NOTATION

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エスキモーの木彫り地図

NOTATIONとは、特殊な文字、記号による表記法のことである。

これは、グリーンランド東部のエスキモーの木彫り地図である。この地図には一切の記述が無い。言葉も用いてないだろう。そういう文化が発達していないからそうなのではないと思う。触覚によりすべての位置関係を把握できるということを彼らは十分に知っている。

人は様々なことを考えている。だが、それらすべてをどこかに伝えるのに、言葉だけでは不十分である。このような問題を抱えたまま、人間は今まで発展してきたわけではない。だが、人間のすべてがその問題に直面し、何らかの方法でそれを解決しているわけでもない。何かを伝える表現として、今、僕の前に現れたNOTATIONという言葉を深く知る必要がある。

地図というものはそれ単体だけではまったく無意味である。それらを必要とする人がいてはじめて、NOTATIONとして機能する。NOTATIONというもの自体は万能ではない。だが、言葉には無い何か、その人の心の一部が見え隠れしている。では、建築においてのこれは、果たして万人に伝わるのだろうか。

建築におけるNOTATIONとは非常に意味深いが、その空間を訪れる人にとってその存在を気づかせないものである。だが、これをやめてしまった空間は"空"となる。

空間とは、人やモノが作り出すものである。建築とは、その空間にフレームを与えるだけにとどまるのではなく、人と時間のプログラムでもある。このプログラムを表現するためにNOTATIONは模索され続ける。

ということだそうな。いやぁ、懐かしいシリーズ第一弾。これ、僕が大学の課題の中で考えていたことです。10+1という雑誌のNOTATIONっていう特集を読んで、こりゃ大変だ!って思ったのを思い出しました。もちろん、未だにわかってはないです。この頃とは少し捉え方は変わってきてるかもしれませんが、基本は変わらずです。NOTATIONっていうのはすべてのものに含まれる要素で、人が何かから感じる何かに対して何を思うかを考えた末にものに含めるものだと思ってます。「何」が多いですね。

とりあえず、この木彫りの地図を見てみたい。

牡丹の香り / Smell of Peony

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牡丹

僕が牡丹を好きなわけは、まあいろいろとあるのですが、一番好きなのは香りです。何とも懐かしい香り。誰も覚えていないかもしれないけど、僕の家の庭には牡丹がありました。

このぐらいの年齢になって思うけど、やはり香りの記憶ってすごく強く残っている。鉄の匂いには父、ファンデーションの匂いには母、恋する乙女な匂い(主成分はシャンプー)には姉、新しい電子基板とプラスチックの匂いには兄、そして牡丹には祖母。こういうのを哀愁?郷愁?ノスタルジー?というのでしょうか。頭の中の、ちょうど重心ちかくが持ち上がるような感覚。こういう湿った日にはちょうどいい。

皆が僕を忘れる理由 / The Reason Why Everyone Will Forget Me

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ある夫婦と会う。

旦那・嫁「はじめまして。」
僕「僕は二人ともよく知っているよ。」
旦那「え、そうなの?」
僕(嫁を見ながら)「うん。よく知ってる」
旦那「うーん・・・誰だっけ?」

あ、なるほど。これはあれがいけないんだな。

と思い、目覚める。

そうそう、こっちの、僕の部屋に起こる嫌なことが原因なんだ。これを乗り切っておかないと、皆は僕を忘れちゃうんだよね。しかし、いつ起こるんだろう。今起こると嫌だなぁ。

と思い、隣の部屋を見る。

眠る前とは様子が違っている。鏡の角度が変な向きに・・・すでに誰かが侵入してきてる・・・。

んなわけない!ってところで我に返る。鏡を良く見たら、角度が違うと言うよりも、いつも見ない角度からみた鏡でそう見えただけでした。今日見た夢と寝ぼけ。怖かった・・・。

ちなみに、夢の中の夫婦は寝ぼけの中では、旦那が僕の左手で嫁は僕の右手でした。

茂木健一郎と佐藤雅彦 / Kenichiro Mogi And Masahiko Sato

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今日は友達に誘われて、青山ブックセンター本店に講演を聴きに行ってきました。茂木健一郎さんと佐藤雅彦さんによる、「アハ!体験 ひらめきってなに?」という、茂木さんが書いた「ひらめき脳」という本の刊行記念の講演会でした。

