理的なその感覚たちは精神的なものにも繋がるので、力加減を再現できるようなインターフェイスが出来てくると良いのではと思います。もう少し言うと、力加減を再現するには、大きさがあまり小さいとまた難しい。まあ、慣れてくれば平気でしょうけど、あまり小さくて難しいと慣れるまで使ってくれないのだろうと思います。

しかし、もしそういうインターフェイスがあるとすると、コンピュータの中のものだけど、物理的に存在する物をつくることと変わらない労力が必要になるのかもしれません。完全な複製は変わらず容易ではあると思いますが、違うものをつくり出すときのフォーマットとして使えないデータというか、コピー&ペーストできないデータというか、できないというよりも、やってもあまり意味が無いという感じかな。そのぐらい複雑な成り立ちが必要になるかもしれません。

それと、僕らが普段接している重力とか物理的法則とか、そういうものを無視できる世界において、コンピュータの中と日常の感覚との差異をどう感じるのかが気になります。黒ければ重そうとか、そういう心理は同じだと思いますが、大きいのに軽いとか、固そうなのに握ったら壊れたとか、そういうのが力加減をもって繰り返されるとそれはそれで危なそうです。でも、日常の感覚を超えたところから、新しいものが生まれる可能性はあるんじゃないかと思いました。

と、書いてみて思いました。壊れるとか、変形するとか、そういうことじゃないかもしれない。壊れることが無い世界で、何を起こすべきなんだろうか。この日常と同じで良いのだろうか。人間が知り得る範囲でのいわゆる自然というものをつくるということなのか?壊れるってどういうことだ?変化とは?うーん、難しい。それに話が逸れてる・・・か(苦笑)

ウェブデザインについて / About Web Design

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昨年、ウェブデザインについて、ある方から意見を求められたので、考えてみました。

ウェブは、今や僕らの生活に深く関わっていると言えます。世界中の最新ニュース、天気、地図、交通情報、買い物、日記、知人との交流、とにかく色んな事ができるようになりました。買い物については、ものを探す新しい視点を与えてくれた上に、僕らは随分楽に買い物ができるようになり、知人との交流については、今までに無かったインターネットを経由した新たな出会いも生まれるようになりました。
しかし、ほとんどの部分では、情報を閲覧する場所を焼き直したにすぎないと言えます。まあ、確かに早いし広いし多いのですが、それでも「俺は新聞でいい」って言う人がたくさんいることが想像できます。結局、焼き直しを脱するには、信頼性を伴った全く新しい使われ方が大切なのだと思います。ただ、ウェブが信頼を得るには大きな壁があります。ウェブはパソコンを出る事ができないのです。パソコンを触らない、ウェブを信頼していない人たちに直接語りかける事ができないのです。

その信頼をしていない人たちにとって、ウェブが信じるに足るものになるために必要なことを考えました。まず日常において、信頼性の高い情報とは何かを挙げてみます。
1. 自分がある情報を得ようと思い、期待通りの情報を得た時の情報
2. 信頼に足る人物から手段は問わず得た情報
3. 信頼に足る団体(企業や公的機関)から紙面及び口頭で得た情報
4. 自分の目の前で、多くの人が信頼している、と見える情報
5. 対価が必要な情報
ウェブというひとつの塊が、こういうポイントを新たにつくれたとき、ウェブは信頼を得ていけると考えます。重ねて書きますが、ウェブは信頼を得られていません。人の目に直接触れる影響力をまだ持っていないことが一番大きな理由だと考えます。ウェブを通して、社会や人に働きかける仕組みがもっと必要です。昨今のウェブ上に作られているコンテンツは、そういう意識の強く表れたものもたくさんありますが、人が情報を得るまでの流れを含めた、大きな意味でのインターフェイスが従来のものではなく、全く違うものになる必要があると僕は考えます。全体として、パソコンから出てくるのか、パソコンに呼び込むのかは、どちらが良いとも言えませんが、双方から歩み寄ったあたりに何かあるような気がします。

