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時間 / The Time

時間というものは、人の都合でしかないのかもしれない。

僕らが体感している、この流れは、永遠の昔から永遠の未来まで続いているものだと思う。だとしても、永遠に続くということを、僕らの都合にはめてみて、僕らが生きていることと関連づけることには無理があるように思えた。

少し前に書いた「人間の尊厳」から気がついたこと。例えばこのある日常の一場面が、僕の生の中で同一に繰り返されると想像したとき、尊厳を失いそうな感覚が生まれる。それはつまり、ある行動を、直接的では無いにしても、時間という単位へ半ば自動的に置き換え、僕らの都合でつくった時間という流れの捉え方の中で、何度繰り返すのかを想像するとき、限られた生の中で、最後の最後まで繰り返されるその行動に対して、気が遠くなるのと同時に永遠的な虚無感のような感覚を感じることから、自分の尊厳が消失してまうような感覚に陥る。その陥ってしまった感覚に対する感情を過剰な言葉で表現すると、僕の人生はもっと変化に富んで意味のある、素晴らしいものであるはずだ、というようなことだと思う。その人生は言葉で表現するならば、そうなのだろう。でも、それが具体的にどんなものなのかをあまり気にしないで、ただ生きることの方が、そうなっていくものなんじゃないかと思った。


他人と何かを共有するために、時間という単位ができたとすると、それはやはり人の都合であって、それがそのまま、この世というものにあてはまるものではない。都合とは言いながらも、確かに60秒が60回すぎれば1時間が経ち、それが24回繰り返せば1日が経ち、太陽はぐるっと一周回って戻ってくる。だから正しいのか?というとそういうことではない。正しいから、例えば太陽すら自分の範疇にあると言えるのだろうか。

少し極端に言うと、僕は、体感した事の全てが説明可能な言葉にできるような世界は、自分の意識の中にしかないと思っている。周りにはもちろん、自分の無意識の中にさえ、これほどのものが潜んでいる事を感じる事をせずに、時間から連想する尊厳の喪失なんて考えてもしょうがない。


他に、よく目にする「ゆとりのある暮らし」という言葉を考えてみると、その言葉からはじめたその暮らしは、時間という都合でできてしまうんじゃないかと思った。暮らしは、もっと自然なかたちの現れで、その現れ方により、ゆとりが生まれるのだと思う。ゆとりを持つために、意識的に何もしない時間をつくるということが不自然なのかもしれない。何もしない時間をつくるというのは、何かしている時間を短縮する行為とほぼ同じになりやすい。どちらかというと、時間を意識せずに何かをし続けると考えた方がより自然にそちらの方に向かっていくんじゃないかと思った。


尊厳の喪失や、理想的なゆとりの持ち方に繋がってしまうぐらい、時間の捉え方は、自然なものと認識してしまっていることが、良いのか悪いのかはわからないけど、尊厳やゆとりといったことを考える上では、時間の捉え方を変えないとわからないことがたくさんありそうだと思った。



写真は、つつじ。春なので。

I had not translated it yet...

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