可能性とモチーフ

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「死刑は人間の可能性を根源から否定している」

葛城事件という映画でヒロインが叫ぶ持論だ。僕はこの主張こそが人間を根源から否定していると感じる。死刑囚と獄中結婚をしたというから随分と頭のネジが飛んだ人だなと思ったが、この主張を聞いて単なる阿呆であることがわかった。自分の考えがいかに浅薄であるか気付けず、とても大切なものを安易に失ったたわけ者だ。こういう人物のことを深く知っても僕の人生にはなんの足しにもならないと思いながらも、誰かの表現でもある映画は最後まで観た。

死刑の是非については、僕も確信が強くある訳ではない。ただ、巨大だがほぼ見えない抑止力としてある程度はうまく機能していると思うし、ルールを破って誰かを傷付け自滅していく人について、他者がその命を絶ってはいけないなどとは思えない。僕がヒロインを阿呆だと言っているのは、人間の可能性というものを言葉通りのまま盲信して他人を傷付け自滅へと向かっていたからである。悪いことをした人が改心する可能性はゼロではない、が、可能性とはあるかもしれないしないかもしれない経緯や結果の分岐の存在を示しているだけであり、そのうちの全てが起こる保証などどこにも無い。つまり、分岐の1つとして示していながらも、絶対に起こらない分岐である可能性がある。このような不確定で確信不可なことを信じて自分の大切な人を傷付ける行為をする者が浅薄なたわけだと断ぜずにはいられない。

7色x100個の玉をいっぺんに7 x 100の枠に向かって投げたとき、虹のように綺麗な7つの色の列ができる可能性。確率論から言うとごくわずかな確率で起こり得る出来事である。しかし僕たちは経験的にそんな結果はあるわけないと分かっている(一生を賭けたとしてもすべての玉が枠に収まることさえ奇跡だ)。ランダムに起こりうることは実際には満遍なくは起こらない、これを違う方から見ると、僕らが想像・体験するような短期間・少試行では偏ることが当然の結果だと認識できることなのだ。加えて意識できない干渉まで存在する(上の例だと言葉だけでは気付かない枠に収まらない現実)にも関わらず、それらに蓋をして可能性は無限大という話に目を向けさせるからおかしな勘違いが多く生まれている。でもそういう勘違いから偶然生まれる結果もある可能性までは否定できない。否定はできないが自身の理解として第一歩目の時点からどう捉えるかはとても大切である。21世紀に向け可能性という言葉が蔓延り、今は多様性が蔓延ってきた。いずれも勘違いにまみれやすいことは理解したいし、安易に口にする人の言うことを信じてはいけない。

‪お金が無いと大切な人も大切にできないって言葉をみかけて、正直驚いている。大切にするの意味が狭すぎてなんともはや。。。人の人生はあなたのじゃない。そのコンプレックスの深さに早く気が付けると良い。自分のことだろう。あと、足りないなら稼ぐしかないだろう。誰ともなく。‬

モチーフとモチベーション、とても近い意味の言葉でありそれぞれが別の言葉で代替しにくい微妙な意味を含んでいる。しかしカタカナ英語になってしまうと、モチーフは何かの物質であり、モチベーションはなにか上がったり下がったりするもの、と思い込まされてしまう。本当におかしなことだ。文化や思想の異なる外国から入ってきた意識であるが、これらは生きる上でとても重要な言葉である。

日本語に直訳すると、動機やきっかけが一番近いだろうか。直訳で考えてみてもわかる、きっかけが上がるだろうか?動機の根源が自分の外側にあるだろうか?カタカナ英語らしい狭義な意味で、モチーフにする物を探すとか、モチベーションを高めるというように使っている。さも創作や生活の中で正しくあるために誠実にいるためにそうしなくてはならないと意識させられたり教え込まれる。そのせいで本来の意味が大きく損なわれ、その分、意識も届かなくなっている。モチーフを見出せること、モチベーションを感じることは僕たちの人生の根元に関わる大切なことだ。全人類にあてはまるし、そこを飛ばして他人を理解しようとしても真逆を向いているようなもので相手のことが見えようはずもない。本当にとても大切な言葉であり、上がったり下がったりなんて浅い認識とは程遠い事柄である。

例え話を挙げてみる。鳥の羽がカッコいいから真似をしようと思ってやってみた。この時、かっこいいから真似をするということがモチーフでありモチベーションである。どう真似するか何を真似するかは分解すれば出てくるが、鳥の羽だけがモチーフで、カッコいいだけがモチベーションとは言い難い。よくよく考えれば羽に目が向くそのあなたの生きてきた道の先に辿り着く場所である。その積み重ね込みで意味があり、そういうことを含めてのモチーフである。

少し話が外れるが、ビジネスワードではWhyが重要とかWhyとは何だとか言っている人もいる。Whyは単なる疑問副詞だ。馬鹿みたいな指摘だがそれはそうとしか言えない。その語自体に意味は無く、それに関連する話題が物事の前提を扱うというだけのものである。Whyを考えることに意義はあるものの、Whyを考えるぐらいならMotifを遡って考える方が的を射て有意義であろう。MotivationはMotiveの名詞、MotiveはMotifから来て、MotifはMotif(仏)から来ている。

仏から米へ渡る過程でも変化はあっただろう(実際は仏英米だと思うからそれほどでもないかもしれない)。しかし遠く離れた日本に着きカタカナとなった。このカタカナ英語の罪は本当に大きい。発音の誤解もさることながら、狭義な意味で使わされる現状がある。この話題に限ることではないが、どういう切り口であれ範囲の狭い枠の中にいては生きることの良さを実感しにくくなっていく。カタカナになる英語は流行り言葉みたいなもので、流行りの時期にはそれほど生活に密接な関わりがない言葉たちだが、それが根付いてしまうと生活や人生に大きな影響を与えてしまう。カタカナ英語は便利だがもっと厳密に扱うべきだろう。嫌悪する人が多いのもこの辺りの感覚を自然に感じるからだとも思う。