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表現 いや、偶現

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(あ、そうか、で、タイトルに追記)

これも1年ぐらい考えてた。最近だいたいそんなペース。

表現と描写は違うこと。

美術は技術かもしれないこと。

このあたりのことが、ずーっと気になってるのだけど、非常に難しい。表現は、すごく広く、それはもう全部を含んでいる。物事のあじわい、ということだと思う。

 

あじわいということについて少し加えてみる。言葉のような記号を用い交換できる情報として扱える定義のようなこと、ではないことで、その物自体の存在を感じさせるアレだと思う。少しだけずれるけど、(言葉があることを前提に)ある物がそれだとわかることも、これに基づいている気がする。

もし定義という軸で、あじわいを探そうとすれば、その物や人の特徴を全部書き出し、その書き出せたこと以外に表れているようなものじゃないか。書き出せたことの集まりの持つ、その傾向に何かしら表れることもあるのだが、それも特徴のうちと言えそうで、さらにそれ以外にもあじわいは潜んでいると思う。そして、こういう特徴を全部書き出すなんていう想定は、想像を出られない。僕らにとってそれはやっぱり、知覚はできているけど、明確ではないことなんだと思う。

そんなものをどうやって人と共有するのかと言えば、それは、名前を言うだけで、それだとわかる、その流れみたいなものを暗に交換するという感じだと思う。こういうことは僕たちは当然のように行っている。石を見て石だとわかるような、自分の中でも同じようにやっている。

 

あじわいの話から離れ、主題の表現について。表現は表すこともあるが、現れるものでもあって、僕は現れるものの方が好きみたい。表すというのは、描写が近い。で、現れるものというのは、前述のあじわいだと思う。それで、それがわかる、のが僕らの能力なんだろう。

ここらで、美術のことが気になった。美術により表現されているものは、描写されているものが多い。そういう美術により現れているものは、他人に示していることよりも、自分に示していることの方が大切で、そういう意味で、美術ってすごいなと思う。

逆に、そのまま現れる美術、というものも無くなるようなものではない。こういうことは、(能力の有無じゃなく)やれる人にしかやれないことだと思うけど、現れたものにはやはり気持ちが動く。他人に示されていることとして、僕らにとってはとても大切なことだと思う。

そこに、技術のことが絡んでくるのだが、ペンが無い時代、紙が無い時代、言葉が無い時代、それぞれの時代を乗越える瞬間、技術は進む。その、無かったことができたという表現というのは、美術だと言えるのかなと思った。そういう意味で美術は技術なんだろう。技術レベルというような言葉が当てはまる技術は美術ではないんだろう。レベルというような切り口から、現れることはないんだろう。

この、何かが現れる技術、というようなものを探してみようと思っている。

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