茂木さんはクオリアというものに新しい価値観を見出している人。脳科学をやっている人です。
佐藤さんはもともとCMをつくっていた人で、紆余曲折あって今は東京芸大の教授をしているそうです。最近だと毎日新聞でやってる日本のスイッチとかNHKのピタゴラスイッチなんかが有名ですね。もともと慶応のSFCに研究室を持っていました。

僕が佐藤さんのことを知ったのは、4年前ぐらいに毎月新聞という日本のスイッチの結果をまとめた本を買ったのがきっかけでした。その当時、僕の周りには「●●さんって凄い」「尊敬するのは○○さん。」というような思いを持った人がたくさんいたのですが、僕は人の名前を覚えるのが苦手なのもあるのですが、ぱっと見て「凄い」と思えるほどその人のことを理解できなくて、「この人が凄い」っていえる人がいませんでした。単に知らなかったというか、勉強不足だったような気もしますが、強いて言うなら、山本耀司さんと磯崎新さんはそうだったように思います。でも、この両者とも、僕の中で解釈をしてみるというチャレンジをせずに、良いと感じるのみの状態でいたと思います。で、僕的には人生初の「この人凄い!」って思ったのが佐藤さんでした。どうしても、「この人とゆっくり話をしてみたい。」と勝手に思ったものでした(今でも思っています)。
一方、茂木さんのことは、確か去年初めぐらいに友人から「茂木さんって人が凄いんだよー。クオリアっていうものを研究している人で・・・」って聞いて、今はやめてしまったQUALIAという製品群が気になっていた(コンセプトを読んだとき、ぞわっとしたのを覚えています。)僕は、少し調べて茂木さんがSONYの研究所の人だということを知り、彼のブログを読むようになりました。

という僕がおもしろいと感じている二人の講演会だったので、多少無理しても行くことにしたわけです。

で、全体を通して印象に残っているのは、佐藤さんは質問に対してたまにピタっととまる一瞬があることと、茂木さんは想像以上に話をする人だということでした。二人は少し噛み合っていないような印象もありましたが、僕の妄想の中では、二人の人間関係はまだ始まったばかりでそのあたりの探り合いと時間の制約のため双方が踏み込めていないのかなぁって勝手に思っていました。

内容的には、佐藤さんの子供の頃の話はおもしろくて、周囲の人を教育することばっかりを考えていたそうです。その結果、周りにいた同い年ぐらいの子供たちは自転車に乗れるようになり、不良たちは漢字練習とかをして良い成績を残すようになったそうです。結果を導くための経路と対象に対する動機付けを考えて実行していたみたいです。非常に理にかなっているのですが、そこに興味を抱いて行動してしまう子供。末恐ろしいってこういうことだなぁと思いました。あとは佐藤さんがものをつくる中で感じてきたことを話してみたり、茂木さんがその佐藤さんの脳を分析していたりといった感じで楽しい時間でした。佐藤さんが言っていた「くらくらすること」っていうのは、まさに人生に驚いた瞬間の一つなんだろうなって思いました。
そういえば、佐藤さんは高校3年間テレビを全く見なかったそうです。そのときの感覚が、その数年後ルービックキューブを触っているときに頭の中によみがえって考えることとかやることがかわったそうです。関係ないですが、僕はまともにテレビを見なくなって確か5年目ぐらいです。そろそろ買った方が良いのかなぁ・・・地デジとかパソコンテレビとかもあるしなぁ・・・。

