食べるについて

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今までも食にまつわることは色々書いたのだけど、もう少し膨らませていきたいので、気になることをまとめてみました。写真は最近の僕のごはん。このページでもう少し大きく見られます。

灰汁について。灰汁ってとるもんだとずっと思ってましたが、ここ最近の自炊生活で、灰汁って美味しいなと思うようになりました。普通に食べると駄目です。えぐい。なのですが、1日2日とおいておくと、そのえぐみがじんわりしてきて、すごく良い。全部の食材の灰汁が美味しいかはわかりません(ものによっては毒があるとも言われてるみたい)が、ごぼうの灰汁は美味しいです。きんぴらとかお味噌汁とか。火を通したばかりの、できたてじゃなくて、ぜひ試してみてほしいです(特にお味噌汁のできたては、美味しくないので要注意)。まあ、僕の好みが偏ってるっていう可能性は多いにあるので、ちっとも美味しくないじゃないか!って人もいるかもしれませんが、怒らないでください。

あと、友達に教えてもらった重ね煮というのが手軽で良かったです。食材の陰と陽を意識した養生料理だそうです。陰とか陽とかってなんだよって思う方もいると思いますが、なんかそういう印象とは違って意外にも、理にかなってる感じがします。僕はしばらく試してみようと思っている感じです。

乾燥とか発酵とか焙煎とかのわりと原始的な加工の工夫と、砂糖とかお塩とか油とかを使う調理的な工夫以上に保存が利くやり方はとりあえずいらないんじゃないか?それを真ん中にするだけで、仕組みは大きな変化を求められ、ずいぶんシェイプされると思う。するだけって言っても、すごく大変なんだろうけど。

でも、コンビニの流れそのままで、流れるもの(物も仕事も)をがらっと変えて、結果として手で作るものを売るようなやり方に変えられるとすごいことになると思うんだけどなぁ。

化学調味料の話をすると、気にしている人にとってはタバコの話に近いような印象を抱く人がいる。僕は化学調味料って好きじゃないけど、すごい嫌だとも思わない。あの手軽さはすごいと思うし、アジア諸国を中心に大人気らしい。そんな化学調味料なのだけど、最近きついお店がすごく増えた気がする。僕が変わっただけなのかなぁ。ここのところ、自炊をはじめたのはそれもある。ちょっと敬遠気味な店が多くなってきて、お昼食べに外にでても、外食できるものの中から食べたいものが浮かばない。食べたい味や味付け、具体的な野菜なんかは思い浮かぶのに。だから思い浮かんだ味から追っかけて、食べに行くのと同じぐらいの時間でつくれるものを、身近な素材で作ってるって感じ。

化学調味料のことをもう少しどんな感じか書いておく。1〜2年ぐらい前からかな。きついとこで食べると、あの痛いというかえぐいというかウヤウヤした感じが1〜2日つづく。軽くても昼食べて夜寝るときまで続く感じ。コンビニのおにぎりは口に含むと、もちろん我慢できる程度だけど、ちょっとだけ吐き出したい感じがある。これは随分前からあったが、前はそうじゃないのも多かったし、外のおにぎりはそういうもんなんだろうぐらいに思っていた。あの匂い、なんなんだろう。

まあ、何でもそうなんだけど、例えば「これがオレンジのジュースよ」と言われ飲んだ飲み物の味は、オレンジのジュースとして覚えることになる。でもオレンジの味と、大体のオレンジジュースの味は明確に違う。テレビの中の人と現実の人がどちらも人だけど、前者は人が映っているだけで厳密には人ではないということと同様に。

覚えることと、実際に感じることの差をはじめから無いものとして付き合ってると、本当にわからなくなってしまう。みんながみんなこういう種類の認識の仕方をどこかではしていて、気がついているものの気にしないとか、そもそも気がついていないとか、色んな状況を生んでいる。例えば、木調と木とか、陶器と樹脂とか、スピーカーからの音と本当の楽器の音とか、マイクの声と人の声とか。人と話すのにはこの差を厳密にしないってのはすごく有用な(というか、厳密にすると話にならない)のだけど、そこを自分の中でも埋めちゃうことに対しては意識を持っていたいなと思う。

