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心と気持ち / Heart And Mind

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気持ちと心は別のものなのかもしれない。

僕は小林秀雄さんの本を本当にゆっくりだけど少しずつ、何年か前から読んでいる。小林さんの大和心の話を聞いて、初めてそんな風に思った。心というものを、いつから気持ちだと思うようになったのだろう。

気持ちとは、僕やあなたが(頭の中ででも)日常的に具体化できるもので、各々の価値観に基づいてつくられることが多い。わかりやすいところで、コレいいなとか、アレいやだとかも気持ちである。

心は、全ての存在という存在に備わっている。人の心。世の心。花の心。犬の心。水の心。雲の心。宇宙の心。という具合に。

これらの心というものは、気持ちとは別にあり、気持ちのきっかけになるようなもので、自分の中にあるものだが、いわゆる自分のものというわけではなく、大きく言えば、一つであるとも言えるのだと思った。

少し前に、タコの足は、頭の命令を受けて動いているわけではないという研究をみかけた。そのことだけは研究してわかったようだが、その複雑な繋がりは解析が難しいらしい。タコは頭で考えて生きようとも思っているが、体全体の各部位でその意識を共有している。それらは心と言えるんじゃないかと思った。

これは、タコだけにあるものの話ではなく、僕らも同様に持っている。どうしても僕は、心は間違いなく大切なものだと思えるのだけど、多くの気持ちはそうでもない気がしている。感じたという感覚から思いをやった結果を気持ちだとすると、感じること自体は芯になる大切なもので、思いをやるのは時々で違うのだから余り信じすぎない方が良いのかもしれない。もちろん、無駄なものなんかではないが、そこに強く意識を置きすぎることは、信じることを難しくしてしまっているのかもと思った。歯止めがどんどん利かなくなる方向なんじゃないかと。

経験上で思い出してみると、気持ちや感情を抑えるとはよく言う表現だが、心を抑えるは違和感を感じる。これは、心が抑えられるものではないという認識が、僕らの中にまだ残っているからじゃないかと思った。

心も自由と同様に、都合良く解釈をしてしまった言葉で、それを僕らの「ここ」にあるものと思い込み、それを正当化して辛いことを回避しているだけなのかもしれない。よく気がつく、「ここ」にあるものは気持ちであって、それは個々人にとってはとても大切な、個性に繋がるようなものなのだけど、少し離れてみて自分を含むそこらへんを考えた時に、必ず重視するべきだとは言えないと思える。むしろ心とは逆行していることもあると思った。

というのも、僕らは何かを我慢ができるじゃないかと思ったのだ(さらに言えば、ポジティブな意味で、僕らは直接的に何かをどうにかできることは無いってことも手伝っていると思う)。それをネガティブな「我慢する」と捉えているのは僕たちで、それがまさに自由に繋がっていると意識することもできると思う。因果応報だって、輪廻転生だって、そういうことなんじゃないかと思った。

となると、流行は心かもしれない。そうなのかなぁ・・・。どうなんでしょうね。あと、加えて一つ思うのは、自分以外の気持ちと自分の気持ちを同様に捉えてはいけないということ。強く意識を置きすぎることをしない方が良いのは、自分の気持ちだけで、人の気持ちにはちゃんと意識を持っていたいと思いました。

Sorry… I had not translated it yet…

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