どういう形になるにせよ、ウェブデザインでより意識するべきだと思うのは、「人生の中で丁寧さを失いすぎてはいけない」ということです。あまりに膨大な情報を扱うことによる予期できない事態や、データやパソコンの持つ半永久的な無変化に、人々が日常の中で触れるとき、人々は本来持っている丁寧さを失っていると僕は感じています。だから、ユーザーの目に入る範囲では、丁寧さを失わせない情報構成や仕組み、ユーザーインターフェイスをつくっていく必要があると考えます。
少し抽象的な話になっているので、一例を挙げておきます。行き慣れた図書館を思い浮かべてください。自分が見たい本を探す過程で、何十冊もの本を取り出し探したとします。見つけた後でも、見つからなくても、取り出した本をもとあった所に戻しますよね。これは、目的の種類は問わず、みんなが持つ丁寧さが招く結果です。利便性を追求して得る何かよりも、この丁寧さを多くの人と共有することの方が、僕たちの人生にとってはとても大切なことだと僕は考えます。

うまれる歌 / Appearing Songs

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随分前に、僕らが知っている歌ってどうやって生まれてくるんだろうって、ふと思いました。とおりゃんせとか、ねんねんころりとか、切手の無い贈り物とか、花とか。歌には、うまれる歌と、うむ歌があるように思います。つまり、大小に関係なく社会がつくる歌(できちゃった歌とも言える)と、個人がつくり出す歌です。僕が子供の頃に触れていた歌は、前者の歌もたくさんあった気がしますが、いまや後者が増えに増え、ほとんど後者なのだと思います。

そんな想像をきっかけに、未来の歌ってどうなっているのかなと考えました。SFチックに想いを馳せると、近い将来インターネットの浸透により、誰かが明確に意図するわけではないにしろ、生活の中にある、けっこう小さな事実までも記録されはじめる気がします。その結果として、噂や口伝は減り、身の回りから曖昧なことが少しずつ減っていきそうって思いました。
となると、人々は自分が直面するあらゆる事態・現象に対して、判断基準を自分の外に求めるようになります。僕の感覚で言うと、わからないときはGoogleに聞こうっていうのは、これに似ている気がします。これがどんどん膨れていくと、「生きることは、ただただ選択や判断の連続が続いていくのみだ」という考えをみんなに植え付けてしまうかもしれません。そんな中では、きっと人と人との関係はとても薄いものになっちゃうでしょうね・・・。なんか、どんどん悲しくなってきました。少なくとも、人には生きる理由も死ぬ理由も無いという実感を迷いながらも少しでも持てるなら、生きることが判断の連続なんかだとは思えないと思うのですが、まあ、こういう考えは僕が思うってだけなので、微妙かもしれません。って、話が逸れてる(苦笑)。

でですね、うまれる歌っていうのを意識して、それが無くならない努力をすると、社会にある色んな問題が解決したりしそうだなと思ったのです。あからさまに「みんなでつくろう!」みたいな仕組みづくりをすると、たぶんうまれてこない気がします。なので、こっそり、ひっそり、ふんわりとした仕組みが勝手にできちゃえば良いなぁと思ってみたりしました。便利なものを使うことは良いことですが、それでもまずは、何かに直面した時すぐに判断基準を外側に求めないようにがんばるのが一番かもしれません。外側の判断基準ってすんごいラクチンなんですけどね。

あ、最後に、ちょっと関係ないですが、音楽って言葉の生まれについて。
何年か前に密教だったと思うんですが、宗教音楽のライブを聴きました。かなりぼーっと聴いていたのでよくは覚えていませんが、聴いているときに、これが音楽の根源だとすると、もしかして音を楽しむのが音楽なんじゃなくて、音にして楽になるものが音楽なんじゃないかと思いました。それは聴く人がって話じゃなく、演奏する人が楽になるってことです。まあ、それを聴く人も楽になるんですけども。僕は楽器が弾けませんが、弾けるようになりたいなぁとは思っています。