そんなこんなで、化学調味料の入っているものは絶対食べないぞ!なんてのは無理だと思うし、わりとおおざっぱな僕は少なければたぶん気にしない、というかたぶん気づかない。そのぐらいの範囲で使っていけば良いんじゃない?って思うかな。まあ自分では理由が無い限りは、使わないようにしようと思ってるけど。わざわざ選ぶものじゃないとは思う。

ビタミン剤とかの薬というかサプリメント、僕はあまり良くないと思っている。もともと薬に頼ることが好きじゃないというか、自分の体調を復調路線に乗せる為のきっかけぐらいの使い方しかしないようにしている。日頃飲む薬も、科学的なものよりは丸薬みたいな昔からある薬とか漢方っぽいものを飲んでいる。僕と薬がそのぐらいの距離感なのもあるけど、色んな本を読んだり話を聞いたりしていて、やっぱりそうだよなと思ったことがある。

例えばビタミンEが肌荒れに利くっていう効能があるとする。ビタミンEを摂取すると肌の状態が良くなるってことだけど、普通の流れでいうと、かぼちゃを調理し食べると、消化をしその過程で必要な栄養素を吸収し、排泄する。この流れの中には大切なことがたくさん入っているけど、ここでは「ビタミンEが肌荒れに利く」っていうことと比べられるようなところだけを取り出して考えてみる。

簡単に言うと、必要な栄養素を吸収する、というところがそのあたりに該当すると思うけど、このときの吸収っていうのは、ただひょいと取り出しているような行為じゃない。僕は詳しく知らないけど、口・食道・胃・小腸・大腸と食べた物を通す中で、消化液とか菌とか運動とかまあなんやかんやが、食べ物を変化させながら分解しより分け吸収したりしている。

この一連の流れにこそ、肌が良くなるっていう結果を生んでいる現象が含まれているのだと思う。もし単なるビタミンEで単なる肌荒れが治るんなら、もっと効果が出ててもおかしくない。全体の結果としてみれば、利かないとは言わないがまあ利かないようなもんだわなっていう程度だと思う。(僕はビタミン剤みたいなものは風邪薬とセットで飲んだりするぐらいで、そんなに飲んだことがあまり無いから、実感はほとんどないのだけど)

利くときもあるだろうし、そもそも好きずきもある。この話、このぐらいで終わるなら良いのだけど、食べることをせずビタミンEを摂取することをやっているとどうなるのだろうか、につっこんで考えてみる。割と簡単な話だけど、やってないとやれなくなるっていうことだろうと思う。食べた物が排泄できなくなる、なんてことがあるとは思わないけど、あるものが分解できなくなるとか、あるものが吸収できなくなるとか、そういうことは想像に難くない。例えて良いか微妙だけど、自然界の食物連鎖みたいなものを思い浮かべれば、流れが途切れると失われていくものがあり、それはもうものすごい年月をかけてぐるーーーーーーっと一周して戻ってくるぐらいのことなのだと思う。怖いと思うけどな。ポリポリとサプリメントを食べるのって。

以前、食への興味からつながって、辰巳芳子さんの「食の位置づけ」という本を読みました。そこから色々思った、人間の尊厳食育祈り、なんかを書いたのをすこし前に思い出した。食べることってすごいけど、楽しい食であれば良いっていう状況ではないのかもしれません。論っていうほど大げさなものじゃないですが、過食論っていうのも 書きました。こういう話は未だにありえるというか考えないとかもなと思う。

ちなみに、食と関係ないけど、僕は地震以来、祈りっぱなしです(お祈りしてるわけではないです。たまに弱まる)。抜き差しならぬ状況では、例えたり、比べたりしている場合ではないのかもしれないとも思う。

生きていくについて

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この頃、時間ができるとよく考えるのは、これからの生きていくについて。まあ、いつものぼんやりとしたアレです。2ヶ月分ぐらい。

