観光・旅行 / Tourism And Trip

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観光や旅行について考えました。唐突に観光について考えたというよりは、前回までに書いたような地方のことを考える延長上に、随分と観光という産業(?)は大事なものとして扱われているなぁと思ったのがきっかけです。

観光と一口にいっても、色んな捉え方ができます。まず、自分視点でどういうことなのかを考えてみます。旅行ってたまに行きたくなる人が多いですね。僕はそこまで唐突に行きたい!ってならない、あまり旅行慣れしていない人です。初めての海外旅行も今年の1月でした。帰省などの移動はちょくちょくしてますけど。一般的には現実逃避的に逃げる人もいれば、似てるかもですがリフレッシュのために行く人もいます。普段触れることの無いようなものに触れたり、好奇心の向かう先に出会ったり、基本的には非日常を求めてっていう感じなんでしょうか。そういうものを体験・体感するために場所やものや出来事を求めて行ったり来たりしています。

仮に、それによってみんなの心のバランスが保たれて、社会は円滑に流動していると考えます。娯楽というか余暇というか、そういう個人にフィードバックされたものが社会へのフィードバックに繋がるような意味合いがあると言えます。

でも、僕はよく考えるんですが、地方に行って、こんなものや習慣があるんだなぁとか、当たり前じゃないことのように思うことがたくさんありますが、それを思った直後ぐらいに、それを当たり前のことに生活している人の気持ちを考えます。そこから翻って、今の生活を見たとき、結構すごいなと思うんですよね。ここからさらに突っ込みますが、それっていつも目にしているものの、その裏側にもとてもたくさんの驚きがあるということです。普通に使ったり食べたりしていますが、相当に特殊なことです。ただ、そういう逆の立場になったときの方が、その逆にあるもの(というのは自分の身の回りのもの)を見て、そこに個性があると言って良いのかはためらいますが、違うということはよりはっきり意識できます。

次にもっと漠然と考えてみました。この話を考えはじめた実感から考えてみると、お金が移動しているようなものかなと感じました。お金がたくさんあるところからあまり無いところへ移動する率が高いように思います。まあ、これは一概にはそうも言えないので、とりあえずは有る無いは関係なく移動しているわけです。その結果、どこかに溜まったり、どこかにはまったく溜まらなかったり、あるところでは消えちゃう(?)ようなところもあるんでしょうね。

この話をもう少し良く言うと、植物の種が動物の体を使って広がるように、人を使って知識とか文化とか感情とかが広がっているのだと思います。ある地域の当たり前が、色んな所からやってきたものの影響で変わったり、逆に色んな所に影響を及ぼしたりするわけです。今の社会で大切なものの一つのお金は、こういうものと一緒に動いてしまうので、結果としてお金が動いていると感じたのだと思います。

で、この二つの視点で考えた後に、観光って僕らにとってどうだろうと思ったときに、僕は少し無駄遣いしているのかもと思いました。自分視点のところで少し盛り上がりかけましたが、非日常かどうか、当たり前じゃないかどうかなんて、大体のことは日常的で当たり前なものなんだと思います。それらのある違う状況を含めた体験のために、僕らはとても大きな力を使っています。少し力が入り過ぎじゃないかと思いました。

かといって、無くして良いものでもないように思うので、何かちょっとした努力でその力加減が和らがないものかなと思いました。例えば、随分前に明治神宮の初詣に行ったとき、初詣のように無くなることがほぼないような流れの中の、こんなに多くの人の足踏みが何かに変わるのなら、それはすごいことかもしれない。その当時の僕は(今も)安直なので、みんなが踏んでいる石畳の下にめっちゃ大きな風船みたいなのがあって、上から踏むことで、その口から風がぶおーって出て、その力が電気に変わったり、動力に変わったりすると良いのになぁと思いました。

ゴミの話でも考えていましたが、無くならないものは無くならないもののために上手く使えるととても良いのにと、観光についても思ったのです。そういう影響力を持てれば、僕が感じた力加減は和らいで感じるんじゃないかなぁと思いました。

ちなみに、観光という無くならないものを、ちょっと前の山の話につなげて、山との折り合い方なんかを考えてみると良いなと思いました。効果の期待値が未知数過ぎるのであんまり現実的じゃないですが、山に入った人は少しでよいから間伐してから出て行くような決まりなんかがあると良いんじゃないかと思うんです。この話はもっと考えようがあると思うので、もう少し時間をおいたり調べたりして考えてみます。

