大きな文字で「車」と書く

車という文字の書き方・書き順は、一般的に決まっている。

なのだけど、例えば、自分の身長を超えるような、

とても大きな文字で「車」と書きたい時、

手元で書くような動きでは書くのが難しい。

 

体の動きに制限がある、こういうときに、

 十
 田
 十

と書こうとするのは良いことだと思う。

食育 / The Dietary Education

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最近よく、食育のことを考えています。

何年か前、国の政策として、食育基本法が公布されました。さらっと読んでみて、「食育バランスガイド」とか「健全な食生活を実践することができる人間を育てる」なんて言葉を見かけて、少しげんなりしました。ちゃんとした安全なものを、栄養価を考えてバランス良く食べる。というようなことが食育だと考えられているように感じますが、そういう考え方だけで、食べない方が良い食べ物が減ったり、食が生活の基盤という位置づけを持てるような方向に進むんでしょうか。

少し前に気がついたのですが、手間をかけて調理される料理というもののほとんどは、もともと生活の豊かな人のものだったのかもしれないと思いました。生活すること自体に懸命な人は、料理に手間をかける時間で、生活していくためのことをやっていたんじゃないかと。

そう思うと、料理研究家による、ちゃんとした食材を用いた、時間をかけてつくられる食事を常にみんなが目指すことが、最高に良いことだな、とは思えませんでした。

ここ数十年の全ての人の努力により、僕たちの生活においては、以前に比べ格段に死ぬ確率は低くなっています。でも、全体として死ぬ確率は低くなっているとしても、生活することに懸命な人もたくさんいます。

本当は、この生きやすさを上手く活かして、豊かな生活を送ることもできるんだと思います。色んな原因が考えられそうですが、現状に慣れてしまっていることが、その生きやすさを感じにくくさせているのだと思います。料理に限らず、身の回りのものともっとナチュラルに接した方が良いのかもと思いました。

で、食育のことに話を戻しますが、僕は今の食の問題とは、食べるものに対峙する時間が短いことが原因なんじゃないかと思っています。食べるものに対峙する時間を伸ばすために食材を育てる、なんてことが誰にでもできることだとは思いませんが、食材になる前の状態を知ることや、その食材がどういう変化をするものなのかを日常で感じるだけでも随分違うように思います。僕らが食に対してそういう取り組みをするだけじゃなくて、そういう生活の組み立て方をみんなでやれないとちょっと辛そうだなぁと感じているのですが、それはそれでとても難しいでしょうね。プライバシーとか、独占とか、サービスとか、色々問題のある言葉にぶつかりそうです。何がやれるのかな・・・。

一つ思うのは、大きく何かを決めるというよりは、小さい範囲でできることをやっていく方が良いように思います。例えば、周辺の人たちと一緒に食事をとれる関係をつくるとか。これは他力本願すぎるか。自分の食事を自分でつくることが第一歩なのか・・・苦笑。でも、それだけでもしょうがないのが現状のようにも思います。誰かと食をともにすることで、その関係が深められるような形が必要な気がしています。

時間 / The Time

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時間というものは、人の都合でしかないのかもしれない。

僕らが体感している、この流れは、永遠の昔から永遠の未来まで続いているものだと思う。だとしても、永遠に続くということを、僕らの都合にはめてみて、僕らが生きていることと関連づけることには無理があるように思えた。

少し前に書いた「人間の尊厳」から気がついたこと。例えばこのある日常の一場面が、僕の生の中で同一に繰り返されると想像したとき、尊厳を失いそうな感覚が生まれる。それはつまり、ある行動を、直接的では無いにしても、時間という単位へ半ば自動的に置き換え、僕らの都合でつくった時間という流れの捉え方の中で、何度繰り返すのかを想像するとき、限られた生の中で、最後の最後まで繰り返されるその行動に対して、気が遠くなるのと同時に永遠的な虚無感のような感覚を感じることから、自分の尊厳が消失してまうような感覚に陥る。その陥ってしまった感覚に対する感情を過剰な言葉で表現すると、僕の人生はもっと変化に富んで意味のある、素晴らしいものであるはずだ、というようなことだと思う。その人生は言葉で表現するならば、そうなのだろう。でも、それが具体的にどんなものなのかをあまり気にしないで、ただ生きることの方が、そうなっていくものなんじゃないかと思った。