最後に質疑応答があって、ちょっと聞いてみようかなって思ったんですが、いや、この質問はこの講演会には関係ないんじゃ・・・と思って少しためらっていたところ、そろそろ最後ってときにはっと気がついたら挙手していました(笑)。
「人間が人間として行う活動の根本にあるものは何だと思いますか?」と聞きました。一瞬場内が、しーんとした気がしました(笑)。いやぁ、講演会慣れしていない上に上がり症の僕としてはとても緊張でしたよ。もっと言うことに確信が持てていれば緊張なんてしないんですけどね・・・。(「確信が持てていれば緊張しない」と書いていて、この前友達と話していたことを思い出しましたが、また今度にします。)
佐藤さんは、コミュニケーションに絡んだ何かじゃないかなって言っていたように思います。茂木さんは、自分の中のモンスターを制御して行うようなことなんじゃないかなって言っていたように思います。緊張しちゃって良く覚えていないのが本当のところですが・・・。何となくの印象としてですが、佐藤さんの言うコミュニケーションへの欲求の存在は、同じかどうかはわかりませんが僕も同様で、「我思う、故に我あり」以外の自己のあり方を感じている僕としてはとても嬉しかったです。「誰の中にもモンスターはいる」という茂木さん理論は、デザインというものを狭義には考えられない&人間やれば何でもできるはずと思っている僕にとっても、大賛成な考えでした。しかし、何だか唐突に聞いてしまった気がして、ちょっとお二人に申し訳ないような・・・まあ、聞いてしまったもんはしょうがないです。ありがとうございますです。でも、やっぱりああいう場ではなく、もっとちゃんとお話ししてみたいと改めて感じました。自分が凄いと思っている人と話をすることはとても良いことなんだと思いますが、凄いと思っている遠い立場での自分の思考は、普段の思考とは違うものになりそうだし、もっと素に踏み込んで話をしたいと思った次第です。がんばろうと思います。

茂木さんのサイン

意思と言い訳

ある主張が、意志であるか、言い訳であるか、は難しい。
たぶん難しいのは、その主張がどの範囲のことを含んでいるのかを本人でさえ明確に理解できないからだと思う。

分類と抽象 / Classification and Abstraction

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甥に彼女ができました。
叔父としては嬉しい限りなのですが、複雑な心境もあったりなかったり・・・。早くオープンな関係でいられるようになると良いね。両者それぞれとその相手家族との人間関係が、少しでもあるのと無いのとじゃあ大違いと思うので。

さて、「今年もはじまったばかりなんですが」と書き出そうとした記事がいまだに残っていました。「分類と抽象について、はっとしたので記事にしてみます。」とのことです。

まずはじまりは、「分類と抽象がもしかして同じことなのかもしれない。」と思い当たったことです。それぞれが全く関係の無い存在として結びつくこと無く頭の中にあったことに驚きました。そのぐらい似ている気がしたわけです。それぞれについて書いてみます。

分類というのは、ある集まった事象や物事について、個々に何であるかとかどうできているかとかなんでそうなのかとか、そういう特徴を見つけて、共通する特徴ごとに括ったりして、とにかくその群集を理解するために行う行為です。まあ、知るために行うというか、そんな感じ。

で、抽象というのは、色んな要素でできた事象や物事を分解し、基準に沿って不要な要素を取り除き、それが何であるかを見極める行為です。これもそれを知るために行うことです。

両者の違いとして思いついたことはこんな感じです。
・分類は1つの事象では行えなくて、抽象は1つでも大丈夫。
・抽象は、結果としての性質以外はあまり意味をなさない、結果が主観の表れである
・分類は逆で、抽象の結果を含みながらもそれを取り巻く要素との関係・順位(?)などが重要、結果が他の影響を受けやすい

この二つの説明を書いてみて、言い回しが違うだけなんじゃないかと一瞬思ったのですが、それこそが両者の一番大きな差なのかもしれないと思いました。つまり、僕の頭の中で結びつくこと無く今まで付き合ってきた二つの言葉に対する印象が、言い回しに表れたのかもと思いました。こういう種類の違いを感じたのは久々(初めて?)かもしれません。

僕の経験則的には、分類する過程で抽象は行われているし、抽象を行う前提として分類があるような気もするので、きちんと分けることは難しいのかもしれません。

機能と形態 / function and form

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昨年の11月に聞いた深澤さんの話の続き。深澤さんの話を聞いた後、僕が学生時代に学んだ「形態は機能に従う」「機能は形態に従う」ということについて少し考えていた事がはっきりしてきました。この二つは、機能と形態という二つの大きな要素がものを構成している的な考え方です。
まずそれぞれの考え方を僕なりに定義・説明します。

■ 形態は機能に従う
ものをつくるにあたって「こうなればいいなぁ」という要望(機能)が生み出され、その機能を実現するための形態を考えていくのが「形態は機能に従う」です。こういうつくられ方をしたものの例を挙げます。
今年のGOOD DESIGN AWARDを受賞したインスリン用注射針
「痛みを感じたくない」から「針を細くした」ものです。

