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基準と淘汰

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日本人は事なかれ主義だ。アメリカ人は横柄だ。中国人は狡い。若い人は軟弱だ。年寄りは頭が硬い。こういう言い方は、ある個人の性質を指すことは絶対にないものだ。言ってる方も言われる方も、誤解をしている。そのような存在や発言に怒りを感じるのはとてもおかしい。それを自分のコンプレックスに気付くきっかけにはできる。

主従関係という言葉の範囲を勘違いしている人は多い。主人と従者。奴隷時代は当たり前だった関係性だが、今の社会構造ではごく一部の人にしか当てはまらない。一番勘違いしている人が多いのは、従業員の従が主従の従だと思っている人。従業員とは主人につく従者ではなく、従事している人、従業している人のことを言う。そしてそういう都合の良い勘違いから、例えば会社の代表取締役が主人だと思い込むその浅はかさに辟易とする。この勘違いを多くの人が思い込んでいるせいで、営業と現場、企画と製作など、同じ立場の関係性においても主従があると思ってしまう。その結果がこのような内容に違和感を感じない感性だ。

「弊社の担当にやらせます。」お金を払うクライアントに対して、間を取り持つ人が発する言葉である。この関係において例えば「弊社の担当にやってもらいます。」と聞くと違和感があるのではないだろうか。もしそこに違和感を感じるなら、注意深くその意識を眺めてみると良い。弊社の担当にやってもらうことのどこに失礼があろうか。言う相手が社内の人間だったら違和感を感じないのなら、誰に対して発しても何ら問題はない言葉だ。

僕は、やらせる。という言葉が大嫌いだ。

(ごく一部と限ったのは、師弟関係においては主従があるからである)

タイプライターが全盛だった頃から1990年代ぐらいまでの話。英文のセンテンスの後(ピリオドの次)にスペースを2つ入れる習慣があった。これはタイプしたキーが戻るとき、素早く押された次のキーと衝突しないよう間を持たせるための行為から2つ分のスペースが入っていたそうな。そんな背景は関係無く、僕は英語がそれほど得意ではないからピリオドの後がより開いている方が読みやすいので、自分で書くときはスペースを2つ入れるようにしている。

‪話題をすり替えるなと言う人、大体はその人がすり替えようとしている。例えようもないのだが強いて例えるならば、個人の問題からはじまりそれが業界の問題であると話を繋げていくとき、個人の問題から業界の問題に話をすり替えていると指摘したりする。個別の問題は業界の問題ではないとか、この理解力の低さに呆れる場面もしばしばである。もし何か違和感があり指摘するとすれば、はじめの問題意識そのものか、話の繋がりについてであろう。すり替えなどという発言は全くといって良いほどに意味が無い。その発言が意図を大きく取り損ねていることに気付かない人にそれを解説するのはとても骨が折れる。なぜか、はまあ推して知るべし。わからない人はとにかく口癖のように使っている「話題のすり替えだ」という発言をやめて議論や会話を組み立てると、少しは建設的な話し合いができると思う。‬

‪◆‬

‪字の書き順は道具の性質に由来している。それが作法となるにはけっこう時間が必要で、長いこと筆で文字を書いてきた日本では学校で習うような書き順が作法として根付いている。その作法からすると、違う書き順は許容し難く、作法を違えている人を見ると育ちが悪いとまで感じてしまう。‬

‪その作法の中にいることの良さは大いにある。しかしその中にいないことを許容できる気持ちは持てるようになれないだろうか。洗練され続けた書くという行為の連なりから、限られた紙を慎重に丁寧に扱うための作法が生じた。しかし製造が大変で貴重なものであった紙に綺麗に字を残すことを一生懸命やっていた時代を思えば、今はずいぶんと変わった暮らしをしている。もちろん今なお名人が懸命に作る貴重な和紙はある。しかしそれは特殊なことと考えて珍重すれば良い。特殊な状況を除いたごく一般的な範囲において、故意に状況を悪くしようとしていない人に対して、礼儀に反することだ、とまで思われてしまうと、そこまでのことではないだろうと感じる。なんなら道具の性質に基づく作法が違う道具を使う中で出来ていないことの方が文化の形成に寄与していて、道具が違えど正しい使い方の範囲に頑なに留まろうとすることの方が合理的ではない可能性もあるかもしれない。茶道花道弓道柔道剣道書道というような作法を厳密な形式に取り入れている活動においては重視されても然るべしだが、僕らの全行動からみればごく一部のことで一般論にできることとは思えない。‬

‪文化のことはたまにもやもやーと考えるが、生じて転じて根付くまでの過程にある一連の出来事はここのところ少なそうな気がする。例えば、僕の好みから古びた良い美味しい居酒屋という文化。今なお僕らが行けるようなお店の形態はいつごろだろうか、詳しく知らないが江戸時代あたりから生じて転じて今に至っているだろうか。しっかりと根付いていたようであったが今は失われつつあるのをひしひしと感じる。今の世で根付いて続くために必要なことはお金、法人、後継者だ。しかし良い居酒屋を切り盛りする老夫婦を見たことがあるだろう。あのタイプのお店はお金もないし個人事業主だし、子がいても後継者はいないような状況が多そうに見える。あと10年いや20年経てば、僕が大好きなあの手のお店のほとんどは無くなってしまう。その理由の中心にあるものはお金だ。物の良さや人生の豊かさをなおざりにして、お金を理由に後が続かない。‬これを淘汰というだろうか。他にもそういうことは色々とあるだろうが、個人的に気になっているのは木造建築や工藝。これらも同じような道が待っている。この状況を淘汰と断じるのはどうだろうか。僕はおかしなことだと思う。

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