他人と何かを共有するために、時間という単位ができたとすると、それはやはり人の都合であって、それがそのまま、この世というものにあてはまるものではない。都合とは言いながらも、確かに60秒が60回すぎれば1時間が経ち、それが24回繰り返せば1日が経ち、太陽はぐるっと一周回って戻ってくる。だから正しいのか?というとそういうことではない。正しいから、例えば太陽すら自分の範疇にあると言えるのだろうか。

少し極端に言うと、僕は、体感した事の全てが説明可能な言葉にできるような世界は、自分の意識の中にしかないと思っている。周りにはもちろん、自分の無意識の中にさえ、これほどのものが潜んでいる事を感じる事をせずに、時間から連想する尊厳の喪失なんて考えてもしょうがない。


他に、よく目にする「ゆとりのある暮らし」という言葉を考えてみると、その言葉からはじめたその暮らしは、時間という都合でできてしまうんじゃないかと思った。暮らしは、もっと自然なかたちの現れで、その現れ方により、ゆとりが生まれるのだと思う。ゆとりを持つために、意識的に何もしない時間をつくるということが不自然なのかもしれない。何もしない時間をつくるというのは、何かしている時間を短縮する行為とほぼ同じになりやすい。どちらかというと、時間を意識せずに何かをし続けると考えた方がより自然にそちらの方に向かっていくんじゃないかと思った。


尊厳の喪失や、理想的なゆとりの持ち方に繋がってしまうぐらい、時間の捉え方は、自然なものと認識してしまっていることが、良いのか悪いのかはわからないけど、尊厳やゆとりといったことを考える上では、時間の捉え方を変えないとわからないことがたくさんありそうだと思った。



写真は、つつじ。春なので。

FONT "ARCHITECT"

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archi_080314.jpg

昨年、フォントをつくってみました。

フォントというと、いわゆるデジタルフォントという扱いになるのかもしれませんが、僕がつくったのは一般的なデジタルフォントではありません。使うのに手間がかかるデジタルフォントです。

昨年は、PCにおける文字について、色々なお仕事を通して考える機会が多かったです。その中で僕が気になったのは、フォントが既存の仕組み前提のものになっているという点です。フォントデータをつくって、それをインストールすれば、登録されている文字は何でもすぐに入力できてしまう。この状態では、文字というものは引っ張ってきて並べるものになってしまう。(この辺の話は、WyzartさんのWEBサイトの話のときに、色々書きました。)

とはいえ、僕らが関わるものの全てにおいて、親しい人に手紙を書くような感覚で、丁寧に文字を書くことはできません。でも、仮に本文は膨大な量ということで納得するとしても、見出しぐらいは丁寧にやってもいいんじゃないかと思ったのが、今回のフォントをつくったきっかけです。(ちなみに、仕事でつくったロゴ案(ボツ)が元になっています。)


FONT "ARCHITECT" − Download (for Illustrator 10 Later)

デジタルフォントは、書道やカリグラフィで大切に扱われている要素を失い、既存の仕組みが前提になっています。その前提に必要以上にとらわれないためのフォントを考えました。

建築物の図面を手描きで引く時、読みやすさを考慮して、縮尺や大きさ、内容の密度とのバランスによって、0.1・0.3・0.5mmの太さ、あるいは0.1・0.2・0.3mmの太さの線を使い分けて図面を引きます。このルールは、あるものに対する線の太さを、描く人が価値観をもって、決めて描くものです。
この、数種類の太さの線の集合に対して、描いた人は達成感を感じ、見た人は緻密さに圧倒されることもあります。

このフォント"ARCHITECT"では、文字の大きさに対する線の太さのバランス感を大切にしています。また、並んだ文字に対する間隔の妙を意識して文字が組めるようにと考えました。

ARCHITECTは、骨と節と支えで構成されたフォントです。その要素それぞれの太さが、文字の大きさに対して良いかどうかを感じながら、大きさや太さ、文字の間隔を決め、文字を組んでください。

このフォントは既存の仕組みに乗らない分、使いにくいものですが、定規とコンパスで手描きすることも容易な書体です。小さな一つの見出しであっても、デザインしている人たちの丁寧な気持ちが含められるようなものになると思いますし、そういう使い方をして頂けると、とても嬉しく思います。