・トンネル
「この山の反対側に遠回りせずに行きたい」から「構造強度の強い卵形の穴を掘った」ものです。

・新幹線
「遠くに短時間で移動したい」から「とても早いスピードが出ても安定した走行が可能な形にした」ものです。


■機能は形態に従う
色々と考えてみたところ、ものが既に目の前に出来上がってしまっているため結果的に「形態は機能に従う」と捉える事も可能な場合があり、こっちを説明するのは難しいのですが、まず例を挙げてみます。

・ぬいぐるみ
「動物の赤ちゃんってかわいいじゃんと思った」から「それっぽくつくってみた」ものです。

・ポスト
「僕ら(郵便局の人)のテーマカラーは赤だ!」から「僕らの装置は赤色でつくった」ものです。

・王座
「僕は偉い」から「誰も見た事の無い形で豪華にした」ものです。

この三つについては、それぞれどういうものだ?と考えてみたところ、ぬいぐるみには寂しさを紛らわす機能や良質な睡眠を生む可能性がある機能が備わっているかもしれないことがわかったり、ポストはゴミゴミした街の中にあっても目立って良いじゃんと思えたり、王座は特別な椅子に座っている自分は特別だと思えるようになったりと、いわゆる機能と言えそうなことが備わっていることが後になってわかっているんだと思えました。つまり、「何か良いんじゃないかなぁ」という気持ちからできたものだけど、結果として新しい機能を生み出しているのがこの考え方なんじゃないかと思いました。

って書くと、「『機能は形態に従う』理論によって新しくつくられたものが、『形態は機能に従う』理論によって洗練されていく。」のかと思えたりもしましたが、たぶんそれだけじゃないっぽいです。「形態は機能に従う」から新しくつくられるものもあるんでしょう。でも「機能は形態に従う」だけでは洗練はできないものなのかもしれません。(そもそも洗練なんてことが必要ないものもありそうだし)

でも、全く新しいものをつくりたいとき、「機能は形態に従う」で突っ走ればどこかに出口が現れるんだな!とは思えません。両方の思考を自分なりに理解した上で、1つの思いつきに対して(どちらが先とは決めず)交互な思考で思いを巡らせる事が大切なんだろうと思いました。で、それをやっているのが深澤さんなんだと思います。彼は、「形態は機能に従う」から生まれたっぽい既にあるものにも、「機能は形態に従う」をぶつけてみて「お、こっちの方が良い!」って思えることを見つける中からものをつくっているように感じます。そして、自分を含め人がニヤリとできるかどうかが、彼が思う「お、こっちの方が良い!」っていう基準になっているのだと思います。(本心から尊敬の念を込めて)彼は本当に幸せな人です。

僕は、この考察をしてみる前から、機能と形態をそれぞれにわける事そのものが難しいんじゃないかと考えていました。つまり、どこまでが機能で、どこまでが形態かという点です。例えば、ポストの赤い色は形態でもありますが、見つけやすいという機能ともとれます。では、どちらがどちらに従っているのか、見つけやすいから赤くしたのか、赤くした結果見つけやすくなったのかということです。これはどちらも可能性があると思い、実際につくった人がどちらを意識していたのかが重要なことでもあり世間が決める事でもあります。
機能も形態も人間がつくりだした曖昧だけど明確な括りにすぎず、そこだけにとらわれてものをつくる事はあまり意味が無いと感じていました。それらとは別軸で、人間の本能というか、人間を含めた大きな意味での自然というものが、はっきりとは見えていないけど必ず作用していて、それをつかんでものをつくることをバックグラウンドで必ず考えていないと、今の自分からは脱せないと感じていました。今回の考察を通してその考えは案外はずれてはいないなと思えました。

この考察で、こういうことなのかもと思ったのはこんな感じです。
・機能というのは、何となく良いことが具体的に何であるかを人間が知った結果である。
・機能には数学と同じで1もあれば0もある。0は”有る”ものの量が無い状態を表している。
・形態には数学でいうところの1もあれば0もあるのだけど、無というものがある。
・「形態は機能に従う」理論でできたものは、いわゆる便利なものである。
・「機能は形態に従う」理論でできたものは、いわゆる便利なものもある。
・「形態は機能に従う」も「機能は形態に従う」も大切なプロセスの一つである。

