← 反対語 AとB / Antonym A and B | HOME | 冨川浩史建築設計事務所 / HIROSHI TOMIKAWA ARCHITECTS & ASSOCIATES →

昔を思う / Thinking The Old Age

昔のこと(想像含め)から色々考えていました。

まず、家のことから考え始めた。その昔、家は囲炉裏(もしくは竃)を中心に成り立っていた。囲炉裏の火は暖をとるため以外にも、煤が出ることで家が丈夫になるという役割も持っていた。囲炉裏の火を絶やさないよう、薪を絶やさない。そのために山に入る。結果、山にも人が入っていた。薪以外にも、水を汲みに行ったり食料をとりに行ったり道具の素材をとりに行ったりと、山に入ることは、生活をする上で欠かせなかったのだろう。こういう状況においては、家を保つために行動したというよりも、生活全体としてバランスが良かったのだと思う。きっと1000年近くはこういう生活だったんだと思うし。

第二次世界大戦後、GHQにより食品衛生法ができた。囲炉裏や竃、土間が無くなり、庭が変化した。ガスが通って、暖をとるという方向よりも、外気に影響を受けないようなつくり方に変わっていった。こうなってくると昔のバランスは保てない。山には人が入らなくなり、生活の場が山から都市へ移り、山が荒れる原因となった。

便利さを求めて、山から人がいなくなったとよく言われるが、それだけではないと思う。それは、例えば山間部の村の中でも、二極化を実感したせいじゃないかと思う。昔からの流れで、多くの村には大地主という人がいる。村の頂点みたいな人だ。その一方で、その価値軸で見ると一番下に位置する人もいる。上辺と底辺で二極化が起こっているようにきっと感じただろう。二極化を感じたとき、その価値軸が存在しないところへ行きたくなるのもわかる。良い土地も持てず、立派な家もない。逃げると言えば逃げるなのだけど、より生きやすい環境に移動する。移動先は他の村だったり、誰も住んでいない土地だったり、都市だったりと様々だ。そうして見いだした価値軸が今の便利さだったりするんじゃないか。さらに都市においては価値軸の持ち方が複雑で、二極化を実感しにくかったはずだ。でも今、便利さが崩壊したのか、都市部では二極化を実感し始めている人が増えているように思う。ここで思うのは、二極化を感じるところとしては、権力の強さなのかもしれないということ。でも、人生の真ん中に権力の影響を受けない人は、そうは思わないんだろう。そういう人はきっと誇りを持っている。

山のことに話を戻す。山が荒れたというのはどういう状況なのか。木が生えていない山が増えたことや、木はあるのだけど根がきちんとはっていないゆるい山が増えたことなどがある。針葉樹は生えたい放題にしておくと、山に日が入らない状態になり、地面に草が生えにくくなり、養分もなくなり、保水性も低くなるらしい。伐採や間伐というのは、そうならないために必要である。

でも、少し戻って考えてみると、そもそも広葉樹が多かった、バランスの取れた山に、経済的な必要性から針葉樹を植えたのは人間だ。それを忘れて山が荒れたなんておかしな話だ。でもでも、それが僕らには必要だったのだと思う。少なくとも、以前には必要だったのだ。そのおかげで今がある。そして、今から広葉樹を植えたからといって、すぐには元に戻るもんでもない。時間はかかる。

ここで、なんだかなぁと思い始めたのは、何か大規模なことをやるにあたって、このためにこれをしよう!というときに、“このため”がある地点まできた(ある変化が起きた)後、どうするかも考えておくことをなぜしなかったのか。もう少し言うと、始める前に想定することなんて行き届かないに決まっている。おかしな話かもしれないが失敗することを前提に、それを調整しフィットさせるためとか、全然違ったら違う方向を考えるとかの考え方もできるんじゃないか。そうすることで、はじめに何を思い、どういう経緯でその芯が変わっていったのかという知恵を蓄積できる。これが財産になり、次の動き(世代でも良い)につなげていけるように思う。そういう流れもきっとどこかにあったはず。どうして途切れてしまったんだろう。昔の知恵をそのまま使うんじゃなくて、その知恵が進む先を考えていくこと。そう見直せない限り、山が荒れた地球がおかしいと嘆いてみてもはじまらないのかもと思った。

誰だって失敗したくない気持ちはわかるのだけど、そことその裏側に原因は潜んでいると僕は思う。失敗しても、それを踏まえてやり直すことが大切だと思う。というか、考えたことが成功するなんて無いんじゃないか。失敗しても成立させる努力ができるかどうか、それは生きていく意気込みみたいなもんだと思う。それが持てないのは、やっている人だけの問題ではなく、やってもらっている僕らの気持ちがそれをさせない、今はそういう状況もあるんだと思う。関係する人や事がある規模をこえたとき、信頼を持つというのは距離が遠すぎて難しい。でも、意外とある側面に対して無関心になる(少し語弊があるかも)ことで為されることもあるのかもしれない。

って、こんな話になる予定だったわけじゃなかったんですが、こんなところで。苦笑

I had not translated it yet...

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://journal.morld.jp/sys/mt-tb.cgi/197

コメントを投稿 / POST COMMENT

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)