久々の雑感

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閉店間際のスーパー。

魚売り場や肉売り場に立ち、大量の、それはもう明らかに食べきれないであろうと思えるほど大量の肉が並んでいるのを目の前に、普段自宅で「あれとこれ使い切らないとまずいなぁ」と思うときの感覚を持ち出すと、こんな大量のものどうしよう。。。とにかく食べなくては、と焦燥を感じる。

それを見て何も思わないのは、自分自身の生活とは直接関係が無いと思えていて、状況にも慣れてしまっているからだ。金勘定に軸を置いた効率良く分配するための行為が、果たしてこれは効率的と言えるのだろうかと思える事態を生んでいる。分配を効率的にできなくても、効率的に消費できればそちらの方が優れていると感じる。どちらも成立させれば良いのに、今は一方的すぎるんじゃないか。分配の効率を下げるとどうなるか、好きな時に好きなだけ好きなものを買えなくなる。たったそれだけのことである。

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便利になって、めいめいが作りたいものを作っている。

かつて、これが仕事だと言われながら一生懸命作る千本格子の戸はもうずいぶんと減ってしまった。良くなったのだろうか。なにか投げやりな感じにも思える。

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今まで色んな人に会ってきたが、女性特有の観点について思うことがある。

女らしさ、女々しさというような言葉たち、それと、夜に笛を吹くと大蛇が出る、夜に爪を切ると親の死に目に会えない、新品の身につける物は午前中におろさないといけない、という諸説あるがある程度は昔からきている迷信の類い、こういうことに抗いたい気持ちになっているのは経験上、女性が多いと感じる。

女なのだからと虐げられたと感じた経験があれば、女らしくある必要性への怒りはまあ理解できる。しかし虐げたのは本当に第三者だったのだろうか。道すがら、女性を見かけて女らしくしなさいと言う人はごく稀だ。つまりはよく知っている人で、しかも第三者から見て気をつけてほしいと感じたからこその言葉なのだろう。そう思えば、自ら虐げていたと言えなくもない。まあこれはちょっと大人気ない論調だ。言う側の意識や悪意の問題もある。これはひとまず置いておく。

次、迷信について。こちらも前述のことと同じような動機で使われるものもあるが、爪切りと死に目の相関関係というように、その間の繋がりについて到底思いつかないようなものがある。諸説あると書いたが、今ある諸説など全部ウソだと思う。迷信にわかりやすい因果関係など必要ない。僕が思うにそれは、とても大切な繋がりがある人間関係において生じる信頼性にのみ拠っている有難い言葉なのだ。大切な人から教わった言葉を大切な人に伝えている。それを根拠のない迷信だと貶めてしまったのは誰でもないその人自身だ。自分の身近なおばあさんが教えてくれた言葉と、どこの誰かわからない人が考えたさもそれっぽい言葉とを比べて、大切な人が嘘をついていると判断してしまったのだ。自分の中で「うそだろー」と留めるのならまだわかるが、そんなことは私には関係無いと跳ね返してしまうことの暴力を感じてもらいたい。嘘だと言う必要もなければ、意味が無いから従わないなんてのも無用、ただそういうものかと受け止めて良いことだと思う。そして、自分の大切な人にも同じように伝えてあげてほしい。

ちょっと逸れるが、フェミニズムって考え方自体が男性的に感じる。女性はもっと軽やかで現実味のある実感を大切にできる。その立場を差別されていると感じるのは性別の枠に捉われすぎている。語弊があるが、男など、もっとバカにしても良い。

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辛いと感じる状況を放っておくとロクなことにならない。

例えば、通勤で辛いと思い続けていると自分の行動や思考がそれ基準になっていく。辛い状況に接さなければ良いだけの場合であってもそういうことに思いが至らないことは少なくない。

数はテキトーだが、傍目からみれば通勤が辛いのなんて1.3億人のうち0.1億人ぐらいの話でしかなく、なんなら70億人のうちの1億人ぐらいの話でしか無い。少数な世界のことを考えるのがムダだとかダメだってことではなくて、少数でいえばもっと私的なことにはとても大きな価値がある。逆に大多数のことにも価値はある。微妙な規模のためのことがあたかも正当である真理である、そういう捉え方が危ういと思っている。インターネットでさえ70億人のうちの30億人ぐらいの出来事だろうし、SNSやウェブサイトで言えば5億人10億人ぐらいの出来事なんじゃ無いの。比率をそのまま日本に当てはめると0.1億人に満たない。自分の考えがその中のことなのか、その世界を広げることなのかはとても重要な切り口であるように思う。