パーティとアトリエ その後 / After "Party and Atelier"

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無題(観客は常に笑う)
今日はとてもたくさんの方とお会いしました。雨の中、来てくれた人、本当にありがとうです。あまりじっくりとは話せませんでしたが、良い時間を共有できたんじゃないかと思います。またいろいろとやってると思うので、遊びにきてください。

ちなみに写真は新野圭二郎さんの新作群の中の一つ。「無題(観客は常に笑う)」です。新野さんの新作群は面白かった。まだ見ていない方は是非。6/11まで展示されています。

パーティとアトリエ / Party and Atelier

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今日は久々のお知らせです。

ちょっと前になるのですが、友人(建築家)とアトリエシェアをはじめました。場所は馬喰横山。Uchida Bldg complexという所です。色んなものがうまれてくる環境です。まだそれほど通えていないし、今後の動きはちょっと複雑な感じなので、まだまだ僕の中でも未定な部分が多いのですが、徐々にそっちでも色々できると良いなと考えています。(ちなみに今はWEBサイトの管理者的な役割で関わっています。)

で、今週の土曜日、5月27日にUchida Bldg complexに東日本橋界隈で初のアートスペースをオープンするということで、色んなことを兼ねたパーティを行います。場所とか時間とかやってることとか、詳しくはUchida Bldg complexのサイトで見れます。僕はやりませんが、エキシビジョンはかなり楽しそうな感じです。僕は12:00から23:00ぐらいまでは馬喰横山にいると思うので(パーティは18:00から)、もしお時間ある方は是非遊びにきてください。お友達ときてもらえると嬉しいかもです。

グレーな抑制 / Vague Control

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インターネットにおける未成年者の行動制限は、今までも色んな話題が出ていました。ペアレンタルコントロールとかも随分と前から考えられていたりしてます。ちょっと考えてみると、個人レベル・家庭レベル・学校レベル・社会レベルとあって、この4段階での対策が必要となるとまあ大変だなぁと思います。
が、一方で、アクセスさせないように仕組みを作ることが本当に有効なのかという疑問が僕にはあります。じゃあ、この問題で何がポイントになるのか考えてみました。