お寺について / About a Temple

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あるお寺のプロジェクトに関わりかけたときに考えていたことを、中途半端ではありますが、せっかくなので公開してみます。(ネタ帳に書いてあることを振り返って公開してみるっていうのをやってみようかと思っているので、今回はそのお試しです。)

お寺が持つ全ての要素について、世代に依らないよう、
人が人として反応することを盛り込まないといけない。
色、形、それらの組み合わせによる質。

そして、それらを感じるのはあくまで「人」であり、
何かが存在しているのではない。
(厳密には、存在しているとも言える。)

・存在
・人が生きること
・宗教

感覚
思考

救うとか救われるとか
ではなく
生きていること。

本能は、存在と感覚の子である。

立ちのぼり、集まり、組合わさる。

見た事の無い真直ぐ / The Streight That I Have Never Seen

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見た事の無い真直ぐ

僕は真直ぐなものを見た事があるのだろうか。

ふと、文明の利器無しに、どうやって真直ぐな状態をつくり出せば良いのかを考えていました。木を削ってつくる。竹を裂いてつくる。紙のような薄いもの(葉っぱとか)を折ってつくる。糸を紡いで垂らしてつくる。石を割って磨いてつくる。色々考えていたんですが、なかなか難しい。問題は精度にあります。

困っていたところ、点と線という人間のつくり出した概念に深く関わりのある、真直ぐっていうのは、未だに物体として表れた事はないんだろうと思ったのです。限りなく真直ぐに近いとか、人間の目では人間の計測では真直ぐであるとか、そういうものはたくさんあるのだけど。
ただ、ある真直ぐには固有の重みみたいなものがあって、熟練の職人がつくるとか、広大な大地や海の広がる果ての地平線とか水平線とか、そういうものは数値的な真直ぐである事実は特に必要なく、真直ぐで美しいと思えるのです。

でも、僕は今回の思考の中で、本当に真直ぐのものを見た事があるのか、と自分に問いかけてみました。想像できないその真直ぐさを眼前にする想像をしてしまい、見た事がない、見たいと思ってしまいました。

僕らは普段、定規を使って直線を引いています。その真直ぐである定規は一体どうやってつくるんだろう。もし、その真直ぐが真直ぐではないなら、真直ぐな線はひけません。結局はそれが真直ぐであると信じるかどうかが問題で、それを信じるに足る重みを持たせる事が必要なのです。定規は世界標準的な真直ぐであると信じさせる重みを持っているのです。持っているというか、持たされているというか。僕はそれを信じる事ができていないんだなって思ったのです。

例えその、真直ぐなものを見たとして、どういうことがあるのかはわからないですが、想像できない真直ぐさがあるかもしれないという想像をしてしまったので、考えていこうと思います。

30年に1度 / Once per thirty years

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僕ももうちょっとで30年生きたことになる。

この、人生はじめの30年というものは、肉体や性格や環境が驚くほどの幅を持ってめまぐるしく変わるものだと、ふと思った。もちろん人によって幅は違う。だけど、その幅の中でよりピンポイントに自分が適していると思う幅に絞り、その後の人生を歩み続ける人が多い。結婚だって、起業だってそういうことなんだと思った。

さて、僕はというと、ここにきて良く分からなくなった。わからないというのが、そういう幅を見失った気がする。いや、もともと無かったようにも思える。そして見つけるというより、自分の中に感じようとし始めているみたい。
いつだか忘れたけど、ある日の朝、「生きてて良いんだ」と思った。そして、今年に入って、僕は「生きたい」と思った。
その後に待っていたのは、世界を知りたいという気持ちの第一歩としての、自分に対する解釈なのかもしれない。これは俗にいう自分探しが必要なのか・・・?笑