ちょこっとメモ
・色々調べているうちに面白そうなことが書いてあるなと思ったページはここ
・極端な気がするけどちょっと見てみたいから本を買ってみようと思ったページはここ
・何だか面白そうな考えと動きかもと思ったページはここ

パナピンコ / Panapinco

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知人A「ちょっとお腹すいたよねー。」
僕「じゃあご飯にしましょう。」
知人A「あんまり時間無いし、近所のあそこ行こう。」
僕「おっけーす。」

幾人かの女子高生とすれ違いながら、所々に結構なボリュームの緑に白い壁が映える、かなりオープンな空間のお店に到着。

店員X「いらっしゃいませ。」

メニューを見る。パスタ¥583が印象的。

知人A「俺、ツーパスタとパナピンコ。あ、持ち帰りで良いよね?」
僕「持ち帰りでいいっすよ。」(なるほど。パスタは二つで頼むとちょうど良い量なのか。僕は一つで良いかも・・・。)

って、パナピンコって何だ?!
っていう夢を見ました。
僕の中にかすかに残った印象から判断すると、”サラダとデザートの中間みたいなもの”だったと思います。
Googleで調べてもヒットしませんでした・・・。

存在の耐えられない軽さ / NESNESITELNÁ LEHKOST BYTÍ

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ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読みました。1968年のチェコスロバキアを舞台に、多くの浮気をする夫と、浮気を見ぬ振りをする妻を中心とした人間模様を描いた物語。さらにそれを哲学的論点から著者が分析して、ところどころにナレーションをいれている作品です。
この本、とても面白かったです。考えたことや驚いたことがたくさんありましたが、一番の関心はキッチュ(俗悪なもの)についてです。ほとんどの人間はキッチュな意識を持ち、自分を正当化するため自分の周りも含めて正当化しているのかもと思いました。どういう事か、著者の本意からは外れているかもしれませんが僕的な意見を書いてみます。

著者の哲学論の中で著者が子供の頃に、「もし人間が神に似せられてつくられたのなら神は腸を持っていて排便をする」「もし神が排便をしないなら腸を持っていないことになり人間は神に似ていない」という、その昔議論されていたらしい問題に自分の中で直面したそうです。この問題はその神を信じるものからすれば神に対する冒涜的なことです。しかし、その神に対する信仰心の無いものからの質問に答えるためには真実を知る必要があります。しかし、やはり冒涜なので無理です。そこで信じるものたちは神が排便なさらないとしていたそうです。これこそがまさにキッチュというわけです。もう少し付け加えると、著者は神を信仰していた訳ではないのにも関わらず、これを冒涜であると感じたそうで、キッチュというのは信仰心に関係なく人間の中にあるのだと感じたようです。少し前の日本に置き換えると、アイドルはトイレにいかないってのと同じ話ですね。

で、生きていく上でまさにキッチュを感じる瞬間というのは、まさかそれがキッチュであるとは思っていないが、ふと少し考えるきっかけがあるとわかるこのキッチュというものは、大なり小なり生活の至る所にありそうだと思いました。そしてこのキッチュがある場面では人間の思考を妨げる原因になったりもするんでしょうね。生きるためにはキッチュが必要そうですが、最低限のキッチュでいたいもの・・・なのかどうかは、まだ、僕の中ではキッチュという概念が根付いたばかりなので、もう少しよく考えないとはっきりとはわかりません(苦笑)

あと、「真実に生きること」について少し。物語の中の登場人物で愛人関係にある、フランツという男性とサビナという女性がいます。この二人はそれぞれ「真実に生きること」を重んじて生きていますが、結果としては正反対でした。

女性の思考はこうです。

サビナにとっては真実に生きるという事、自分にも他人にもいつわらないということは、観客無しに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識する事は嘘の中で生きる事を意味する。(中略)自分のプライバシーを失う者は、すべてを失うと、サビナは考える。そしてそれを自分の意志で放棄する者は異常である。そこでサビナは自分の恋をかくさねばならないことを苦にはしない。逆に、そうしてのみ「真実に生きる」ことができるのである。

