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自由と人参

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前に一度、自由について書いた事があります。みんなが自由という言葉をどう使っているか、というような話だったのですが、また少し考えられると良い気がしていて、小林秀雄さんの話の中の、人参のことから自由について書いてみます。

小林さんがその当時のタケダ製薬の研究所の所長さんから、ニンジンについて聞いた話。昔の人はお腹が痛くなるとニンジンという薬を飲んでいたというのです。このニンジンは高麗人参や朝鮮人参、オタネニンジンと呼ばれる、漢方で扱われるニンジンです。ニンジンの効能は「主として五臓を補い精神を安んじ、魂魄を定め、驚悸を止め、邪風を除き、目を明らかにし、心を開き、智を益す。久しく服すれば身を軽くし、天年を延ばす。(古典における高麗人参の効果)」という、まあ薬膳的な表現ですが、薬剤の効能として聞くと大げさだと思ってしまうような内容です。

このニンジンから、お腹の病気に関する薬が2つつくられたそうです。一つは下痢を止める薬、もう一つはお腹を下す薬。ニンジンにはこの2つの効果を持った成分が含まれていたのです。(それ以外にもあるんだと思いますが。)

この発見のおかげで、今では、お腹を下そうと思えば下剤を、下痢を止めたいと思えば下痢止めを飲みます。

では、この2つの薬ができる前はどうだったんでしょうか。お医者さんにかかるとニンジンが処方され、下痢の人は下痢が止まり、お腹を下したい人はお腹が下った。漠然と結果だけを想像するとこういうことなのですが、それほど簡単な話ではありませんね。

お腹が痛いとき、お腹を下した方が良いか、下痢を止めた方が良いか、どちらが良いかは、お医者さんにも確かなことはわからなかった。でも、当時わからなかったはずなのに、お医者さんはニンジンを処方した。その結果、患者さんの体調は良くなったと。

どちらが良いかわからないのにどうして治るのか、というところに人間の智慧というか経験というか、そういうことが現れています。どうして治るかと言えば、自分の体が飲んだ薬を受け入れ、状態が良くなるように作用をしてくれるからです。そういうものだった。そういうことを人間は積み重ねてきた経験から知っていた。ということです。

この話から、今の僕らのことを思ってみます。下痢をしたとき、下痢を止める薬を飲みますよね。それでも止まらないとき、違う病気かなとかお医者にかかろうかなとか考える訳ですが、仮に、下痢を止めたいのに下痢止め薬を選んで飲むことができない場合、僕らはよく、不自由なことだと思います。自由であるおかげで、薬を選び買い、飲むことができると思っているのです。でも、この気持ちによって、自由が向う結果へちゃんとたどり着いているんだろうか。自分の気持ちや権利みたいなものだけを尊重し、飲んでも利かなかったという悪い状況を招くこともあるわけです。もちろん昔の人がニンジンを飲んで必ず良くなったかはわかりません、というか絶対治るなんてことは無いと思うのですが、薬を飲んだからかもういいやとか、全然利かないからヤブ医者だとか、普段よくあるこういう気持ちを抱く状況の、どのあたりが良さなのか、と考えると本当によくわからないなと思ってしまいます。

少し難しい表現ですが、僕は、ニンジンを飲んでお腹が治るっていう結果にたどり着くような状況をきちんと持てていることこそ、自由なんだろうと思っています(願いが叶うという意味じゃないです。治らない事もあるわけだから)。このとき、人は何を信じるかといえば、ニンジンを信じています。ニンジンを分析した結果の効能を信じているわけじゃないのです。言葉で追求して行けば効能を信じる事になりますが、それはニンジンを信じていない。ニンジンがお腹に良いという昔からの経験を信じずに、どこに自由を思うのでしょうか。(ちなみに、前にも考えた事があるのですが、この経験の集まりは僕らの心だと言えると思います。)

色んなことを明らかにしようと思う気持ちは、とても良いことだと思います。ただ、全てのことに意味らしい意味とか、理由らしい理由をつけてみても、どうやっても完全にはわからないのです。(とはいえ、僕らが話をするとき、意味や理由は大切なことの1つです。ちなみに、わからないんならやらないってのは、意味に捕われすぎていると思えます。)

わからなくても僕らはそれらと付き合っていく事ができるし、それを掴む事だってできる。そういう僕らのご先祖が今まで培ってくれていたことがたくさんあって、それを知ったり思ったり信じたりすることがどのぐらい大切か。もう少し個人的な範囲の小さな実感で言うと、歩ける事、物を持てる事、字を書ける事、自転車に乗れる事、もっとたくさんありますが、こういうことができるのは、練習したからできるようになったわけじゃなくて、僕らは僕らの体の性質を掴んで、それを行うことができるようになっているのです。この感覚は、とても大切だと思うのです。こういうのはとても難しいことだけど、人生の中でなるべく多くの事に対して、そういう意識ができるように生きていけるなら、そんなに面白い事はないと、僕は思っています。

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