まあ、こんな気持ちになったのも30年に1度のこと。真剣に受け止めようと思う。

ついでなので、30年に1度あったことを書いてみる。時系列順で。
・生まれた(思い出そうと試みても思い出せないもんですね。何となくぼんやりとあるような無いような・・・。)
・骨にヒビ(痛かった。)
・卵焼きをつくるときに洗剤を入れてみた(もちろん食べずに捨てた。)
・柿の木に釘を打った(ものすごく怒られた。もうしません。)
・ほの暗い森を抜けて見た、山の上の草原の美しさの実感(実に爽快。)
・骨折(これも痛かった。)
・泥棒にやられた(ゲームが全部・・・。)
・兄弟だけで観光(良いものです。)
・生きてて良いんだと思った(ある、徹夜明けの朝のことでした。)
・髪を伸ばしてみようと思った(意外とあったかくて良い。)
・ピアスの穴を開けた(想像よりは痛くなかった。アレルギー無さそうで良かった。)
・スリの現行犯逮捕(女性対女性。被害者は冷静に対処。)
・チカンの現行犯逮捕(女性対男性。ITっぽい男性は、なんだよも〜って顔してた。もっと反省しなさい。)

意外と思い出せない。もっとあったろうに・・・。

30歳までのあと数ヶ月、思い出してみよっと。

FOMA / FOMA (a service of cellular phone in Japan)

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今日、movaからFOMAに機種変更をした。今更ながらソニーエリクソンのSO902i。端末は可もなく不可もなくだけど、FOMAに驚いた。通信速度が早い。さすが3G。前に使っていたWILLCOMと比べると、圧倒的に早い。

ただ、WILLCOMと違ってPCのメールチェックはできない。何とかならないものかと探したところ、WEB MAILERっていう無料サービスを発見。素敵っす。COXSさん。3キャリア対応だし。このサービスを使うと、パソコンでチェックしているメールをi-modeでチェックできるのです。
ちなみにデメリットはこんな感じ。
・プロバイダによっては使えない
・受信プロトコルがPOP3だけ
・添付画像が見れない
まあ、WILLCOMの遅さを考えると、こんなのデメリットとは呼べないな。本当にWILLCOMは酷かった。通信速度以前に端末のキーレスポンスが悪すぎたのも一因だけど・・・。

せっかくのパケ放題なので、便利 or 楽しいことを探さなきゃだ。(何か良いのを知ってる方、教えてください)

しかし、この携帯電話、小さいのはいいんだけど、ちょっと入力しにくいなぁ。マルチスレッドは想像してたより良い感じ。もたつくけど。

信じること / What You Believe

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もし、あなたの携帯電話に、こんなメールがきたらどうだろう。

2010年には国の仕組みが変わります。
そこで、あなたは誰とも相談すること無く、国籍を移すことを決める権利を有します。
今後この件に関する会話を第三者と行った時点で、その権利は消滅します。
あなたがどうするかを以下の三択よりご決断し、ご返信ください。
1. はい
2. いいえ
3. 変更内容に依るので今は決断できない
*この返信の有効期限は30日間です。有効期限を過ぎた場合も権利は消滅します。
なお、仕組みがどう変わるかについては、追ってご連絡します。

突っ込みどころが満載気味なこのメール。突っ込みどころ満載な上に、意外にもはじめに想像していた以上に、人生に深く関わりそうな質問内容になってしまったのですが、この前段として僕が思いついたのは、自分一人でそのメールが国からのメールであると決断しなければならない状況に立たされたとき、その内容もしくは送信者を信じることができるか?また、信じれないとして何がどうなれば信じることができるようになるのか?それと、ちょっと前二つとはずれますが、必ずしも信じる必要は無いと言い切れるのか?です。

これはまた難しい。とりあえず、人生の問題はおいておいて、メールというものへの信用ってどうすれば変わるんでしょうね。浸透していくに従い、仕事での使用ももはや当然のこととなっていますが、実際まだまだな部分が多いですよね。例え、メールの遅延は絶対に無いシステムができあがったとしても、上のような状況で信じることができるのか?っていうと、ちょっと難しい気がします。まあ、上の場合極端すぎてメールじゃなくても信じるのが難しいとも思うんですけどね・・・。僕的には、誰にも相談すること無く自分で決めなくてはいけない状況というよりも、相談する時間がないぐらい緊急な事態があった場合、すぐ信じることができないといけないわけで、とても効率的に大多数の人に情報を伝えることができるのだから、それじゃ駄目なんじゃないかって思うわけです。人って何をもって何を信じてるんでしょうね。能動的な行為により得られたものは信じやすいってのはわかるんですが、それでも信じるまでに至る経緯って細かく見るとどうなってるんだろう。

