← 音を削ぐ | HOME | 中日新聞(2011年3月13日付朝刊) →

気の持ち方を改める 2 / Changing Us

今回の地震、多くの方が犠牲になり、多くの方が未だ避難をされていたり、救助の努力をされていたり、言葉では表せないような状況になってしまっています。亡くなられた方々、関係する方々、本当にお悔やみを申し上げます。そして、常に危険と隣り合わせで活動をされている方々全てに、本当に申し訳なく思います。

この情けなさ、ふがいなさ。僕は、特に公では甘えるべきではない、と思っているのですが、今回は申し訳なく、さらに立場も顧みずも、甘えて書き留めておこうと思います。

 

こういう状況にきて、色々な方の考え方や思いを目にする状況が多くなっていますが、ちょっとよくわからなくなってきました。僕が偏っているのだろうか。

2009年ごろから、僕の中で徐々に明確になりはじめたことなのですが、大きく二つあります。一つは電気のこと。もう一つはお金のこと。どちらについても、ちょっとした記事をまとめたことがありましたが、それを書いたとき、ここまでの確信はありませんでした。

それは、僕らが生きていくのに何を大切にするのか、ということです。

僕たちが死んでしまう確率をとにかく低くしようとすることは、多くの行為・活動の動機や正当性になっていると思います。でも、まさにその下に、自分ではない少数の誰かが死に向っている状況を良しとするのは、やっぱりおかしいですよ。

こういう考え方は、原発に不安を抱いていたり、ドイツやなんかで原発を止めたっていうニュースを聞いた今、そう思うと思う方が多いのだと思います。でもね、ただ単に止めるのは簡単なんです、たぶん。それでも止めないのは、まあ当たり前ですが影響を考えているからだと思います。3000万人の不安で止めた電気で、1000人の方が亡くなったり、100万人の方が困ったりするのであれば、止めないでしょう。

話の方向的に、僕がまるで社会とか経済を心配して、止めちゃ駄目みたいな発言をしているのかなと思われているかもしれませんが、大丈夫です。そんなことは全く考えていません。お金は大事です。でも、それは真ん中ではない。

今まで踏み込めなかった、電気をつくるのをやめること。これは、今までの無理がたたっていることも鑑みているような気がします。電気を作るのをやめて安心というものでは無いようですよ。僕は平井憲夫さんの「原発がどんなものか知ってほしい」をきっちり読んだだけで、専門的に詳しくはわかりませんが、僕の今までの放射能の知識の範囲(すごく狭いと思いますが)と、合致する点が多く、信頼に足る情報だと思っています。この筆者の方は、随分前に亡くなられていますが、読まれた事の無い方は読んでみると良いと思います。

このページの中でフォーカスされるのは今すぐ(その当時)の直接的なことが大部分だと思います。健康の事も差別の事も、とても憂うべき問題です。でも、専門性なんかとは何の関係もない、将来の事こそがとても大切だと思っています。

僕たちの直接の事からはなれ、五十年・百年・二百年と経ったとき。仮にこの電気の仕組みが止まっていても、もう電気を生んでいたことすら覚えられていないかもしれないような、単に危ない放射能エリア(今でいうところとの原子力発電所です)を、そのとき誰かが、まだあと何年も見張らなければならない。こんな事態になる可能性があるのです。誰にも何ももたらさないのに、ですよ。

こんな事態が来るかもしれない未来を、緊急だから危ないから今すぐ選べだなんて、絶対におかしいですよ。

今は緊急で後で何でもするから。科学が進めば、技術が進めば、解決されて安全になるかもしれないから。そう思う方もいるかもしれません。でも、すでに順番が逆になっているのです。逆になったうえでの、この考えは僕はおかしいと思うのです。これはお金のことも同じなんですが、予定予想をもとにした先送りでしかない。そんな気持ちで、原発を止めて心を入れ替えていつか技術が進んでたぶん生活が豊か、だなんて、あほかと思います。

もう既にあるものや使ってきたもの、やってきたことは無かった事にはできませんし、したくありませんから、危ないし何ももたらさない、そんなものを抱えていても、これからも日本をやっていくっていう気の持ち方が、僕はとても大切だと思うのです。この気の持ち方に、意味なんてありません。意味なんかないまんま、僕はこれを信じます。僕は日本人ですよ。当たり前です。血のつながりが変わらないことと同じです。

