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雑感 一生忘れないこと

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ゴールデンウィークに岡山へ帰省した。漠然と心配をかけていた、両親と会い、祖母と会い、兄と会った。僕の家族、それはそれで当たり前に色んなことを抱えていて、そのあたりのことを改めて突きつけられたのもあるけれど、それ以外の僕らの生活、僕の人生、そういうことを向こうにいる間、東京へ戻ってくるときも、ずっと色々と考えた。一つはっきり気づいたことは、遠くに行くとずいぶん緩むということ。行ける人は行った方が良い。本当に。

遠くに行ったとしても、日本の東と西程度。自分の関連するエリアじゃないだけで他人事のように思うのは、やはり気持ちが遠くにいる。情報というものが細かくなったせいもある。東日本としてやばいなと思っていても、まだまだ狭いと僕は思う。あと本題とは話がずれるけど、頭の中で、地震津波のことと、原発のことが混ざるのには少し困った。影響はもちろんあるが、そこを繋げて考えることと、繋げて考えちゃいけないことがあると思った。

本題の、一生忘れないこと、について。

誰かのことを他の誰かがやる、そういう支えあっている状態、その中でそれぞれ皆が何かの役割を持つことはとても大切だと思う。でも、役割さえあってそれをやりさえすれば良いということはない。誰かが嫌だと思うことが生じることを考慮せず、便利さを追求するのはどうにも性に合わない。原発の話で、はじめから僕が一番気になっているのはそこのこと。廃棄物をどこにやるか、これはとても大きな問題だけど、それすら遠い。今です。今。今、みんなが嫌なものに対峙している人たちがたくさんいる。福島以外でも。そのことについて、健康を保つための基準値を設けて、そこまでは働いていてくださいだなんて話は、どうにもおかしい。引退した方々が若い人にはさせられない、そんな活動を見て、勇敢だとかあり難いと思うだけじゃやっぱり遠いまま。老い先短いから命が軽いなんてことを平然と受け止めては駄目だ。僕はそういうことを人に頼みたいと思わない。都合が良いことは誠実さの真反対にあって、誠実であれば自分にとっては都合が悪いことなんだと思う。僕は誠実にありたいと思うから、僕の都合が悪くても一向に構わない。

このあたりから話は難しくなるのだけど、じゃあ、今すぐ行けば何か解決するのか。仮に僕が行って現地で働くことになっても、親族から仕送りをもらえるようなバックボーンがあるわけでは無い。世界では戦争があるからといって、僕が出かけて行くなんてこともないし、できない。誰かの辛い日常を目にし、それに対して辛い気持ちを感じたとしても、直接やれることは少なくて、やはり距離や関係が近いものに携わっていくしか無い。みんなそれぞれが近い物事に対して、ある健全なスタンスで接して行くから全体が変わってくるようなものだと思う。色々うねって繋がって、役に立つ存在であり行けるようになるなら行きたいとは思う。

どういう結果があるかはわからないが、僕がやれる、身近なことについて色々考えた。とても身近な話で目につく範囲で気になることはたくさんある。下水、汚水を処理する人がいる。生活の雑排水は川に流している。牛や魚、野菜を殺して売るための商品を作る人がいる。男性は男性用じゃないトイレを立って使う。道路を掃除している人がいる。使った食器は誰かが洗う。ゴミを集める。他にももっとあるんだと思う。

34歳の僕が言うセリフかは微妙だけど、大人になってやっと、自分の生活がどういう成り立ちをしているのかがわかりはじめてきた。自分の清潔を保つために洗濯機を使いシャワーを浴び洗い物をする、その後ろ側で誰かにその汚いものを押し付けて、それを仕事だと言っている。そんなの変でしょう。トイレなら、お母さんが掃除をしてくれるかもしれない。それは本当に感謝すべきことで、本当に有難い。でも、下水や排水は何がどうなっているのか。肉や野菜はどうなっているのか。色々全部スルーして、何もかもをお金で交換していくことの無理。この無理を押し込める正当性は、やっぱり正しくないよなと思う。

仮に、汚いものを処理している役割の人に対して、それはその人の役割だろう。とか思ってる方がいたら、改めて考えてみてほしい。どうしても人の手を入れないとだめなことはあると思う。トイレの掃除はやはり誰かがやらなくちゃいけない。でも、汚れにくい便器をつくることは僕らにはできると思う。それは効率的に水が集まる形状のことなんかではなく、使い方の問題の方が大きいと思う。排水だって、今更全部を作り直す難しさはわかっているけど、自然に優しい洗剤を使うことなんかに頼らないで、何かやれることはあると思う。

少しずれる話だけど、帰省したときにみた、ホームセンターの中。幅広い品揃え。でも、ボールペンはただ積み重なり、モップはただぶら下がり、化粧品はただ並んでいるだけ。どれもがどれも、がんばって誰かが作った物。僕は作り手だけど、自分が作った物の扱いがこんなのはやっぱり嫌だなと思ってしまう。もちろん、作る以上は売れることが必須なのはわかっている。でも、あれが売れるっていう状態だとも思えない。つくっている人は、もっと自分で売れるようになることも大切なんだろうなと思った。

これから、見直していかないといけないことはたくさんある。見直すときの考え方は、効率的かどうかだけを見ていても駄目だなんだろう。唐突に例えるけど、例えばLED。寿命が長くて光への交換効率が良い。悪さは全然見当たらないし、どう考えても、白熱球よりは良いのでしょう。でも、紫外線や赤外線という、自然光に当たり前に存在するものを削ぎ落とした光の成り立ちをしている。それを日常で使い暮らすと何が起るのか。そんなことを考えもしないのは、やっぱりおかしい。一歩前の、明るくあることが必要かどうか。ここらへんに考えるべきことがあり、それを踏まえて、どうするかということをやっていかないと、とにかく増えていくしかなくて、大きなエネルギーにまた困ることがあると思う。

僕にとっての唯一の救いは、たまに昔の記事なんかを読んで確かめているのだけど、こんな状況にあっても変わらず考えていこうつくっていこうと思い続けられていること。僕は死ぬまで生きるだけなので、引退などありはしない。引退するまでに60年を使い、引退してから30年を生きるなんてことをやっていては、生きたなと思える人生からはほど遠い気がする。あと、仕事や役割については、一つではないことも思う。僕の仕事はこれです、だからそれ以外はやりませんとかで成り立つのは難しいと思う。役割については特に、大きくみて人間という生き物が世界と繋がって支えあう役割を意識していければ良いなと思う。

という感じで、バラバラと書いてみた。大げさかな? がんばろう。

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