しかしこの例えメール、映画ができそうだな(笑)

東雲キャナルコート / Shinonome Canal Court

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東雲キャナルコートには、僕が良く買い物をするBYTRICOがあります。ので、何度か行っています。で、このキャナルコートができる前に、ある機会があってキャナルコートについての考察をやってみました。そのときの考察を記事にしてみます。掴みは結構かなり相当淀んでいますが、まあそんなときだってあるさってことです。
ちなみに参考にした情報源はWEBサイトだったのですが、今は閉鎖されてしまったらしく、こんなへんなのがありました。とっても営業用。


今回の考察においての情報元は、公式WEBサイトがメインです。他のメディアや実際の建築群などは見ていません。今回は、広告戦略も考察の範囲に入っていたこともあり、消費者としての僕という観点から考察を進めました。

公団がCODANになり、どんな住宅なのか少し興味を持っていました。その興味から公式WEBサイトを覗いた所、以下のような疑問が浮かんできました。

まちなみ街区企画会議 編
・まちなみ街区企画会議には色々な著名人が名を連ねているが、具体的なことは述べていないように感じる。
・コンセプトがどのように東雲CODAN全体に体現されているのかがわからない。
・住むのではなく滞在という感覚と謳っているが、それなら賃貸の方がわかりやすいと思う。
・世代を超えた住人を考えるのであれば、新しすぎるし、古すぎるのではと思う。
・住居周辺が24時間になることの何が良いのか。不安が大きい。
・時代のニーズをプロデュースするとあるが、具体的にどういった機関がどう動くのかがわからない。
・魅力を褪せること無く進化するとあるが、どこを魅力としているかがわからない。

東雲デザイン会議 編
・どちらに問題があるのかはわからないが、まちなみ街区企画会議と噛み合ない点が多い。
・多孔質を特徴としているが、不特定多数の人を招き入れる空間ではなく、ある程度安全が保証された空間の中でやるべきではないか。
・道とも広場とも違うコネクタという外部空間を作るのは良いと思うが、どう使うのかわからない。
・街全体で住んでいる感覚を、首都圏に住む人たちに求めるのは的確なのだろうか。

上記の疑問は広告戦略に潜む問題から浮上したと考えます。このWEBサイトに全ての情報が集まっている訳ではないので、今の時点で偏った考察ではありますが、WEBサイトにしろ、ポスターにしろ、一番大切な”誰に何を伝えたいのか”が抜けていると感じました。
WEBサイトの中で建築家たちが自分の建築を紹介していますが、どの説明もよそよそしい口調。「ここがこうなって、だからほら、こんなに素敵でしょう?」といった投げかけは見つかりません。きっと建築家たちはそういう思いを持っています。それを引き出せていないと感じます。
ポスターには大きくCODAN・2次募集と書いてあったりしますが、その他は何もありません。あの広告で世代を超えた住人を集めるのは難しいことだと感じました。以前、実際に見かけたとき、僕は遠目に「ふーん」と思った程度です。(ちょっとフォローしておくと、あのポスターは好きか嫌いかで言うと好きなんですけどね。)
WEBサイトの補足説明にはダイナミックなモダンデザインとありました。それが伝えるべきことでは無いように思います。また、おそらく首都圏での設置がほとんどなのでしょうが、首都圏以外から募集するべきではと思いました。そうすることで、より大きな渦を作る場所ができると感じるからです。

以上の疑問を通して、この巨大な東雲CODANにどういった要素を加えていけば面白くなるかを考えました。最も不足していると感じた要素は「何を良しとするのか」と「良いに繋げるためのきっかけ」です。良い生活の形を実現させる試みを考えました。