ここのとこ、お手軽料理をちょいちょい作って食べてるのだけど、ニンニクと胡椒は使わない方向でやってる。これなかなか良いです。大学生時代につくってたころは入れるのが当たり前ってなってたけど、んなこたない。自炊されてる方にオススメしたいす。入ってても食べられるし美味しいものもあるけど、無くて美味しいものも日本には多いと思う。素材そのものの味は美味しいのだけど、か弱いものだと思う。

日本酒にしろお味噌にしろ、現状を思うと、ずいぶん遠回りをしているなと思う。遠回りをしたあげく、醸造アルコールだとか化学調味料だとか、大型スーパーだとかネット販売だとか、ちっとも良くない。せっかく積み重ねてきた智慧や経験、技術をなぜやめて、なぜこういう薄っぺらいものに変えてしまったんだろうか。誰も望んでなかったろうと思う。実際、はじめにこれを目指して、化学調味料をつくった人はいなかったろうと思う。これ、なんなんだろう。

でも、こういうのって、やってみたからわかるっていう種類のものだとも思う。わかったなら、少しずつ戻すというか、折り合っていかないと、大きなものを失っちゃうんだろうな。

本当のことを言えば、あんなに身近であんなに美味しいものは無いと思う。飽きちゃったってことなのかな。しかも今でさえ、あんなに安く買えるってすごいですよ。人気がなくて売れないから安いのかな。

中国に華僑ができたような動きをできないものか。

少し前、知人と飲んで話をしていたのだけど、中国でいう華僑みたいな動きをやれないと日本は厳しいんだろうと思っている。とはいえ、華僑の方たちはちゃんとその土地の生活に馴染む手法と努力でがんばった。僕らに同じようなことができるかと思うと、難しいのかもしれないと思う。

全くの新しい土地で新しくはじめるには、違和感無く受け入れてもらうことが大切。僕が思うのは、華僑の人たちがそうだった(んじゃないかな)ように、その土地のものでつくった料理を提供することからはじめると良いのじゃないかということ。で、ありきたりな言葉で言えば、プライドがあるとそういうことがやりにくいものだと思う。

僕が高校生の頃、旭川の川辺の緑道にあるベンチに座ってぼーっとしていると、おじいさんが一人やってきて、僕の横に座った。おじいさんは、食費が1食50円であること、それはうどんであるということ、年間節約賞みたいなもので県庁から表彰してもらったことなどを話してくれた。(そんな賞があるのかは定かじゃないけど)

話は変わってまたその昔、小学生中学生ぐらいの頃、僕が住んでいた家は、3人住まいで家賃が6000円だった。家で食べる分の食費は20000円ぐらいとおばあちゃんに聞いたことがある。光熱費は10000円ぐらいだったのだろう。あわせて40000円に満たない。

こういう生活を思うと、今の僕の暮らしは随分と贅沢なことだと思う。でも、その当時の僕は特に不便などなかったし、夕食の支度の手伝いも楽しかった。小公女セーラとか日本昔話とかなんやかんやとテレビを観たり、机は無かったけどねっころがって勉強もした。できないことはたくさんあったけど、幸せだってたくさんあった。僕はいわゆる贅沢な暮らしができるほど裕福ではないけど、特別な倹約家でもない。ただ、今の僕の生活を、昔のようなところに落ち着けるのはやはり難しいような気がする。何でだろう。

実感と違う、ねじ曲がった認識が数多くある。今、特にねじ曲がってることの原因は効率やお金にある。

戦争すると儲かるとか、経済が大きく動くってよく聞きます。あれ、経済的な影響は確かに大きいのだと思いますが、何となく大きな話だし専門的っぽいからよく考えずに、そういうもんだ、と思ってる人は多いと思います。僕もそうでした。でも、ちょっと前に、ふと思いました。あれは、大きく動いてはいますが、大きく失ったものを補填する為に、未来の大きなお金をあてがっていますよね。つまり、実際はちっとも良い動きを生んでいない。そんな風に、みんなでちゃんと否定できないと駄目だなと思いました。

