宮島達男 / Tatsuo Miyajima

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水戸芸術館に宮島達男さんのArt in Youという展示を観に行ってきました。ついでに宮島さんのトークも聞いてきました。

展示を観に行く前、宮島さんについて僕が知っていたのは、この三つ。
・デジタルな数字を使った作品をつくっていること
・原美術館にある常設の作品を見たのを覚えていたこと
・ヒロシマと死に関する作品があったのを覚えていたこと

行く前に、数字をずっと使っている人だから、数字に関してお話ししてみたいなぁと思っていました。僕にとって数字というものは、量もしくはIDのような記号の二つの面を持つ言語であるという感じです。また、大体において僕らの生活はこの数字に依っているとも思っています。そして、昔から数学が好きです。でも、好きな分、腑に落ちないところもあったり。ゼロってずるいなぁとか、1+1=2ってなんだ?ほんとか?とか。ゼロのずるさは、色々あるのですが、一番ずるいと思うのは、ゼロなのに有るっていうこと。無というものは、僕らそれぞれの心の中には(語弊を恐れずに言うと)割とはっきりと存在していて、こういう風に言語で表現した時点で無ではなくなるものだと思います。が、普段の生活の中で、ゼロと無はほぼ同じように扱われ、まるで無であるかのように振る舞っています。もちろん、それで成り立っているわけですが。でも、僕の中では腑に落ちないのです。あるじゃんと思うのです。ゼロの存在が無というものを無くしているような気がするのです。って、何だこの文章(苦笑)。まあ、いいや。

で、今回の展示に行ってから知ったのですが、宮島さんが作品の中で数字を使う時、ゼロを使いません。例えばガジェットという1・2・3・・・とカウントしているLEDのカウンターがあるのですが、ゼロは表示しないのです。なるほどなぁと思いました。
まあ、前置きはこのぐらいで。以下、見たものです。

・HOTO
宮島さんの新作です。仏教の経典かなにかにでてくる物語の中にある、地球の半分の大きさの塔をイメージしてつくったとのこと。色んな向きの、色んな大きさのたくさんのガジェットが、鏡面でできた多角形の積み重ねの表面に配置され、それぞれがカウントを刻んでいます。
これをしばらくじーっと見ていると、穴が空いて、それがじんわり動いてみえて、不思議でした。僕はこれ好きでした。

・Time of death
これは宮島さんのとても有名な作品で、原爆を意識してつくったもののようです。
この作品の空間の真ん中あたりに立って、じーっと見ていると、まずはじめ、大きな湾の入り江に立っているような感覚になりました。何も無い暗闇の向こうが、入り江の外で、ずーっと続いているような感じです。で、そのまま立っていると、他の観覧者が入ってきて、僕の目の前で歩いたり止まったりするのですが、そうすると、人とLEDの重なった部分が青白く光ってきました。これまた不思議な感じでした。綺麗な光が意志を持って動いているように見えました。

・宮島さんと水戸芸術館の学芸員(?)の森さんとのトーク
宮島さんの今までの活動を振り返りながら、どこに向かっているかみたいな話でした。僕は一番前でじーっと聞いていました。もちろん宮島さんは初めてみたわけですが、優しそうな人でした。話を聞いていても、とても良い人だなぁと思いました。作品も好きでしたし、全体的にこの日はとても良かったのですが、ちょっと引っかかる部分が。
前置きにちょっと考えていたことを書きましたが、本当は数字をどう捉えているのかとか、そういう質問をしてみようと思っていたのです。でも、話を聞いているうちに、頭の中がこんがらがってきちゃって、結局何も聞かずに帰りました。一言で言えば、わからないのです。何がわからないかをきちんと書けるほどに、今回考えたことを咀嚼し切れていないのですが、断片的に考えていたことを書いてみます。「?」がついて、疑問口調ですが、その疑問を聞きたいのではないのです。本当に聞きたいことは、こういうのがまとまったときにはっきりするものだと思うので。じゃあ、書くなよって感じですが、まあまあ。良いじゃないですか。

・「ガジェットは生命を表しているが、それは世界には伝わっていなかったように思う」的なことを言っていたが、そう実感したのにガジェットを使い続けるの?
・柿の木プロジェクトをやってみて、アートワールドから抜け出したくなっているのに、何故美術館でアートイベントをやるの?
・アートワールドだけではやれないと思い、平和をつくりたくて、何故Art in Youなのか。Live in Youの方が伝わることがある気がする。
・ガジェットが0(ゼロ)を表示しないとしても、僕らは0(ゼロ)を知っているのだから、そこを覆さないと駄目じゃない?
・アートワールドに自分のやりたいことが無いと思ったのに、でもアートワールドで活動しているように思う。二面性を持っている?自分の過去や今を否定しているように感じる。

これは宮島さんとお話ししてみたいこと。
・数字について
・0(ゼロ)について
・無について

終わりがグダグダですいません(苦笑)。誤解の無いように書いておくと、僕は宮島さんも宮島さんの作品も好きです。

NAKAE ARCHITECTS INC.