今となっては随分と意識されなくなってきた町内会を復活させる試みを、東雲CODANの一部(賃貸ゾーンを想定しています)で行います。ただ、従来の持ち回り制に偏った町内会ではありません。予め役割を想定します。また集合住宅であることの良さは隣との距離が近いことです。そこで、共同生活的なグループを考えました。(20代〜30代がターゲットの中心になると思います。)
まずデザイナーを募ります。報酬は家賃です。このデザイナーの役割は、的確な言葉ではないかもしれませんが、グループ内の広報です。以下はいくつかの具体的な役割の例です。

・グループ内の人々に季節を感じてもらいます。(旅行の企画なども良いと思います。)
・皆で祝いたいという希望があれば、お祝い事などの準備を行います。
・料理やお菓子が作れれば尚良いです。
・よく「花を抜かないで!」という張り紙を見ますが、あの張り紙をより効果的につくります。これはきちんとした装置(掲示板のようなもの)を設置しておけば、サイン計画としても考えられます。
・こんなもの欲しいなというときに相談にのります。
・自分を含めたグループが快適に生活できるよう努めます。

このデザイナーを中心として、住人を募ります。その結果、グループができるという形です。ただし、デザイナーという立場の人に面倒なことを押し付けることができるグループではありません。皆で考え、デザイナーは形にするきっかけであり、全員で生活を豊かにする工夫をつくっていくグループを目指します。


上記の案は今は色々な問題を含んでいるとは思いますが、新しい時代に隣人とのコミュニケーションを取り戻し、楽しい生活を送るための新しい仕組みとしては、興味深いものになるのではと考えます。また、デザイナーにとっても新しい生き方になると考えます。


というわけです。久々に読み返してみましたが、何度か足を運んだ今でも、こういうことができていたら楽しいだろうなって思います。僕がこうしたいだけなのかな・・・。

実感 / Feeling of Reality

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WEBに関わっている僕がこういうことを書くのもちょっとどうかとも思うのですが、せっかく思いついたので。

あまり口にされない気がしますが、世界中のWEBサイトの、クォリティというかできることとか含め総合的なレベルは2、3年前と比べると、全体的に一段階以上あがったと実感します。それもこれも、世にたくさんいるWEBデザイナーのおかげですし、それを取り巻く色々な人のおかげでもあります。感謝ですね。みんな、えらいなぁ。えらい!

今年はまだまだあがりそう。
今はまだあんまり無いけど、もう少しでパン屋さんや八百屋さんと同じように感謝を受ける日がくるんだろうと思いますよ。感謝することされることは大切です。

デザイナー / DESIGNER

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新しい名刺
ちょっと前に新しい名刺をつくりました。
焦って数時間と一睡眠でつくったわりに、割と好評で嬉しい限りです。

肩書きはDESIGNERです。以前の名刺にはDirector / Designerと書いていたんですが、どうもしっくりこないなぁと思い変えました。”それ”であることがしっくりこなかったというより、やってることはとても広義にDESIGNだと思っているのに、自らその広義に枠をつけている行為に似ていると心の底で感じてしっくりこなかったのかなって思います。

僕はDESIGNをするDESIGNERです。もう誤解は怖くありません。

とはいえ、DESIGNってなんだ?っていうのは難しい問いです。まだまだ考え続けます。
ちなみにですが、さらに僕的には、それってArchitectureなんですけどね。

靴屋の後の靴屋 / Shoes Shop After Shoes Shop

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靴屋がつぶれた。そこに他の靴屋ができた。

ある土地であるお店を営むという行為は、社会の中でその土地の性格を構築することでもある。だから、靴屋の後の靴屋というのは、よくも悪くもはじめからみんなの記憶の中にある。それをアドバンテージとできるのなら、それは意味のあることなのでしょう。今までは気がつかなかったけど、これもお店をやる上で大切なポイントなのかもしれないと思った。