家は借りるより買った方がお得ってよく聞きます。これ幻想に近くないかな。貸せる人はとてもとても裕福で、経済面だけでみれば慈善的な行為になっていく可能性もある。なぜそう思うか。二つある。

一つはこんなに大きな存在である土地や建物を所有する人が、ある種の責任を背負わないなんてちょっとおかしい。責任というと少しニュアンスが違うのだけど、難しいが例えてみると、自分の目が届く場所というのは自分がそこにいること、もしくはそれに近いことで、そこに自ら手がかけられるのにかけないのって何がしたいんだろうなと思っちゃうという感じ。手や目の届かないような物件を所有して、誰だかわからない人に貸すよりも、この人が好きだって人に貸して、その人と生きていくのなら、とても面白いことだろうなとは思う。

二つめは、今ある家の数はたぶん人の数を上回っている。社会としてどんどん新しく家を作ることについて、人の仕事をできるだけ生まないような、今の家の作り方になんか良さがあると思えない。そうじゃない家もたくさんあるから、そういうのはがんばってほしいし、そうやって建てられるなら自分の家を持てば良いと思う。特殊な技術が崇められるような話ではなく、みんなの生活の一部(仕事)をつかって、自分の家を建てるという当たり前のことをやれるならという意味で。

これは結局1000万円で立つ家なんておかしいってこと。よーく想像してください。手で建てる家をつくるのに5人で半年かかるとして、1人あたり半年で200万円しかもらえない。材料費が半分なら給料は100万円。ひと月で16万。大工さんは若い人から年配の方までいます。妻子がいる家庭が16万円で成り立つかな。若い人をもっと安くしたところで、偉い人だけ30万円にするのも結構な遠さ。材料費が高ければ、もっと遠い。こういうことを思えば、建物分だけで3000万円ぐらいからが妥当な金額なんだと思う。しかもローンじゃなくて。そのお金が無いんなら、建てなくっていいと僕は思ってしまう。なぜ自分の家がほしいのか、をよく考えてみると良いと思った。家賃、しんどいけどね。でも、しんどいけど良いんじゃないと思うかな。

時代は進んだ。時代は変わった。だから時代遅れだ、っていう捉え方。だいぶ危ういと思う。確かに時代は進んでいる。その進んだ先に生まれた、時代遅れっていう考え方。これのもとは自尊心とそれを保持したい気持ちから来ていると思う。それは、色んなものをなぎ倒す、言ってしまえば甘えなのだと思う。

エネルギーがどうの、経済がどうの、法律がどうの、便利がどうの、そんなことは何のことでもない。僕が僕の家族が僕の友達が、幸せに生きていくことだけに注力すれば、そんなことは何のことでもない。いらないものは多過ぎると思えるが、多くたって良い。何のことでもないのだ。

給与をもらっていると経費っていうものを理解できない、と言っている記事をみかけた。これを別の対象で言うと、経費をじゃんじゃん使ってるのは税金を理解していない、これと同じじゃないのかな。稼いだり使ったりするのは、結局みんなのお金でしょう。経費に計上したお金は、誰かが収めた税金が回り回ってあてがわれてると思うのだけど。まあ、だからあらゆることに仕分け(この表現嫌い)をしようなんて思わないけど。切り口のおかしな話だなと思ったというだけです。

いわゆる有名な、頭のはっきりした人たちが、誰も行ったことの無いところへ、とか、誰も観たことの無いものを、とか、本当の贅沢がどうの、とか、そういう言い方しかできないのは、本当になんというか、もっと違うことを言えば良いのに、と思う。そんなとこで止まっちゃいかんし、そういうことを促してはいけない。有名な人がそう促したとき、「誰も観たことのないものをつくれればあなたの人生は間違っていないのですよ」って感じてしまう人は多いと思う。「ああ、間違っていないんだな」っていう実感は、ある問答というか、手軽なやりとりの中から生まれることはなかなか無いものだと思う。間違っていることや、わからないってことが辛いことだとは十分わかってるけど、その辛さを落ち着いてながめてみれば、辛いのは嫌だけど、どうして辛いのか、や、辛いとどうなるのか、を考えるきっかけにちゃんとなってくれる。辛くても、死ぬまでは生きるようにできていると思う。