*使い方(Illustratorを使う想定です)

1. 文字をピックアップして、つくりたい単語・文章になるよう
  良い感じの文字間隔で並べる。
2. 文字の大きさを決める(線幅が拡大・縮小しないように注意)。
3. 線が細く(or太く)なりすぎていると感じたら、
  選択→共通→線幅を使って、
  骨・節・支えのそれぞれを選択し、それぞれ良い感じの太さに指定する。
 (あまり太くしすぎない方が良いかもしれません。
  支えは増やしたり減らしたりしても良いと思います。
  公開しているものは状態が安定して見えるように
  支えを入れてあります。)
4. 線の太さに対して、文字の大きさや間隔を調整していく。
5. できあがり。

祈り / The Praying

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辰巳芳子さんの本「食の位置づけ」を読んで、祝日や年中行事というものが単なるイベントではなく、生への感謝の現れだということを改めて思い出しました。いや、正確には知りました、かもしれません。

その昔、生きる事が今よりずっと難しくて、たくさんの悲しい思いが渦巻いていた中、あるうねりや積み重ねから生まれてきた行事がいくつもあります。七五三だって端午の節句だって、これらの存在がここまで深く根付いていることを思うと、当時の思いの強さが伺い知れますし、人が人として反応した結果であるようにも思えます。

辰巳さんは、行事のあるハレの日の食とは、いのちへの祈りであると言っていました。「なぜ人は食べ続けるのか」という自問に対し、食というものがこの世の全ての流れの動きの一つである。それをごく自然なものと捉え有難く思い、一品一品を、ただひたすら丁寧につくる。それをもって、子が生きてくれたことに対して喜び、これからも元気でいられるよう感謝する。それを節目節目で祝い、祈る。

ハレとケという分け方も、もともとあったというものではなく、毎日が同じように続いていく中で、前段のうねりや積み重ねがそれを導いたんじゃないかと思います。

そう思っていて、そこらへんで僕の中にあった違和感がはっきりとし始めてきました。

祈るというのは何を何に祈っているんだろう。祈るって何だろう。

僕たちの存在が、この世の流れの一つであり、少し科学的に表現するとしても原子レベルで少しずつ外から内へ、内から外へと繋がっていくようなものであるのは納得できます。そのための食という事もわかります。でも、食べたくても食べられない状況にあって、死んでしまう事は自然の流れなんじゃないか。もちろん、そんな風な割り切りを僕たちは持ち得ません。どうしても死にたくない、死んでほしくないと思うのです。それは、例え死んで当然だと思えるような状態であったとしても、自然の流れの死というものに対して、抗うような反対方向の祈りというものを感じてしまうのです。

この話、ごく普通の話のように思えるかもしれません。でも、この話を人生の中にいくつもある矛盾の一つとして捉えてしまい、死に対して抗うための祈りという認識をしてしまうことが、そもそもおかしいんじゃないかと思いました。この話は矛盾なんかではないのかもしれない。このことに気がついた時に自分の中で振り返ってみて、頭の真ん中より上のあたりにきゅーっと意識が集まってくる感覚を思い出しました。あれが祈りなのかもしれません。きっと、もっと動物的なもので、反射運動のようなものなんだと思いました。抓られて痛い!と思うぐらい。こうあってほしいというのは、その後からやってきてるような気がします。

今の時代、何かのために祈るということは望むということに近くて、本来的な祈るではないんじゃないかということです。祈っても越えられなかったこと変わらなかったことが、(人の欲望により)本来の祈りの必要性を失わせたのだろうと思います。祈ってもお腹はふくれませんしお金も稼げません。それは、笑うことも怒ることも同様です。祈りとは、わかりやすく何かのためになるものじゃないんだと思います。でも、備わっているものを抑えてしまう事の影響はきっと大きいはず。備わっているものは完全に消し去る事ができないものだとも思います。

文化というのは、この備わっているものが数えられないぐらい積み重なって、ようやく見えない形を成していくんじゃないかと思いました。行事はその見えない形の中にある、節のようなものなんだと思います。本来的な祈りをきちんと捉えていないと、文化は形を成さないのかもしれません。そして、これはそんなに難しいことではなく、その感覚を思い出し委ねるだけのことだと思います。