『「ある事柄に関する僕の記憶」があることを知っている他人の記憶』って、その事柄にとってはとても薄い記憶なんだろうけど、それでも世界中に飛んでいくものなんじゃないかと思った。それは10Mbpsですらないかもしれないが、1000Gbpsよりもっとずっときっとすごい力があるに違いない。記憶エイリアス。世界をつくっている要素の一つはこれだ。たぶん。

グレーな抑制 / Vague Control

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インターネットにおける未成年者の行動制限は、今までも色んな話題が出ていました。ペアレンタルコントロールとかも随分と前から考えられていたりしてます。ちょっと考えてみると、個人レベル・家庭レベル・学校レベル・社会レベルとあって、この4段階での対策が必要となるとまあ大変だなぁと思います。
が、一方で、アクセスさせないように仕組みを作ることが本当に有効なのかという疑問が僕にはあります。じゃあ、この問題で何がポイントになるのか考えてみました。

まずインターネットというものは、ある面では仮想社会の中での事実をデータ化して蓄積する巨大な仕組みです。「いや、私はネットショッピングを楽しんでいるよ。」という人もいるかもしれません。個人としては楽しみという面が顕著に目立つものなのですが、これが現実空間だとして考えてみるとわかります。もし、とあるなんだか楽しいビルがあるとして、その中でのすべての行動が逐一記録されていることを知っていたら、それを良しとして楽しめるか?っていう話です。僕は無理です。でも、そのビルがトイレの必要がないような、例えば単なる通り道的なものであれば、まあ納得できるかもしれません。数年前のインターネットはそんな感じだったかもしれませんが、技術の進歩と利用者・利用時間の増加でやっている行動・できる行動が増えるごとに、そのビルは例えるならホテルやマンションに近づいています。自分の寝息すら記録されているホテルの中で安らかに過ごすことができるでしょうか?さすがに無理でしょう。
人間は年齢を重ねるごとに自分のことを表に出し始めます。出し始めるというよりも、出てしまうことに執着しない傾向にあると感じます。ただ、出すことが自分にとって不利益だと思っていることは絶対に出さない、悪い意味でも良い意味でもそんな二面性を持つことになるもんなんだと思います。で、いわゆる成長期にあるこどもというのは、そんなものの存在は考えないし、しないのです。じゃあ、そういう二面性があることを伝えれば良いのかというと、そういうものでもないもので、ある程度の時間をもって自分の価値観を構築していく中で、築き上げられるものでしょう。インターネットの中で容易にできてしまう行動が今後もどんどんどんどん増えていく中で、どの面をインターネットで出すことが自分にとって不利益なのかということをコントロールしない限り、アクセスを制限したって駄目なんじゃないかと思います。アクセス制限ってのはいくらでもかいくぐれるものでしょうから。なので、インターネットの中で行うひとつひとつの行動が結局どういうことなんだという認識作りをしていかないといけないんじゃないかと思いました。でも、これって大変というか、難しいだろうなぁ。多くの価値観を多くの人と共有する必要がありますからね。
じゃあ、ちょっと話を少しずらして、ある範囲の中にある、ある事柄をデータ化することが、誰にとっての有害で、誰にとっての利益なのか、について考えてみます。
例えばいつ誰が何をどうやって買ったのかという情報は、マーケティングを生業にしている人にとっては非常に有益な情報です。データ化されていることで情報として取り出せて、戦略の材料として使えるわけです。がしかし、これって例えば近所のスーパーで同じことをされていると知ると周囲の住民にとってはいい迷惑というか、食べ物ぐらいならまああれですが、本や薬といった範囲にまで広がるとすごく迷惑な話です。しかもそのデータを誰でも取り出せたりすると、もうなんでそんなことするのっ!って思うでしょう。まあ、誰もそんなことはしないんですけど、しないというのはどういうことか知っているからしないんです。こういうのってちょっと広義にいうと、自分の身近な人間関係のデータ化、もう少しわかりやすく言うと数値化ともいえます。
