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祈り / The Praying

辰巳芳子さんの本「食の位置づけ」を読んで、祝日や年中行事というものが単なるイベントではなく、生への感謝の現れだということを改めて思い出しました。いや、正確には知りました、かもしれません。

その昔、生きる事が今よりずっと難しくて、たくさんの悲しい思いが渦巻いていた中、あるうねりや積み重ねから生まれてきた行事がいくつもあります。七五三だって端午の節句だって、これらの存在がここまで深く根付いていることを思うと、当時の思いの強さが伺い知れますし、人が人として反応した結果であるようにも思えます。

辰巳さんは、行事のあるハレの日の食とは、いのちへの祈りであると言っていました。「なぜ人は食べ続けるのか」という自問に対し、食というものがこの世の全ての流れの動きの一つである。それをごく自然なものと捉え有難く思い、一品一品を、ただひたすら丁寧につくる。それをもって、子が生きてくれたことに対して喜び、これからも元気でいられるよう感謝する。それを節目節目で祝い、祈る。

ハレとケという分け方も、もともとあったというものではなく、毎日が同じように続いていく中で、前段のうねりや積み重ねがそれを導いたんじゃないかと思います。

そう思っていて、そこらへんで僕の中にあった違和感がはっきりとし始めてきました。

祈るというのは何を何に祈っているんだろう。祈るって何だろう。

僕たちの存在が、この世の流れの一つであり、少し科学的に表現するとしても原子レベルで少しずつ外から内へ、内から外へと繋がっていくようなものであるのは納得できます。そのための食という事もわかります。でも、食べたくても食べられない状況にあって、死んでしまう事は自然の流れなんじゃないか。もちろん、そんな風な割り切りを僕たちは持ち得ません。どうしても死にたくない、死んでほしくないと思うのです。それは、例え死んで当然だと思えるような状態であったとしても、自然の流れの死というものに対して、抗うような反対方向の祈りというものを感じてしまうのです。

この話、ごく普通の話のように思えるかもしれません。でも、この話を人生の中にいくつもある矛盾の一つとして捉えてしまい、死に対して抗うための祈りという認識をしてしまうことが、そもそもおかしいんじゃないかと思いました。この話は矛盾なんかではないのかもしれない。このことに気がついた時に自分の中で振り返ってみて、頭の真ん中より上のあたりにきゅーっと意識が集まってくる感覚を思い出しました。あれが祈りなのかもしれません。きっと、もっと動物的なもので、反射運動のようなものなんだと思いました。抓られて痛い!と思うぐらい。こうあってほしいというのは、その後からやってきてるような気がします。

今の時代、何かのために祈るということは望むということに近くて、本来的な祈るではないんじゃないかということです。祈っても越えられなかったこと変わらなかったことが、(人の欲望により)本来の祈りの必要性を失わせたのだろうと思います。祈ってもお腹はふくれませんしお金も稼げません。それは、笑うことも怒ることも同様です。祈りとは、わかりやすく何かのためになるものじゃないんだと思います。でも、備わっているものを抑えてしまう事の影響はきっと大きいはず。備わっているものは完全に消し去る事ができないものだとも思います。

文化というのは、この備わっているものが数えられないぐらい積み重なって、ようやく見えない形を成していくんじゃないかと思いました。行事はその見えない形の中にある、節のようなものなんだと思います。本来的な祈りをきちんと捉えていないと、文化は形を成さないのかもしれません。そして、これはそんなに難しいことではなく、その感覚を思い出し委ねるだけのことだと思います。

I had not translated it yet...
 

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