まずインターネットというものは、ある面では仮想社会の中での事実をデータ化して蓄積する巨大な仕組みです。「いや、私はネットショッピングを楽しんでいるよ。」という人もいるかもしれません。個人としては楽しみという面が顕著に目立つものなのですが、これが現実空間だとして考えてみるとわかります。もし、とあるなんだか楽しいビルがあるとして、その中でのすべての行動が逐一記録されていることを知っていたら、それを良しとして楽しめるか?っていう話です。僕は無理です。でも、そのビルがトイレの必要がないような、例えば単なる通り道的なものであれば、まあ納得できるかもしれません。数年前のインターネットはそんな感じだったかもしれませんが、技術の進歩と利用者・利用時間の増加でやっている行動・できる行動が増えるごとに、そのビルは例えるならホテルやマンションに近づいています。自分の寝息すら記録されているホテルの中で安らかに過ごすことができるでしょうか?さすがに無理でしょう。
人間は年齢を重ねるごとに自分のことを表に出し始めます。出し始めるというよりも、出てしまうことに執着しない傾向にあると感じます。ただ、出すことが自分にとって不利益だと思っていることは絶対に出さない、悪い意味でも良い意味でもそんな二面性を持つことになるもんなんだと思います。で、いわゆる成長期にあるこどもというのは、そんなものの存在は考えないし、しないのです。じゃあ、そういう二面性があることを伝えれば良いのかというと、そういうものでもないもので、ある程度の時間をもって自分の価値観を構築していく中で、築き上げられるものでしょう。インターネットの中で容易にできてしまう行動が今後もどんどんどんどん増えていく中で、どの面をインターネットで出すことが自分にとって不利益なのかということをコントロールしない限り、アクセスを制限したって駄目なんじゃないかと思います。アクセス制限ってのはいくらでもかいくぐれるものでしょうから。なので、インターネットの中で行うひとつひとつの行動が結局どういうことなんだという認識作りをしていかないといけないんじゃないかと思いました。でも、これって大変というか、難しいだろうなぁ。多くの価値観を多くの人と共有する必要がありますからね。
じゃあ、ちょっと話を少しずらして、ある範囲の中にある、ある事柄をデータ化することが、誰にとっての有害で、誰にとっての利益なのか、について考えてみます。
例えばいつ誰が何をどうやって買ったのかという情報は、マーケティングを生業にしている人にとっては非常に有益な情報です。データ化されていることで情報として取り出せて、戦略の材料として使えるわけです。がしかし、これって例えば近所のスーパーで同じことをされていると知ると周囲の住民にとってはいい迷惑というか、食べ物ぐらいならまああれですが、本や薬といった範囲にまで広がるとすごく迷惑な話です。しかもそのデータを誰でも取り出せたりすると、もうなんでそんなことするのっ!って思うでしょう。まあ、誰もそんなことはしないんですけど、しないというのはどういうことか知っているからしないんです。こういうのってちょっと広義にいうと、自分の身近な人間関係のデータ化、もう少しわかりやすく言うと数値化ともいえます。
じゃあ、こういうことをこどもはしないでしょうか?たぶん、野山をかけまわってスズメバチと格闘したり、田んぼでザリガニと泥まみれになってたり、帰っても山盛りのご飯を食べて家族と話して寝てるような生活なら、たぶんしません。でも、携帯電話を持っているようなこどもたちはわかんないわけです。例えば携帯電話のメモリ。これって人間関係をデータ化したものです。これをクラスの中で誰が誰のデータをもっているか統計とって閲覧可能にしちゃったりとかすると、結構イタイ情報を生み出しそうですよね。メモリの量が一番多いのは誰かとか、誰がクラスの中で一番メモリされていないかとか、安易にわかってしまうわけです。そんな状態で、長い時間を複数の人間と過ごす環境にいたとすると、たぶん、ふとしたときの特別教室の理科の時間とかに自分のと周りの仲の良い友達のメモリをあわせて数値化してみて、おお何かおもしろいかも!とかってチェーンメールなんかで周りを巻き込みつつ、変なデータをつくりはじめるやつとかいそうな気がします。で、そのデータがヤバい要素も含んでいることなんて思いもせず、やってみてそのデータに振り回される環境を作ってしまうわけです。これは、データの持つ潜在能力を理解しないまま、楽しさ優先でやってしまうような一例です。でもここまで読んで思うのですが、「まあ人それぞれに色々あるのだから、そんな情報ではその人の価値なんて決められるようなもんじゃない。気にすることはないさ」って思え、そんな行為をしないのがいわゆる大人な感じがしますが、だからといって「何が悪いのか?」って問われたときに答えられる気がしません。それじゃまずそうです。だって、ふとした思いつきでできてしまうようなことを抑制する手段が、おのおのの倫理観みたいなものに依存するしかないとすれば、こどもにとってそれは問題でしょうし、それに答えられない大人ってのも問題ですよね。まあ、ちょっといじわるな人だと「そんなことをしてもそもそもの犯人が誰なのかはよく調べればわかることなんだから、やって得することは何もない。やめておけ。」と法律に抑制されるがままの人間って感じな方向付けをしそうですが、殺人とか泥棒ならそういうグレーな抑制でも自分の損益として理解しやすいからそのままでも良さそうですが(深くつっこむと止まらなそうな話なのでさらっと書きました。)、日常生活のすぐ手の届くところにある、損なのか得なのかがいまいちわかりにくいことに関しては、そんなことじゃいけません。なので、上の例にさらに突っ込んでみて核にある問題点を抽出してみることにします。
人は比較や直感を駆使して、あるものに関する価値観をつくっています。単純に言うと、考えているわけです。ポイントとしては”自分で”考えることなんだと思います。で、その考えるときにさらにポイントになるのはペースで、自分のペースでつくるのが自分の価値観になるのだと思うのです。もしあるAという事柄に関して自分のペースで価値観を判断している途中に、何らかそれに対して決断を余儀なくされる場合、人はそれがまだ未決な存在として決断、例えば何もしないとかを選択する気がします。むしろ、何もできないことを予測してその決断ポイントに近寄らないってことも考えていると思います。しかし生活の大部分において、同じ空間同じ時間を共有する多数の存在がある環境では、自分の考えるペースを保つことが難しいのです。これは日本人の性質の目立つ部分でもあるのかもしれませんが、人間は根底にそういう気持ちって持つもんなんじゃないかなと思います。(それとは別に根底にある、早い者勝ち思考がそうさせている気もします。これについてはまた後日。)となると、問題はどんどん難しくなってきました。難しいので今日はこのへんでやめておきます。

一応まとめ。いやぁ、やっぱり学校の先生ってすごいなとつくづくそう思います。そういえば、インターネットに関する制限の話を書いていたんだった。ま、まあ、インターネットとはいえ、根本は同じだということです。
あと補足的に、僕は携帯電話が悪いとも思わないですし、今の教育否定しているわけでもありません。否定できるほど理解できていませんし。

信号機 / Signal

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信号機
通りの大小や周囲の人および車の有無に関わらず、信号を守ること。