男性の思考はこうです。

フランツのほうは逆に、人がプライベートなときと公の場でまったくの別人になるという、個人の生活と公人としての生活の区分の中にあらゆるいつわりの源があることを確信している。彼にとっては「真実に生きる」ことは個人と公人の間の境をとり払うことを意味している。そして秘密は何ひとつなく、誰でもが見ることのできる「ガラスの家に」住みたいというアンドレ・ブルトンの文を喜んで引用するのである。

サビナは観客をつけないためにプライバシーをかくす事で真実を生き、フランツはプライバシーを全ての人と共有することで真実を生きているわけです。で、この「真実に生きる」こと、僕はどうしているんだろうって考えたりしました。キッチュにも通ずる話のような気もします。これも難しい。でも、結果はどうあれ真実に生きたい気がするので、咀嚼していこうと思いました。

あと最後に、人間が人間であることの一番の理由は、自分自身の存在に気がついている事であると、著者は本の中で表現しています。簡単に言うと、鏡を見て自分であると認識できれば人間であるということです。 必要十分な条件ではないかもしれませんが、なるほどなぁと思いました。そして全てでは無いですが、だから他の動物は人間から無償の愛を受け取る事ができるのです。となると、人間間の無償の愛は?と考え始めましたが、まとまりきっていないのでまたそのうち。

ウェブ進化論 / The web theory of evolution

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梅田望夫さんのウェブ進化論を読みました。とてもすんなり読める内容で面白かったです。本に対するやや客観的な感想としては「きちんとまとまっていて良い内容だな」って感じでした。
僕は仕事柄ウェブに触れている時間が多いこともあり、これを読む以前から今後のウェブについては何となく考えていて、こうなればいいのになぁってのはポコポコとあったりしました。今後このポコポコを何らかの形にしていきたいですが、その前に、この本を読んだおかげでそのポコポコ浮かんできた元を僕もちょっとまとめてみようと思いました。梅田さんにありがとうございますです。

さてウェブでは今、Web2.0だ!いや、そんなのは言葉だけだ!いやいや、実際あるじゃん!と色々と言われつつも、新しいサービスが次々とつくられているわけです。色んなサービスができるのは良い事ですが、僕的な今後の展開について必要かもと思うことは以前の記事でも少し書きましたが、牽引・浸透させる手段を考えていく必要があって、このときに書いた方向での思考は、誰かがやっていかないと駄目だろうなと相変わらず思っています。Googleの言葉を借りれば、世界政府がやるべきなんでしょうね。
他にも色々あるのですが、僕の思考の元には何があるのかという自問自答をしてみました。答えは、(あやふやな所が多く明確ではないかもしれませんが)人間は人間であろうとするもの、といういつものっぽい結論が待っていました。

人間はこれまで色んな発明をしてきました。エジソンが蓄音機や電話やレコードプレイヤーをつくったり、レジナルド・フェッセンデンっていう人がラジオをつくったり、そのうちテレビができてみたり、自転車・自動車・機関車・新幹線・飛行機と挙げればキリがないです。これらの大発明品というやつのほとんどが、人と人の距離を近づけるためにつくられた(もしくは結果的にそうなった)と僕は思っています。
今はそこにいないのに遠くの人にこの声を届けることができる。今はそこにいないのに遠くの人にこの風景を届ける事ができる。驚くでしょ?驚くよね?
そんな気持ちから色んな発明品は生まれたんだと思います。
では、発明した人は何故そういうことを感じたんだろうともう一歩突っ込んで考えてみました。

「昔は今ほど物があふれていなくて良かった。今では資本主義的な世の流れから人は物欲に支配されている」なんてちょっとネガティブな思想が見えたりする今の世の中ですが、発明されたものが持つ本質は昔から変わっていません。そもそも、人間は自分以外が発する要素を自分で感じられる距離に置く事が、人生において自分が驚く(感動と言っても外れではない)ための一つの手段であると感じているのではと思うのです。そして、その手段を極力多く実現し、驚きを他の人と共有しようとする事がコミュニケーションに繋がると心の奥底で感じていると思うのです。それがまさに人間が人間であろうとすることなんじゃないかなと思います。
ただ、ものの本質はそのものが浸透すればするほど、その物と人間や他の物との関わりが多様になりすぎて、本質以外に付与したものが目立ち始めたりします。そのあたりは人間の欲望メカニズムにも大きく影響されていると思われますが、話がややこしくなりそうなので今回はとりあえず置いておきます。
本質以外のものがいくらついたとしても、発明されたものの全ては人間にとって大きな役割を担い続けていて、ウェブにもそういった担っていくはずの役割があると思っています。今までの社会では不可能だった事の一つ(かそれ以上)がその役割になるわけです。