カモシカ / Capricornis Crispus

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1ヶ月ぐらい前、峠を越える途中、カモシカに会った。ニホンカモシカ。

こういう大型の野生動物に出会ったのは生まれてはじめて。本当にいるんだなぁ。熊じゃなくて良かったけど。

鳥居峠はなかなか良いところでした。緑が多くなる、これからが楽しみです。

冨川浩史建築設計事務所 / HIROSHI TOMIKAWA ARCHITECTS & ASSOCIATES

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オフィスをシェアしている白川冨川さんの分割により、新しく、冨川さん主体の「一級建築士事務所 合同会社冨川浩史建築設計事務所」ができました。これにあわせて、ロゴと名刺を一新。今回は、冨川さんの性質をベースに、よりしっかりとした印象が持てるものをという意味で、大人っぽいものを目指しました。右下の建築物っぽいものは冨川のTをマークにしたものです。文字とマークをあわせて全体でロゴになるようにつくりました。かなり細かい話なんですが、文字もほんの少しずつバランスをとるためにちょこちょことやっています。

昔を思う / Thinking The Old Age

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昔のこと(想像含め)から色々考えていました。

まず、家のことから考え始めた。その昔、家は囲炉裏(もしくは竃)を中心に成り立っていた。囲炉裏の火は暖をとるため以外にも、煤が出ることで家が丈夫になるという役割も持っていた。囲炉裏の火を絶やさないよう、薪を絶やさない。そのために山に入る。結果、山にも人が入っていた。薪以外にも、水を汲みに行ったり食料をとりに行ったり道具の素材をとりに行ったりと、山に入ることは、生活をする上で欠かせなかったのだろう。こういう状況においては、家を保つために行動したというよりも、生活全体としてバランスが良かったのだと思う。きっと1000年近くはこういう生活だったんだと思うし。

第二次世界大戦後、GHQにより食品衛生法ができた。囲炉裏や竃、土間が無くなり、庭が変化した。ガスが通って、暖をとるという方向よりも、外気に影響を受けないようなつくり方に変わっていった。こうなってくると昔のバランスは保てない。山には人が入らなくなり、生活の場が山から都市へ移り、山が荒れる原因となった。

便利さを求めて、山から人がいなくなったとよく言われるが、それだけではないと思う。それは、例えば山間部の村の中でも、二極化を実感したせいじゃないかと思う。昔からの流れで、多くの村には大地主という人がいる。村の頂点みたいな人だ。その一方で、その価値軸で見ると一番下に位置する人もいる。上辺と底辺で二極化が起こっているようにきっと感じただろう。二極化を感じたとき、その価値軸が存在しないところへ行きたくなるのもわかる。良い土地も持てず、立派な家もない。逃げると言えば逃げるなのだけど、より生きやすい環境に移動する。移動先は他の村だったり、誰も住んでいない土地だったり、都市だったりと様々だ。そうして見いだした価値軸が今の便利さだったりするんじゃないか。さらに都市においては価値軸の持ち方が複雑で、二極化を実感しにくかったはずだ。でも今、便利さが崩壊したのか、都市部では二極化を実感し始めている人が増えているように思う。ここで思うのは、二極化を感じるところとしては、権力の強さなのかもしれないということ。でも、人生の真ん中に権力の影響を受けない人は、そうは思わないんだろう。そういう人はきっと誇りを持っている。

山のことに話を戻す。山が荒れたというのはどういう状況なのか。木が生えていない山が増えたことや、木はあるのだけど根がきちんとはっていないゆるい山が増えたことなどがある。針葉樹は生えたい放題にしておくと、山に日が入らない状態になり、地面に草が生えにくくなり、養分もなくなり、保水性も低くなるらしい。伐採や間伐というのは、そうならないために必要である。

でも、少し戻って考えてみると、そもそも広葉樹が多かった、バランスの取れた山に、経済的な必要性から針葉樹を植えたのは人間だ。それを忘れて山が荒れたなんておかしな話だ。でもでも、それが僕らには必要だったのだと思う。少なくとも、以前には必要だったのだ。そのおかげで今がある。そして、今から広葉樹を植えたからといって、すぐには元に戻るもんでもない。時間はかかる。