僕はこのルールを1年ぐらい前から気にしています。安全を確認してから信号を確認して、その上で信号に従う感じで、少なくとも一人でいるときには守っています(誰かと急いでいるときはその限りじゃないのですが)。こんなことを何故やりはじめたのかというと、別に何っていうこともなく何となく始めました。たぶん人々がさも当然のごとく無視しているのを見てのことだと思います。自分のことを考えているうちに、この世界標準の赤青黄はどんな風に人々に影響を及ぼしてきたのかが気になってきたので考えてみました。

以下の文はほとんどが想像です。ので、常識として信じたりしないでください(笑)

日本では信号がよく使われるようになって100年近く経っています。初めて信号を目にした人たちは、それに慣れるまでの間、戸惑いがたくさんあったと思います。でも交通量を想像すると、そのせいで事故が増えたり減ったりするようなことはあんまり無かったんじゃないかと思います。この頃、信号機はそれほど効果的なものではなかったと思います。プライドが邪魔をして機械に従うことが許せなかった人とかもいたんじゃないかと思ってみたり。まあ、そんな時期が30、40年ぐらいは続いてたんじゃないかなって思います。戦争の前後では信号機を守る余裕なんてのももちろんなかったでしょうし、信号機を守ることに対する意味の無さというのが人々に根付くには十分な時間だったと思います。
その後、戦争が終わって高度成長期に突入している日本は、生への執着と死への恐怖が如実に強くなり、悪意からくる人口の減少に敏感になっていったと思います。そんな中、活発な経済のおかげで交通量が増え、悪意ではない人口の減少要因として交通事故というものが浮上してきて、色んなところで信号の重要性が認識されていきました。が、前段としての信号機不信があるおかげで、伝播するスピードはそれほど早くはなかったのでしょう。
そんな信号機不信な時代も、昭和45年ごろの交通事故死数ピーク(これは想像じゃなく本当。ここに書いてある。)を迎え、人々が自分の身の回りに交通事故の危険を感じるようになり、やっぱり信号って大切じゃないのかと心の底から信じはじめるようになります。その結果、交通事故は減少の一途をたどります。僕が子供の頃に教えられた「道路では十分に気をつける。信号は守る。」というのは、今思えばこのへんの時代だったんだなと思いました。
しかしその後、そもそも危ないから信号を守ろうと思っていたはずの人々は、この時代を経て「青ならば安全。みんなが信じる青は安全に決まっている」という危ないかどうかは関係ない気持ちを持つようになり、交通事故の減少もストップがかかります。
それから逆にまた事故数は増えていきます。そんな時期を幾年か過ごすと、体験的に青が安全であるとは限らないと思うようになります。そうなると、次は自分で安全かどうかを確かめる時代になるわけです。この頃にはずいぶんと複雑化した社会になっているので、信号機を信じたぐらいじゃその複雑さの中で安全に生きていくことはできません。タイミングの良い進化だったと思います。そのおかげで、また事故数はどんどんと減っていき、今現在に至るという感じです。
今までの時代の流れを信号機にフォーカスして表現してみると、「信号機は意味が無い」→「青は安全の象徴」→「青は絶対安全ではない」という感じです。そして今、青は絶対安全ではないから安全は自分で判断するという意識になって久しいとすると、赤の意味が薄くなっている、もしくは信号機自体の意味が薄くなっているのではと思うのです。これが僕が目の当たりにした「信号を無視する人たちの深層心理」なんじゃないかと思いました。

これが歩行中のみの意識なら問題ないのですが、歩行者の中には車に乗る人もたくさんいます。とすると、この意識が成長するとまた事故が増えちゃいそうだなと思いました(高齢化の影響もあるでしょうしね。)。
でもたぶん、意味も無く赤信号を守っている人って何かちょっと滑稽というか、それが自分の進行の妨げになろうもんなら「こいつ、こんなところで止まるなよ」って思う人も多いんじゃないかと思うのです。が、それを加速させてはいけないよなぁと思ってみたりしました。とはいえ、僕が立ち止まったぐらいじゃどうにもならないんでしょうけどね。

話は少しずれますが、「ルールは破るためにもある」って良く言われたりします。守るためのルールなのか、破るためのルールなのか、なんてのはどっちでも良いと思います。要は守るにも破るにもそれなりの理由を思いついてからそうすれば良いのだと僕は思います。もし、理由が無いなら守っても良いというか、守った方が良いことも多いだろうと思いました。守る理由が自分になくとも誰かが思いついた理由があるからルールとして存在している(場合が多い)のです。破ることを知っていながらも理由が無ければ破らないというか守る気持ちの持ちようって今の社会にはあっても良いんじゃないかと思いました。