で、僕が思うその役割とは、その瞬間の全人類のことを知る事ができるということです。いわゆる歴史や研究として、過ぎ去った全人類を今まではとらえてきましたが、今のこの瞬間を歴史の中にいれられるとすると、人間は自分たちのことをもう少しわかるようになるんじゃないかと想像していたりします。さらに、この時代以降の情報群は世代を超え時代を超え蓄積されてもいきますので、今までよりも深く知るきっかけは多くなっていくのではないかとも思います。
で、こっからは妄想ですが、それをもって人間の内面に対して改めて驚いて(それをもってコミュニケーションして)いければ、人の人に対する信頼や愛情は今よりも大きくなっていくんじゃないかと思います。現状、思い悩むほど「混沌とした現世だ」なんて考えている訳ではないですが、いつ崩れるともわからない世の中ではあると思うので、色んな事に関して、もう少し良い折り合いの付け方ができるようになっていくんじゃないでしょうか。

と、同時に危惧もあります。これからもしかすると自分の家のことが数多く残っていくかもしれない訳です(僕はそう思っています)。その中では僕たちがあまり触れた事のない、自分の親やさらにその親たちのリアルな姿をありありと感じる事ができます。例えばですが、今までは親の事を自分のことと同じ人間であると感じる年齢というのがありました。大体は仕事をするようになったりして感じるものです。しかし、今後は子供が自分の親が自分と同じ歳だったことがありありと目の前に現れ、そこに自分を重ねてみたりするわけです。それが良い影響を及ぼす事も考えられますが、悪い影響もきっとあるでしょう。それを良しとするか悪しとするかは、慎重に考えていかないといけないでしょうね。

何だか書いてみてまとまったんだかまとまってないんだかわかりませんが、久々に記事を書けたという事で良しとします。

合理化と複合化 / Rationalizing and making to compound

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「消費者の嗜好の変化に対応策を取れなかった。創意工夫の問題だ」

商売というビジネスにおいて、こう言われることは普通になっている。他ががんばる分、自分がやらないで生き残れる訳は無いと。

じゃあ、医学の最先端があるとして、それを知る努力をしないまま死んでしまう人は当たり前だというのはどうだろう。きっと、それはこれとは話が違うと竹中さんも言うんだろう。そう、確かに違う。でも、ある面から見るとそういうことだと思う。

人にはみんな、自分の考える範囲(教育テレビ風に言うと役割り)っていうのがあって、行動を共にする周辺環境においてそれが多くは重ならずなるべく均一に広がっている状態なら努力のしようもあるんだろうけど、偏った周辺環境の中で最小単位である家(人)がそれぞれがんばったところでできることは限られている。極端に言うと、地球上の人全員に会える人間はいないってことで、知らないことが悪いわけじゃない。

で、均一な広がりという大きな流れを見ることができるのは、まあぱっと思いつくところで行政なんだから、この大店法について、創意工夫の問題だというのであれば、行政(辛く見て自治体)の問題じゃないかと僕は思う。

その商店街から人が姿を消したのは、人がいないから。人がいないと思ったから、お店が消えたしお店をやろうとした人も消えた。お店が消えたから、人が消えた。このどこから始まったかわからない種類の悪循環を改善するには、お店に対する個人の工夫じゃ解決しようもないでしょう。
ただ、一方で個々人が立ち上がらないと動かないのも事実ではあるから、個人としてはやはり最善の努力を惜しまない心構えは必要だとも思う。

まあ、何にしても、自分にとって活気のあった空間が、年齢とともに姿を消してしまうこの事実に対して、対して違和感も抱かないで、創意工夫が足りないとだけ言うような人っていうところが一番の問題なんじゃないかなぁと思いました。(本当にそれだけならね)

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=21530&media_id=2