そして、このぐらい信じきるような決めごとを、僕らはもう一つぐらいは決めなくてはいけない気がしています。この覚悟の想像は、2009年に思った「戦争をするときの覚悟」からはじまっています。体験の無い僕の想像ではありますが、戦時中に思うそういうような覚悟を、即時的な命の危険がない今の状態ですることぐらい、なんてことないんです。僕が思いつく程度のことなので、これが絶対に良いやり方かわかりませんが、兵役みたいなもので、管理役をとにかく全員で持ち回るような感じが良いんじゃないかと思います。県とか地方とか、関係なくです。

このやり方をベースに、もう一つ突っ込んでみると、兵役と聞いて自由は無いのか、と思う方もいるかもしれません。そう、あなたの思うそんな自由はありません。それが不自由だと思うなら、原発を止めたいと思わない方が良い。そういう話を書いているつもりです。

ちょっと鼻息荒い感じで書きました。すみません。

僕として、直接何かに働きかけたい思いはとても強いのだけど、事が大きすぎて望めないとも、そういう立場にいられていないとも思え、無力感が大きいです。

そんな僕が決心できる事は、周囲に何となく漂っている日本を脱出しようみたいな空気を感じながらも、止まったままの電気を生まない危ない原子力発電所っていうのが、いくつもある日本になってしまっても、僕は日本を離れないっていうことを決めました。もとより、日本が拠点でなければ僕ではなくなってしまうような気持ちも大きいのですが。

重大な問題に対して、よくあるような、伝言ゲームみたいな安易な行動はもう無しにしたい。そういう行動って、つまるところ気の持ち方なのだと思うのです。いやいや、プライベートな時間は大切だよ。そう。それがプライベートでない気の持ち方で、重大な事に望んではいけないのだと思うのです。そんなこと意識すらしない、そういう自然さが必要なのです。

僕は一生涯、大切なことを大切にしたい。でも、僕の社会的立場はそれを許しません。このサイトだって、電気でできています。こうして書いた以上、無くして良いのか躊躇ったり、無くしたい気持ちで一杯だったりしますが、小さな僕に限られた、どこかに投げかけられる場所は今のところここにしかありません。この現状を何としても乗越え、僕は僕が大切にしたいことを大切にします。

誰も見ていないかもしれませんし、見たとしても限られた人だけだと思いますが、何かを思うきっかけになればと思います。

 

電気の話が多くなりすぎましたが、もう一度地震のことを交えてお金のことを少し。

本当に辛いのは、何もかもが無くなった地域の人たち、危険と隣り合わせの人たち、避難や物資支援が必要なぐらいの地域の人たちです。

今のところ、東京にいる僕らは、食べる物はあるし、水もある。雨風だってしのげる。とはいえ、日本の東の方は被災地だ、と思った方が良い気がしています。県や地域で区切って、僕は東京だからなんて安心している場合じゃないです。援助に向うのは難しいし邪魔だろうけど、追い詰まっていない地域の僕らが、少し追い詰まるぐらいの判断はあっても良いと思うのです。日本だけの問題を超えてるような大きな問題だし、政府の判断を待つしかないのだけど、大切なものが何なのかと、少しでも思う人がいるのなら、そういう判断をとってもらいたいと思います。

そして、お金のこと。今、局所的に大きなお金が必要な状況だと思います。でも、ただ集めよう!集まったー!だけじゃやっぱり駄目だと思います。大きな動きをしている募金というのは、税金の優先的な使い道でしかないんじゃないかと思っています(詳しい方、違っていたらごめんなさい)。優先的に使うことは、この一大事においてはとても有効だと思います。でも、現実の先送りでしかないお金の、さらに先送りでしかないのだとも思います。先送りは価値ではない。このスパイラルをいつかどうにか脱したい。そんな違和感からはじめて、先送りの無い大切なものを見つけられたらと考えています。今すぐで言えば、先送りじゃないことを見つける必死さがここから先、とても必要なのだと思います。

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