ここで、なんだかなぁと思い始めたのは、何か大規模なことをやるにあたって、このためにこれをしよう!というときに、“このため”がある地点まできた(ある変化が起きた)後、どうするかも考えておくことをなぜしなかったのか。もう少し言うと、始める前に想定することなんて行き届かないに決まっている。おかしな話かもしれないが失敗することを前提に、それを調整しフィットさせるためとか、全然違ったら違う方向を考えるとかの考え方もできるんじゃないか。そうすることで、はじめに何を思い、どういう経緯でその芯が変わっていったのかという知恵を蓄積できる。これが財産になり、次の動き(世代でも良い)につなげていけるように思う。そういう流れもきっとどこかにあったはず。どうして途切れてしまったんだろう。昔の知恵をそのまま使うんじゃなくて、その知恵が進む先を考えていくこと。そう見直せない限り、山が荒れた地球がおかしいと嘆いてみてもはじまらないのかもと思った。

誰だって失敗したくない気持ちはわかるのだけど、そことその裏側に原因は潜んでいると僕は思う。失敗しても、それを踏まえてやり直すことが大切だと思う。というか、考えたことが成功するなんて無いんじゃないか。失敗しても成立させる努力ができるかどうか、それは生きていく意気込みみたいなもんだと思う。それが持てないのは、やっている人だけの問題ではなく、やってもらっている僕らの気持ちがそれをさせない、今はそういう状況もあるんだと思う。関係する人や事がある規模をこえたとき、信頼を持つというのは距離が遠すぎて難しい。でも、意外とある側面に対して無関心になる(少し語弊があるかも)ことで為されることもあるのかもしれない。

って、こんな話になる予定だったわけじゃなかったんですが、こんなところで。苦笑

反対語 AとB / Antonym A and B

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明るい、暗い。新しい、古い。ゆるい、きつい。暖かい、寒い。優しい、厳しい。熱い、冷たい。

色んな反対語があります。この反対語という意味の持ち方は、とても危ういんじゃないかと思いました。

明るいから暗いまでに至る間に感じる感覚は、同じ軸に乗ったものじゃないという実感が僕にはあります。それは、照明の明るさを調節して得られるものだけで明るさが決まっている訳ではないということです。想像の中でもう少し突っ込むと、軽いの反対方向にあるのは重いものだけとは限らず、楽しいってことだってあるんじゃないかと思うのです。ただ、反対語はわかりやすい分、浸透していて、それだけを信じていると気がつかないことがたくさんある気がしました。特に、自分が嗜好する方向と反対の言葉に対して拒絶してしまうことが気になります。

この前段で気になっていたのは、アナログとデジタルについて。これに関しては、アナログ志向の人間だからデジタルなことは興味ないしわからないとか、デジタルっ子だからアナログなことは必要ないとか、そういう感覚に対して、気になることがありました。

例えば、デジタルなものの象徴としてパソコンというものがあって、デジタルとアナログの間には壁ができています。でも、デジタルなことというのは、いわゆる“デジタルなもの”にしかないように考えるのは違うと思えました。僕的に簡潔に書くと、僕らが頭の中で、何らかの理由付けをして捉えたものごとの全てはデジタルであり、それ以外の捉えきれないゾーンがアナログなんじゃないかと思うのです。

そのまま話を転がしてみると、人工と自然というものがあって、作られた物は人工的、海や山は自然という割り切りはどうでしょうか。そこの境目はどういうものなのか。

スタイリッシュなものは人工的で嫌いだという出発点から、たまに山へ行き、自然って最高だなぁと思う心は、本当に自然を愛せているのでしょうか。僕は、本当の山での暮らしをしたことがあるわけじゃないので、山が愛せているというのがどういう状態なのかはわかりませんが、少なくとも都市だろうと山だろうと、人工か自然かという理由をもって何かに接さないのはおかしいと思うのです。もっと言うと、人工だって自然だろうと思ったりもします。(さらにもしかすると、今見える自然は人工じゃないかとも・・・)

自然じゃないことが人工だという割り切りを持っていては、人工が自然の一部とは思えないんじゃないかと思うのです。それって、ちょっと危ないというか、人工に対しても自然に対してもキッチュな認識だなと思います。(ちなみに、キッチュが悪いことだとは思わないが、人生の真ん中あたりに関わることをキッチュなものとしてしまうのは良くないと思う)