僕もすごい不安を感じてる(たぶん)。でも、未来像なんてまったくないけど、超絶に明るい未来がぼんやりいつもある。これは、僕が健康であることや、生きているってことがそう思わせてくれていて、こんな僕はほんとうに有難いことであるな、と思う。なので、ぼんやりと超絶がんばる。それで良いかな。

こういうことを書くとたまに勘違いをされるんだけど、日常的なこと、人生に深く関わる問題は僕にだって山のようにありますよ。大多数の人はそうでしょう。大多数がそうであることこそを問題視したい。少し変だから。

動機が勘違いであることは往々にしてある。それが良いこともあるけど、耳にした程度のことを動機にすると、まあろくなことにならない。動機に思い入れが見出せないなら、やめた方が良い。

テキトーな存在のテキトーな言動や行動を真に受けると痛い目にあう。大手参入、とか。

最近こういう話多すぎる気がするっていう、ある種の話がある。当然のことながら僕程度では当事者の気持ちには全く至らぬわけですが、動揺は大きい。

近くの人の大切さ みんながんばれこのやろう

運ってのはある。運命と言っても良いかもしれない。でも、ある運命が巡り合わせによって、このタイミングだけに起こるというような話はたぶん嘘だと思う。起こることは起こるし、繋がるものは繋がる。タイミングは要素の一つだけど、重要ではない。引き金を思い浮かべるからおかしなことになりやすいのだけど、そういう意味では引き金なんてとうに引いている。僕らはもう、ある地点に向っている。が、ある地点は決まってるようなもんじゃない。

「何で生きているんだろう?いつ死んでも、もうどうだっていいや。生きる意味なんてないよ」と誰かから言われたら、僕は「本当に殺しそうなほど憎い誰かがいるの?例えば僕を殺したい?」と聞きたい。

自分の生きる意味を僕に問うこと自体が、僕が生きていることの意味の無さを主張し、あなたの言う「僕の意味の無い生」は状況次第では奪っても平気、ということに近い。話しかけている僕に対して、殺してやりたいなどとは当然本人は思っていないだろうけど、あなたのそこにあるものも、僕のここにあるものも、状況や状態は違うけど大切なもので、軽々しく生きる意味なんて無い、とか言っちゃいけない。そう思っていることは、半ば殺人犯を応援しているように、僕には聞こえる。

とかいいつつも、生きる意味について、僕は無いと思っています。ただ、意味が無いからどうでもいいってことではなくて。意味が無いけどとても大切なもの(これは表現的に軽いしニュアンス違うけど)。

純粋なことしかネタ帳に書かなくなったような気がする。純粋なことっていうのは、僕にとって特に切実なこと。ここに書いてあるようなことは(悪いって意味はまるでないけど)不純なのかもと思った。

このタイミングで、僕のこの状況は有難くはある。が、反面、遠ざかっている感じもしている。こういう経験をともにできないのは、後に何かを起こすんだろうな。それはそれでしょうがないのだけど。とはいえ、進まないというわけにもいかず、進むだけなのだろうとは思う。

馬鹿なことは好きだけど、ブロッコリーは食べ物で、食べ物を粗末にしてはいけない。そういう感覚はないのかな。大量消費的にうまくいった実感は、こういうことをわからなくさせるんだろうか。平気で捨てるし、扱いはひどくなる一方だろう。どんなに捨てていても見直そうと思わない。お金の都合に振り回され過ぎ。もっと違った馬鹿なこと面白いことはできるだろう。あと、お金を中心にするから捨てるなんて方法が出てくるんじゃないのかな。

情報に差があるなんて普通のこと。格差なんていう表現に驚くことも、それに焦ることも、必要無いと思う。僕が気になったのはどちらかというと、刑務所では見せないものを子に見せていることの自覚について。駄目ゼッタイとは思わないけど、引っかかるものがある。