じゃあ、こういうことをこどもはしないでしょうか?たぶん、野山をかけまわってスズメバチと格闘したり、田んぼでザリガニと泥まみれになってたり、帰っても山盛りのご飯を食べて家族と話して寝てるような生活なら、たぶんしません。でも、携帯電話を持っているようなこどもたちはわかんないわけです。例えば携帯電話のメモリ。これって人間関係をデータ化したものです。これをクラスの中で誰が誰のデータをもっているか統計とって閲覧可能にしちゃったりとかすると、結構イタイ情報を生み出しそうですよね。メモリの量が一番多いのは誰かとか、誰がクラスの中で一番メモリされていないかとか、安易にわかってしまうわけです。そんな状態で、長い時間を複数の人間と過ごす環境にいたとすると、たぶん、ふとしたときの特別教室の理科の時間とかに自分のと周りの仲の良い友達のメモリをあわせて数値化してみて、おお何かおもしろいかも!とかってチェーンメールなんかで周りを巻き込みつつ、変なデータをつくりはじめるやつとかいそうな気がします。で、そのデータがヤバい要素も含んでいることなんて思いもせず、やってみてそのデータに振り回される環境を作ってしまうわけです。これは、データの持つ潜在能力を理解しないまま、楽しさ優先でやってしまうような一例です。でもここまで読んで思うのですが、「まあ人それぞれに色々あるのだから、そんな情報ではその人の価値なんて決められるようなもんじゃない。気にすることはないさ」って思え、そんな行為をしないのがいわゆる大人な感じがしますが、だからといって「何が悪いのか?」って問われたときに答えられる気がしません。それじゃまずそうです。だって、ふとした思いつきでできてしまうようなことを抑制する手段が、おのおのの倫理観みたいなものに依存するしかないとすれば、こどもにとってそれは問題でしょうし、それに答えられない大人ってのも問題ですよね。まあ、ちょっといじわるな人だと「そんなことをしてもそもそもの犯人が誰なのかはよく調べればわかることなんだから、やって得することは何もない。やめておけ。」と法律に抑制されるがままの人間って感じな方向付けをしそうですが、殺人とか泥棒ならそういうグレーな抑制でも自分の損益として理解しやすいからそのままでも良さそうですが(深くつっこむと止まらなそうな話なのでさらっと書きました。)、日常生活のすぐ手の届くところにある、損なのか得なのかがいまいちわかりにくいことに関しては、そんなことじゃいけません。なので、上の例にさらに突っ込んでみて核にある問題点を抽出してみることにします。
人は比較や直感を駆使して、あるものに関する価値観をつくっています。単純に言うと、考えているわけです。ポイントとしては”自分で”考えることなんだと思います。で、その考えるときにさらにポイントになるのはペースで、自分のペースでつくるのが自分の価値観になるのだと思うのです。もしあるAという事柄に関して自分のペースで価値観を判断している途中に、何らかそれに対して決断を余儀なくされる場合、人はそれがまだ未決な存在として決断、例えば何もしないとかを選択する気がします。むしろ、何もできないことを予測してその決断ポイントに近寄らないってことも考えていると思います。しかし生活の大部分において、同じ空間同じ時間を共有する多数の存在がある環境では、自分の考えるペースを保つことが難しいのです。これは日本人の性質の目立つ部分でもあるのかもしれませんが、人間は根底にそういう気持ちって持つもんなんじゃないかなと思います。(それとは別に根底にある、早い者勝ち思考がそうさせている気もします。これについてはまた後日。)となると、問題はどんどん難しくなってきました。難しいので今日はこのへんでやめておきます。

一応まとめ。いやぁ、やっぱり学校の先生ってすごいなとつくづくそう思います。そういえば、インターネットに関する制限の話を書いていたんだった。ま、まあ、インターネットとはいえ、根本は同じだということです。
あと補足的に、僕は携帯電話が悪いとも思わないですし、今の教育否定しているわけでもありません。否定できるほど理解できていませんし。

信号機 / Signal

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