汲むこと / Having And Considering Everything

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最近は、地域というものを地方と都市という大きな二つで捉え、その地方というものを見直そうという動きが盛んですね。内側の動きとしては地産地消とか地域ブランディングとか銀座あたりのサテライトショップ運営とか、外側の動きとしてはお土産や特産品を集めてどうこうみたいな企画とか雑誌なんかがよくあります。こういう、今までに見出されていなかったものを新しいものとして、より多くの人が知る機会をつくるようなことをもって、今まで培ってきた地方の良さを見直すというやり方が盛んなわけです。

これに対して、僕はあまり良い実感を持っていません。というのも、なんというか、今までは情報が集まっている場所において珍しいものを探していたのだけど、情報が集まっていない場所にそもそも珍しいものがあるじゃないか、っていうだけの話な感じがするのです。
この話の背景には、今までの広い方向性の視野だけじゃなく、もっと深い方向にも目を向けようというような流れを感じます。それはそれで良いようにも思うんですが、珍しいものを探すんじゃなくて、もっと違うやり方があるんじゃないかと思いました。珍しいものを探すような考え方では、そこの土地に住んでいる人の気持ちはわからないし、ただ知らないだけで珍しくもなかったということもあるんじゃないかと思うのです。思い入れとか動機とか主体性とか、そういうものがごっそり無くなってるように思えるのです。

昨年後半あたりから、地方ブランディング的なことを考える機会が続いています。僕がそれについて考えはじめてから、はじめに思い当たったことは今も変わらず大きなお題目として、僕の中で掲げられています。僕が思い当たったことは、「そこに住んできた人たちが得意なことをやりやすい状況をつくること」でした。

得意なことというのは、社会科の教科書に載っているような、桃が名産ですとか、い草がたくさん穫れますとか、そういったある価値観に沿ってある瞬間を切り取ったような数値が示していることではなく、もっと広く漠然とその地域においての今までの流れを、その時々の生活にまで思いを馳せ、積み重ねて考えていったとき、どういう種類のことが得意と言えるかということを捉えようと考えました。

そしてそれの足がかりとして色々と調べたり考えたりするうちに、その地域に住んでいない僕じゃなく、住んでいる誰かがどんな風に思いどういう動きをしていけば、その得意なことがよりやりやすくなるのだろうかという問いも出てきました。

そこで僕が思い付いたのが、「汲む」ということです。主に人に対して人ができる行動を思い起こしたときに、与えるとか教えるとか繋ぐとか伝えるとか届けるとか育てるとか助けるとか救うとか、そういう言葉のどれかを中心に考えようとすると、どうにも行動が限定的に感じられ、今の、都市部にあるようなサービス的なものでしかないように感じてしまいました。「やりやすい状況」というものは、状況よりも前に、既にやっていることがあるのです。それを限定的な行動を起こすことで、関係を醸成したりとか、連鎖を生んだりというようなことはできないんじゃないかと思いました。そんな中、汲むというのは、人に対して思いやるというような意味合いも大きく含みながら、何らかの行為とそれで何かに丁寧に接することを前提としている言葉だなと思ったのです。人の意を汲んだり、時代の流れを汲んだりすることを基盤に活動できるなら、それは素晴らしいことだと思いました。

加えて大切なことは、そこで生活している人の心持ちだと思います。その動機が無い限り、何かが続くことは難しいと思えます。

こういうことの先に、どういうことができるようになるのか。まだまだ考えていこうと思っています。

自らに由る / I can't translate the title.

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よく耳にもするし口にもする、自由という言葉について考えました。

自由でありたい。自由に生きたい。自由になりたい。自由にする。自由にさせて。自由を欲する。

少し前に調べものをしていたとき、今の自由という概念は福沢諭吉によって決められたという話を見かけました。(それ以前からも自由という言葉はあったようです。)福沢諭吉は、アメリカで大切にされていたFreedomやLibertyというものに出会い、日本人もそういうように生きた方が良いと思ったんだと思います。その言葉を自由という言葉に翻訳し、それが定着したのが現在です。

ここで、現在使われている自由という言葉の意味を、逆にFreedomやLibertyに戻せるものかな(当てはめられるかな)と思いました。アメリカが無法地帯だというなら別ですが、なんか無理な気がする・・・って思います。このずれは、今の僕らの自由という言葉が、それを訳した福沢諭吉の気持ちとは違うということを示しているように思います。