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株式会社ナカエ・アーキテクツ 一級建築士事務所のロゴをつくらせていただきました。
建築家の中永勇司さんからの要望は、少ない言葉でまとめると、シンプルだけど芯のあるものをというような感じでした。色々と話し合い、試行錯誤した結果、中永のNのマークを使った、平面にも立体にも見える案を採用して頂きました。ありがとうございました。

中永さんの最近つくった「NEアパートメント」という集合住宅があるのですが、曲線がとても綺麗な3階建ての集合住宅です。10+1のWEBサイトで、ムービーを少し見る事ができます。

うまれる歌 / Appearing Songs

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随分前に、僕らが知っている歌ってどうやって生まれてくるんだろうって、ふと思いました。とおりゃんせとか、ねんねんころりとか、切手の無い贈り物とか、花とか。歌には、うまれる歌と、うむ歌があるように思います。つまり、大小に関係なく社会がつくる歌(できちゃった歌とも言える)と、個人がつくり出す歌です。僕が子供の頃に触れていた歌は、前者の歌もたくさんあった気がしますが、いまや後者が増えに増え、ほとんど後者なのだと思います。

そんな想像をきっかけに、未来の歌ってどうなっているのかなと考えました。SFチックに想いを馳せると、近い将来インターネットの浸透により、誰かが明確に意図するわけではないにしろ、生活の中にある、けっこう小さな事実までも記録されはじめる気がします。その結果として、噂や口伝は減り、身の回りから曖昧なことが少しずつ減っていきそうって思いました。
となると、人々は自分が直面するあらゆる事態・現象に対して、判断基準を自分の外に求めるようになります。僕の感覚で言うと、わからないときはGoogleに聞こうっていうのは、これに似ている気がします。これがどんどん膨れていくと、「生きることは、ただただ選択や判断の連続が続いていくのみだ」という考えをみんなに植え付けてしまうかもしれません。そんな中では、きっと人と人との関係はとても薄いものになっちゃうでしょうね・・・。なんか、どんどん悲しくなってきました。少なくとも、人には生きる理由も死ぬ理由も無いという実感を迷いながらも少しでも持てるなら、生きることが判断の連続なんかだとは思えないと思うのですが、まあ、こういう考えは僕が思うってだけなので、微妙かもしれません。って、話が逸れてる(苦笑)。

でですね、うまれる歌っていうのを意識して、それが無くならない努力をすると、社会にある色んな問題が解決したりしそうだなと思ったのです。あからさまに「みんなでつくろう!」みたいな仕組みづくりをすると、たぶんうまれてこない気がします。なので、こっそり、ひっそり、ふんわりとした仕組みが勝手にできちゃえば良いなぁと思ってみたりしました。便利なものを使うことは良いことですが、それでもまずは、何かに直面した時すぐに判断基準を外側に求めないようにがんばるのが一番かもしれません。外側の判断基準ってすんごいラクチンなんですけどね。

あ、最後に、ちょっと関係ないですが、音楽って言葉の生まれについて。
何年か前に密教だったと思うんですが、宗教音楽のライブを聴きました。かなりぼーっと聴いていたのでよくは覚えていませんが、聴いているときに、これが音楽の根源だとすると、もしかして音を楽しむのが音楽なんじゃなくて、音にして楽になるものが音楽なんじゃないかと思いました。それは聴く人がって話じゃなく、演奏する人が楽になるってことです。まあ、それを聴く人も楽になるんですけども。僕は楽器が弾けませんが、弾けるようになりたいなぁとは思っています。

お寺について / About a Temple

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あるお寺のプロジェクトに関わりかけたときに考えていたことを、中途半端ではありますが、せっかくなので公開してみます。(ネタ帳に書いてあることを振り返って公開してみるっていうのをやってみようかと思っているので、今回はそのお試しです。)

お寺が持つ全ての要素について、世代に依らないよう、
人が人として反応することを盛り込まないといけない。
色、形、それらの組み合わせによる質。

そして、それらを感じるのはあくまで「人」であり、
何かが存在しているのではない。
(厳密には、存在しているとも言える。)

・存在
・人が生きること
・宗教

感覚
思考

救うとか救われるとか
ではなく
生きていること。

本能は、存在と感覚の子である。

立ちのぼり、集まり、組合わさる。

体験と経験と身体的経験

体験は、体で受けている感覚を伴う。他者とのやりとりができるものもある。
経験は、頭で解釈されている。

身体的経験は、体で受けていることに気がつかれず、頭で解釈されていることにも気がつかれていない。それらはときに、表面化し、意識され、確信になるものだ。