ちょっと話がややこしくなってきましたが、何事も二極的ではないと思いつつ、反対語を便利な道具のようなものだと思って接していないと、価値観を見失うんじゃないかと思った次第です。特に、反対語による理由付けを自分の感覚だと思うことは、あらぬ方向に進んでいることがあるように思います。

お金 / The Money

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お金の価値について考えていました。昔から、その価値が上下を繰り返しながら、今に至ってもほぼ同様な価値を持ち続けるお金というものは、とても不思議なものだなと思ったのがきっかけです。いや、少し落ち着いて考えると、“ほぼ同様”というのはちょっと違っていて、昔よりも今の方が、お金に対してどん欲というか盲目的になっている分、人生の中でお金に重点を置いているように思います。これは一種の慣れのようなものなんじゃないかと思います。もちろん、今も昔も、お金は食べられないし、薬のように体を治せるようなものではないということは、理解できているのですが、今はそれが直結しているようにも思えます。これは、自分にとって信頼の足ると思える人が扱っているお金に対して、自ずから感じる評価を気にしないようにしているからだったり、経験則としてお金に対する気持ち上の負荷をどんどん大きくしてみても(例えば食べ物づくりを止め、お金をつくり出すことに専念することなど)自分の人生は成立可能だった結果なんじゃないかと思いました。

僕もお金のことをそれほど特別なものと考えたことは無かったのですが、価格としての価値というものがこれほどに変化をする、普遍的であるはずのお金というものを考えた時に、何かおかしいよなぁと気にかかるようになりました。

色々と考えてみたのですが、どうもお金というのは、ある文化圏(?)における究極の先送り法じゃないかと思えました。食べ物の物々交換で考えると、交換した時点で食べれば問題ないというか、腐る前に食べる必要があります。でも食べないとすると、腐るまでしか価値が残らない。お金は腐らないので、いつでも何かと交換可能なわけです。

でも、心はお金じゃ買えないんだよとか、本当に困る時には逆にお金があっても役に立たないことだって想像できるわけです。そうこう考えていると、価値を数値で表せることは便利ではあるけど、色んな意味で欠如している部分があるように思えました。その交換はなんのためなのか、交換によって得られた物に対する心持ちとか。

食料を奪い合うような時代においては、他者との間にあるお金の重みはより大きくなる(価値は下がるが)のかもしれませんが、逆に今の時代においては、重みは小さくなっていると思えます。その小さくなってしまった重みに対して、不信感を抱くのは当然です。でも、今のタイミングで、自分の小さな不信感ぐらいでは、信頼している社会に対して思い切れることはほぼ無いでしょうし、経験則を覆すことはできません。難しいもんです。

でも、既に経験として感じているところはあるはずです。湯水のように使ってしまったお金によって生まれてしまった先送りのしわ寄せが、至る所に感じられます。これはたった一個人の先送りであっても、それが直接的に個人に戻ってくるというものである以上に、地域に対して国に対して世界に対して、戻っていっているのだと思います。でも、これも難しいんですよね。必要不必要を誰かが測って決めていくことなんて、できませんもんね。

僕的には、お金の価値じゃなくて、お金の意味が変えられると良いのじゃないかと思っています。お金ができる前、さらに物々交換が行われるよりも以前、もっと言うと言葉すらなかった時代、他人によるある(親切な)行為の代わりに自分ができることをお返しするような関係があったと思うのですが、そのとき、両者で交わされた価値というものが、ほぼ無くなってしまっているやり取りはおかしいと思うのです。

ある一辺倒な価値基準以外に、それとは全く無関係にある価値基準をもち、それらを合わせて交換を行うような仕組みなんかがあると良いのかなぁとか思ったりしました。これも先送り法の一環かなぁ・・・。例えば、お金の現れである資産のようなものが、お金以外の価値軸でも持てたりすると良いのかなとか。でも、これもまた難しい。お金以外の価値軸って、いわゆる差別ってものに繋がりやすそうだし。でもでも、そう思うと、お金による社会性の差というものは差別なんじゃないかとも思えますね。うーん、とても難しい・・・。もう少し考えます。