自由の国、アメリカ。という表現があります。今もアメリカではFreedomやLibertyを大切にしているのでしょう。できたばかりのアメリカで考えると、この自由というのは、好き勝手になんでもやって良いよということではなく、人の生命というものを大切にするとか、誇りを大切にするとか、そういうような意味だったんじゃないかと思います(本当に大切にされていたかどうか、いるかどうかは、不勉強&未体験の僕にはわかりませんが)。そのように感じた福沢さんは、そういうのって自ずからに由ることだなぁ、というわけで、Freedomを自由としよう!と思ったんじゃないかと思えました。でも、アメリカ的なやり方が、奔放というか横暴とも言えるようなものに見えてしまった日本人にとって、自由というものが、(極端に書くと)反省の無い自分が望む満足のために好き勝手にやって良いというようなことに繋がってしまったのではないかと思いました。

自らに由ることを真ん中に置いて生きていくのは、とても辛いことだと思います。でも、その覚悟をもって善く生きようとするのは、とても健全なことだと思います。縛られた生真面目な人生なんかではなく、ダイレクトに(この生きている)世界と繋がり、泳ぐように生きていけるなら、そんな素晴らしい人生は無いだろうと思います。僕はそう生きていきたいなぁ。って、まあ僕のことは良いのですが・・・。

少し話をずらして、アメリカ的なやり方は日本には合わないという表現もたまに聞きます。この考え方も同意できる部分もあるのですが、自由ということに関しては少し違っているようにも思えます。(完全に僕の想像ですが)アメリカにあったFreedomは、誇りのようなものを動機に、家族が生きていけることこそ最上なことであるというように、生きていく上で必要な芯として扱われたのだと思います。このFreedomを、最上とすることも含めて解釈したとすると、それは日本にフィットするはずがありません。このFreedomという言葉は、その最上とすることを、国に、というより地域や家族や個人にまで求めている言葉だと思います。そして、それが自らに由るということだと思う訳です。

ちなみに、そこまで剥き出しの、自由というものを個々が考えないでも、いわゆる今の自由であることの共感や納得ができる側面ももっとあって良いようにも思うのですが、それが国を越えるのは難しかったというのが現実な気がします。アメリカの自由が特に日本に合わなかった理由は、それぞれの国の状況が違ったということなんじゃないかと思いました。その頃のアメリカでは、未知なものに対する可能性や生存することを叶える努力などを大切にしていたと思いますし、日本では、畏怖してきた存在と積み重ねてきたことを大切にしてきたように思います。そんな両者のFreedomは違って当然です。

言葉の解釈は、できた瞬間からひとときも一定にはならないものだと思います。ただ、人間にはそれを一定にしたい気持ちも強く、大勢の人が共有しやすい意味合いで統一されていくものだと思います。その経緯で、共感がもてず使われなくなる言葉もあったり、自由のように意味が変わりながらも根付くものもあるのでしょう。自由という言葉は僕らにとって、良い意味でも悪い意味でも、とても良いものなのだと思います。ただ、自らに由ることと、好き勝手にするというようなことを同一と考えるのは、やはりちょっと問題があると思います。

で、最後にひとつ。対価があれば水やエネルギーをいくらでも使って良い仕組みになってしまっていますが、それを制限することを考えてみても良いのではないかと思いました。そういうものを自由に使える状況というのは、おかしいんじゃないかと思えました。これは、つまり「自由」がおかしいせいじゃないかと思ったのです。


今回の話はいつもにも増して難しかったです。なんというか、表現が難しいというか。自由についてはまだまだ渦巻いているものがあるんですが、今回はこんなところで。

第43回SDA賞 / 43rd SDA Award (Japan Sign Design Association)

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昨年デザインさせて頂いた、蒲原アルミゲートハウスのサイン計画が、第43回SDA賞の奨励賞を受賞しました。

関係者の方々、おめでとうございます。
日本軽金属グループ各社様をはじめ、このような機会を与えてくださった方々に感謝します。
ありがとうございました!

白川さん、冨川さん、おめでとう!ありがとう!

JCD デザインアワード 2009 / JCD Design Award 2009

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サイン計画のデザインをさせていただいた蒲原アルミゲートハウスが、JCDデザインアワード2009のBEST100に選ばれています。
関係者のみなさま、おめでとうございます!

HopeとPeace

今日、Hopeを求めて歩いていったら、 Peaceにたどり着いた。新宿にて。